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2021年5月27日木曜日

情報流

 最後に用意した「情報流」は充分な時間がとれなかった。「内閉化する『個性』」と「情報流」にそれぞれ1時限を使えたクラスが一つだけあったが、どちらの考察も1時限を使ってさえ、まだまだ深めることができそうだという手応えだった。

 これまでの読み比べ同様、切り口によって、さまざまな分析が可能だ。

 ただ、西垣通の「情報流」の比較は、ここまでの3編とは違った難しさがある。抽象度の違うところに土俵を設定する必要があるのだ。

 ここまでの鷲田、斎藤、平野、土井は、言わば「自分」論だ。主観的な自己意識の様相について、その背景からの分析を述べている。

 それに対し、「情報流」は言わば「人間」論であり、その図地一体となった「社会」論である。「人間」についてのある見方が提示されていて、上の諸氏の論は、それらの見方の内部で、それらの人々が「自分」をどう捉えているかという主観が問題にされている、と言える。

 どのような「人間」観が提示されているか?


 対比構造は明確だ。

孤立した個人/情報流の一部

 ここに時間軸を持ち込んで、三層の対比図を画く。

 プレモダン/ モダン  /ポストモダン

共同体の一部/孤立した個人/情報流の一部


 この、近代(モダン)的「個人」観が、鷲田の言う「自由な個人」であり、斎藤・平野・土井らの言う「本当の自分」の幻想につながってくる。

 それに対して西垣の描く「個人」は、「情報システム」の一部だ。そこでは「個人」は、周囲の世界の構造の中に置いて捉えられ、「個」と「群」が入れ子状のフラクタル図形的イメージで描かれている。身体精神社会も、それぞれ「情報流」のアナロジーで捉えられている。

 とすれば、「情報流」の考え方による「個人」は、平野の言う「分人」や、土井の言う「社会的個性指向」につながってくる。

 つまりみんな「近代」的人間観に対する反省や批判としてそれぞれの論を構築していると言っていいのである。


 一方「『である』ことと『する』こと」は、特に前半部の「非近代」批判においては、正しい「近代」を目指すべきだと言っている。それは自律した個人が集まって作る社会のイメージだ。丸山にとって「近代」はまだ明るく輝く未来だったのだ。

 それは「『市民』のイメージ」にも共通している。アメリカの陪審員制度をモデルに日野啓三が描きだす「市民」は、西垣の言う「神の理性を分有する」「個人」である。新興国アメリカをモデルにすれば、近代もまだまだ新鮮な理想と見える。

 そこに「自由や責任」が生ずる。そしてそれは同時に「つながっていたい」という寂しさをも生む。


 一見したところ無関係に見えるそれぞれの論が、「近代」を接点としてあらたな相貌を見せる。


2021年5月14日金曜日

「キャラ」化する若者たち 3 鷲田と斎藤の共通点

 対比図を画くことは、思考や議論の整理のためにきわめて有益だ。

 文中の語をマークするのは、文章を読み返す便を高めるが、ノートなどに書き出してレイアウトするのにはまた別の便益がある。全ての論理操作を頭の中だけでやろうとするのは無理がある。とりわけ、他人との議論においては、共有できる視覚情報があると便利なのは間違いない。

 そして、これは自分で画かなければならない。対比図を画くこと自体が学習だからであり、できあがったものは、まあそれを「使う」ならば良いが、それを「理解する」などというのは国語学習の目的ではない。したがって、黒板に画かれるのを待ってノートに写すなどというのは本末転倒である。


 さて、丸山の「である/する」図式は、左から右への移行を「近代化」と捉えていて、この推移は鷲田にも斎藤にも共通だ。

 尤も斎藤がそれを「近代化」と呼ぶ保証はない。文中では「多くの若者が(必然性への)〝信仰〟を捨てつつある」「諸般の事情から『すべては偶然』教の勢力が優勢である」という言葉で、左辺から右辺への移行を表現しているが、これを「近代化」と見なすのはこちらの解釈の仮説だ。


 「ぬくみ」の対比図と「『キャラ』化する若者たち」の対比図が、同じ軸に基づく対比なのだと見なせるなら、2人の認識は共通していると考えていいわけだ。

 例えば「キャラ」とは、友人との関係における「資格・条件」なのだと言えるのでは? 免許という資格があることによって自動車の運転が許されるように、ある人は「いじられキャラ」認定という「資格」を得ることで友人関係への参加が許されているのかもしれない。


 対比図とその対応が見渡せたことで最初の問い、二つの文章の主旨が共通していることが言えるかどうか、あらためて考える。

  • 若者はつながりを求めている。
  • 若者は「キャラ」化している。

 両者が共通していることを示すため、同じ言い方で両者に適用できる表現を考えてみる。

 上の二つの、原因は何か? なぜ「つながりを求めている」のか? なぜ「キャラ」化しているのか?

 もちろん「近代化」が原因だといえば共通していることになるのだが、「近代化」だと抽象度が高すぎて、まだ距離がある。「近代化」と上の二つの文をつなぐ抽象度の表現を考えたい。

 話し合いの断片を聞いていると、どちらかの文章の言葉をそのまま使っていて、「どちらでもない・どちらでもある」ような共通した表現にならない人もいるようだ。

 両方の文章の論理を辿って「つながりを求める」「『キャラ』化する」の直前に、共通する状況を表現してみる。次のような表現が想起できれば良い。

安定した自分の存在を見失っているから。

 「自分の存在」を「自己」「自我」「アイデンティティー」などの言葉に置き換えてもいい。

 こうした表現を案出する抽象化の能力は、思考力の重要な要素だ。


 もう一つ。上の二文に表われた鷲田と斎藤の認識が共通していることを示すため、それぞれの文が、実際にどのような「症状」の相似があるかを言い表してみよう。

 この問いは趣旨がわかりにくい。答えを一つに絞るような問いの形を提示できない。考える皆も、何を言えばいいか迷っている。

 「つながりを求める」「『キャラ』化する」が似ていると読者が感じるのはなぜか?

 読者は「近代化」という背景が共通しているから似ているなどと考えるわけではあるまい(そもそも斎藤は「近代化」などと言っていない)。2人の筆者が捉える若者の姿に、ある共通した気配を感じるから、2人の言っていることが共通していると、まず感じるはずなのだ。その相似に潜む共通性を言葉にしてみる。

 たとえばこんなふうに。

他者の承認を通じて自分の存在を確認しようとしている。

 実際にこれが二つの文章のどのような表現から読み取れるのか?

 「ぬくみ」でいえば「他者の意識の宛先として自分を感じる」「『自分の存在』を、私を私として名ざしする他者との関係の中に求める」といった一節が指摘できる。

 「『キャラ』化する」でいえば、「コミュニケーション」という語の頻出がそれを表わしている。「コミュニケーション」によって「自分の存在」を確かめようというのは、他者を通じた自己確認だ。

 これはひっくり返して言えば、どちらも、自分の存在を自分自身では確信できずに不安になっている、ということだ。これが「近代化」によって人々が陥っている状況だという認識において、二人は共通しているのである。


「キャラ」化する若者たち 2 対比図を作る

 鷲田の言う

若者は他人とのつながりを求めている。

と、斎藤の言う

若者は「キャラ」化している。

は、共通した認識を示しているのだろうか? また、それを「である/する」図式で語ることは可能だろうか?


 例えばこれらの文を「つなげる」ことはできる。言い換えたり、「つまり」「なぜなら」などの関係を示したりすれば、両者は容易につながる。

 だがそれが「つなげる」ことを目的とした恣意的な変形でないと、なぜ言えるのか? 関係づけることが自己目的化した短絡かもしれないではないか。

 一方で、それぞれの文章の論理をそれぞれの文章中の言葉で語ったら、それらは別々でしかない。表われた外見は違っている。確かに。

 だがそれらは本当に、単に関係のない別々の認識を示しているだけなのだろうか? 同一の構造の、別の断面を示している可能性はないのだろうか?


 例えば、上の二つの文の背景は、それぞれの筆者にどう把握されているか?

 それぞれの文を「症状」として見たとき、その「病因」はどのように語られているか?


 「ぬくみ」については、「『である』ことと『する』こと」との比較によって、その背景について、ある程度把握している。問題は今回読む斎藤だ。

 斎藤は「『キャラ』化する若者たち」で、若者たちが「キャラ化」するのはなぜだと論じているか?


 問題を構造化しておくと考えが整理され、語り合うためにも便利だ。

 ということで「『キャラ』化する若者たち」の対比をとろう。

 最初の2頁の見開きから、目立つ対比的キーワードを3組探そう。

 さらに、その対比軸にそって、いずれかの領域を特徴付ける形容や条件を挙げる。いつもの対比図作りだ。


 まずは3組。

    必然/偶然

   固有性/匿名性

キャラクター/キャラ


 これは文脈の論理から、いわば機械的に抽出できるはずだ。できなければならない。

 ここにさらにこの対比を特徴付ける形容を加えていく。一方に特徴的な形容が文中から見つかったら、もう一方は対義的に補う。

取り替えきかない/きく

   記述不可能/可能

   世界が一つ/複数

 これ以外に「運命/確率的」というのが対比的ではないかとの意見が各クラスで出た。離れたところにある二つの言葉なので、これを対にして挙げた者は論理の把握力が強い。これらは言葉の意味的にはまるで対義的な言葉ではないが、確かに文中では対比的な意味合いで配されている。

 一方「根拠がない/ある」と「信仰」も候補に挙がった。これらは冒頭で左辺を特徴付けるように読める。しかし次頁まで読むと、「いずれの信仰にも根拠がない」と言っているので、左辺/右辺によらないのだと読むべきだろう。

 もう一つ、気がつく者が少ないが、取り上げたかった言葉がある。各クラスでこれを挙げた者は誇って良い。

 幸福/不幸

である。

 本文では「必然」を信じられるのは「幸福」だと言っている。つまり右辺は「不幸」なのだ。


 さて、みんな薄々気づいているだろうが、この対比図は、「である/する」の対比だと理解することができる。

 とすれば「ぬくみ」の対比図とも、向きを揃えて並べることができるということになる。

 コンテキスト/自由な個人

このままの自分/資格・条件


 対比図を整理したら、鷲田と斎藤の認識が共通していることを語るのも大分楽になったはずだ。

 「このままの自分」は「『である』ことと『する』こと」の「かけがえのない個体性」との共通性を確認した。これはこのまま「取り替えのきかない固有性」と同じだと見なせる。

 「自由な個人」が「全てが『偶然』教」とどう共通しているのかは、にわかには語れない。が、そこに通じるものがあることは感じ取れるだろうか?

 また、「キャラ」と「資格・条件」が対応していることには容易に気づくが、それをどう変形していくと両者の共通性が示せるか?


2021年5月7日金曜日

「キャラ」化する若者たち 1 斎藤環参戦

 鷲田清一「ぬくみ」を、丸山真男「『である』ことと『する』こと」の枠組みを援用して読み解いてみた。

 ここに、「ちくま評論選」から、斎藤環の「『キャラ』化する若者たち」を加えて、さらに問題を考察してみよう。


 鷲田と丸山の論考の大きな違いは何か?

 見解の相違ということではなく、論点の重心の違い、といったようなものである。

 前項の通り「丸山=モダン/鷲田=ポストモダン」という相違がまずある。

 それ以外に、丸山が論じているのは社会の仕組みであり、鷲田の論じているのは個人の内面についてだ、という相違も挙げられる。

 この「社会/個人」という相違は、丸山が政治学者であり鷲田が哲学者であるという専門分野の違いからすればなるほどな感じがする。

 さて、斎藤環は何者か。精神科医である(ついでに筑波大の医学群の教授でもある。サブカルにも堪能で、もちろんエヴァ論もある)。

 ということでまずは当然鷲田の論との近親性が感じられる。

 だが、何事かを語るには「である/する」図式がやはり便利だ。言葉がシンプルで、かつ包括的だからだ。そうなると丸山との関係も視野に入れる必要がある。

 そして「近代」についての認識が共通していれば、それをベースにそれぞれの認識を比較することができる。


 さて、読み比べれば、様々な方向で、様々な切り口で、様々な論点について考察できる。たっぷり時間をとって話し合いをさせて、なるべく多くの発表をききたい。どこにどんな可能性があるか、それらをつぶさに見たい。


 が、共通した論点を示さないと授業としてはまとまりが悪い、とも言える。話題がそれぞれにばらばらでは噛み合わないかもしれない。

 そこでこちらで問いを立てる。


 「ぬくみ」を次のような一文で表現してみよう。

若者は他人とのつながりを求めている。

 同じく「『キャラ』化する若者たち」を一文にする。題名をそのまま文章の形にする。

若者は「キャラ」化している。

 もちろんこれは斎藤の論の入口に過ぎず、文章全体の趣旨を充分に酌んでいるとはいえないが、一文という限定の中ではまずまずの表現だろう。


 さてこれら二つの文を「つなげて」みよう。どちらから出発してもいい。言い換えたり、「なぜなら」や「つまり」で前後を補ったりしていくと、もう一方の文にたどりつくだろうか?

 それができるということはつまり、それぞれの一文で示された認識は、表われ・切り口は違うものの、同じ認識を示していると考えていいのだろうか?


ぬくみ 4 新たな「である」

 「ぬくみ」と「『である』ことと『する』こと」の語句の対応関係が出揃ったところで、「ぬくみ」の趣旨をもう一度「である/する」図式で語りおろしてみよう。

 近代は封建社会にあったさまざまな社会的コンテキストから人々を解き放った。そこではかつて「である」論理に人々を結びつけていた中間世界が消失して、人々は「自由な個人」となる。だが自由な社会で「資格・条件」といった「する」価値が求められるようになった人々は、かえって「このままの」自分の「である」価値を認めてもらいたくて、他人との「つながり」を求めるようになる。

 前項で挙げていない「中間世界」を使ってしまったが、これは何か?

 何の「中間」かといえば、社会と個人の「中間」ということだ。「中間世界」が社会と人々を結びつけていたのだから、これは「社会的コンテキスト」の言い換えであることがわかる。

 具体例は?

 「社会的コンテキスト」は例えば「地縁・血縁」なのだから、村落共同体や親族、職種毎の組合組織(古い起源の農協や漁協、職人組合)、宗教組織(教会や檀家)などを考えればいいだろう。

 つまり「社会的コンテキスト」=「中間組織」は、そこに所属することで人々にアイデンティティーを保障していたのだが、それが消失すると、「個人はその神経をじかに『社会』というものに接続させるような社会になっていった」。そのような個人は「漂流する」。


 こうした事態において何が起こるか?

 次の一節は、やや読みにくい印象もあるので、考察してみよう。

 この部分を「である/する」図式にあてはめるとどのように言えるか?

 そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化という形で大規模に、緻密に組織されていかざるをえず、そして個人はその中に緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。つまり、自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できないのだ。社会の中に自分が意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であって自分にとっての意味ではないらしいという感覚の中でしか確認できなくなっているのだ。

 「『自由な個人』が群れ集う都市生活」は、丸山が「赤の他人」が集まっていると表現する近代社会のことだし、社会が「システム化という形で大規模に、緻密に組織されてい」くというのは、「する」化しているということだと考えていい。

 なのにそこで起こる「つまり」以降のような事態は、奇妙に「である」論理に見えてこないだろうか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できない」も、わかったようなわからないようなモヤモヤ感がある。

 例えばここに、後から言及される「資格」の問題をからめて説明してみる。

 どんな資格を取るかは個人の自由な選択に任されている。だが、実は資格とは社会がその人の能力の適否についての決定権をもっているということなのだ。どのような能力を「資格」として認定するかも、どのような能力を求めるかも、社会側の都合だ。個人はそれに合わせるしかない。だからどの資格をとるかの選択権が個人の自由だとしても、結局は資格によって個人の価値が定められることは、「社会のほうから選択されている」ということなのだ。


 この、「する」化の果てに見えてくる光景がなぜ「である」社会のように感じられるのか?


 「自分で選択しているつもりで実は社会のほうから選択されている」の「つもりで」が逆接であるとすると、「自分で選択している」が「する」論理なのだから、「社会のほうから選択されている」が「である」なのではないか、それに「選択されて」という受身形も「である」論理っぽい、と言ったのはH組のYさんだ。鋭い指摘だ。

 丸山の「である」論理とは、封建的な身分制に代表されるような、既存の社会システムが所与のものとして人々にもたらされる状態を言っていた。そこに「安住」することなく、「不断の行使」によってそれを実効性のあるものとして機能させることが「する」論理だ。そこでは社会は創造したり変革したりするものとしてイメージされる。

 鷲田が上の一節で描写する社会のイメージは、そうしてみると随分と「である」的だ。社会が「する」論理になるほど、個人にとって社会は「既存・所与」のものであるような「である」的なものとして立ち上がってくる。

 このねじれはどう考えたらいいのか?


 これは、この部分の全段落の「中間世界の消失」からの論理の流れを読み取る必要がある。

 「中間世界の消失」は、個人に、直接社会と対峙することを強いる。

 そのとき、複雑化し、巨大化した社会は、個人にとって動かしがたい支配的な存在となる。そこには個人の自由はない。こうした「支配的」で「不自由」な存在は、かつての封建制や身分社会、村落共同体のように「である」論理によって人々を抑圧する。

 とすれば、そこに組み込まれていかざるをえない「社会システム」は、確かに「する」原理によって構築されていったはずなのに、個人から見ればやはり既存の存在であり、「不断の努力」などで我々「市民」が作り上げていくようなものではない。

 とすれば、これは「封建的」な「身分制度」に替わる、新たな「である」システムなのだと言ってもいいのかもしれない。


 こうした論点は「『である』ことと『する』こと」には見られない。

 それは、丸山がモダン=近代の問題を論じているのに対し、鷲田がポストモダン=現代の問題を考察しているからだと考えてはどうだろう。

 つまり、近代はプレモダン=前近代的「である」論理から「する」論理への移行を目指したが、その末に新たな「である」論理が台頭しているのが現代の状況なのだというのが鷲田の認識だと考えればいいということかもしれない。


2021年4月28日水曜日

ぬくみ 3 近代という問題

 具体的な手がかりとして、まず「『である』ことと『する』こと」と「ぬくみ」に共通する「近代」という言葉がどのような意味で使われているかを確認する。


 「『である』ことと『する』こと」における「近代」はもう充分馴染んでいるだろうか。

 165頁や169頁下段の記述から、「である」価値・論理から「する」価値・論理への移行を意味していると捉えられる。

 一方「ぬくみ」では次のように言っている。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、「封建的」と言われたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、あるいは証明しなければならない社会を作り上げてきた。少なくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会を目指して、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的コンテクストから自由な個人ということだ。

 「近代(化)」を共通項としてこれら二つの文脈を重ねてみる。

 何が言えるか?


 「封建的」な社会が「である」社会であることは「『である』ことと『する』こと」で述べられている。つまりそこにある「血縁・地縁」などの「くびき」「社会的コンテクスト」は丸山の言う「である」論理である。

 鷲田はそこから「身をもぎ離」すことが「近代化」だという。

 丸山の「『である』ことと…」の「近代化」は上記の通り「である」から「する」への移行なのだから、丸山と鷲田、二人の言う「近代」は一致していると見なせる。

 「身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも」という羅列は見事に「である」論理を列挙していて、それらに「囚われない『自由な個人』」とはつまり「する」論理にしたがって動く存在だということだ。

 「自由」が「する」論理に基づくことは「『である』ことと『する』こと」でも述べられている。つまり「自分が誰であるかを自分で証明しなければならない」とは「不断の検証・行使」が必要だということだ。


 さらに、「ぬくみ」から「する」論理・価値を表わす言葉を探そう。何か?

 勘の良い者はすぐに指摘した。「資格」や「条件」である。

 「である」論理から解放された「自由な個人」はむしろ「寂しい」。人々は「資格」や「条件」といった「する」価値を示し続けなくては社会に存在し続けることができない。それに疲れた人々は、むしろ「このままの」自分(223頁)=「である」価値を認めてほしいと思っている。


 整理してみよう。

である/する

 左辺から右辺への移行が近代化である。

    封建社会/近代社会

 血縁・地縁、身分・性・民族/個人

 社会的コンテキスト/個人

 これらは一対一対応になっているわけではない。大体左辺か右辺かが示されている、というくらいだ。

 さてこうして「する」化=近代化が生み出すのは、大規模にシステム化された社会だ。

 そこでは、個人は「資格」「条件」が求められる。

    /システム化

    /資格・条件

 これらはなぜ「する」論理なのか?

 説明のために「する」価値・論理の言い換えのバリエーションから適宜選ぶ。

 たとえば「機能」「業績」「実用の基準」「効率」などが想起されれば良い。

 「システム化」された社会は「実用の基準」に基づいて「効率」的に運用される「する」論理で動いているし、「資格」はそうした社会で個人が持つ「機能」のことだ。

 そうした「不断の検証」に疲れた人々は「このままの」自分を認めてもらうことを欲する。これは「『である』ことと『する』こと」の「それ自体」「かけがえのない個体性」などと対応される。

 「このままの」自分/

      それ自体/

かけがえのない個体性/


 「ぬくみ」は単独では対比が見えにくく、それが趣旨を理解しにくい原因のひとつなのだが、こうして「である/する」図式を援用することによって、鷲田の捉えている現代社会のあり方が対比構図にはまってくると、その主張が明瞭になる。


ぬくみ 2 読み比べる

 ところで「ぬくみ」とは何か?

 本文中には一度も「ぬくみ」という言葉が登場しない。

 とりあえず「ぬくみ」という単語はどういう言葉なのか?

 「甘み」と「甘い」という関係から「ぬくみ」は「ぬくい」という形容詞の名詞形であると推測される。「ぬくい」は関西圏で使われる傾向のある言葉で、関東圏にとっては「あたたかい」の方が馴染みがある。それを名詞化するならば「あたたかみ」あるいは「あたたかさ」であり、「ぬくい」も、「ぬくみ」よりは「ぬくもり」という名詞の方に馴染みがある。

 本文中に登場しないこの言葉を、先ほどの一文要約に使ってみる。

 既に作った文によっては操作は難しくない。「現代の人々はつながりを求めている。」を、そのまま「現代の人々はぬくみを求めている。」と言ってしまえばいいのだ。


 実は「ぬくみ」という文章は、教科書の2部の冒頭に収録されているからという理由だけで読み出したのではない。

 前項の通り、部分的に難しいと感ずるところはなく、なのにつかみ所のない文章だ。読解によって何かが明らかになっていくわけではないから、単体では取り上げる気にはならなかったかもしれない。

 だが、年度始めに取り上げる意義はある。読み比べには使える文章なのである。

 読みながら、それを想起していただろうか?


 お相手は「『である』ことと『する』こと」である。

 考え方の基本方針は了解されているか?

 本文から根拠を引用して、と指定すると、似た趣旨のことを言っていると感じられる箇所をそれぞれの文章から指摘する、というのがとりあえずの発想になってしまうが、それがなぜ似ていると感じられるかは、全体の論旨の中ではじめて納得される。

 したがって、考え方の基本方針は、昨年度の読み比べでもやったように、「である/する」図式に、「ぬくみ」の論旨を位置付ける、という方向で論を立てることである。

 「ぬくみ」のどこがどのように「である/する」図式に対応するのだろうか?


 それでもとっかかりが掴めなかったら、直截的な手がかりとして、共通する語彙に注目する。

 何を取り上げるか?


 もちろん重要な語彙、いわゆるキーワードでなければ手がかりにはならない。

 そうした条件にあてはまるのは「近代」という語である。


2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

最後の読み比べ 5 近代化という問題

 次に、それぞれの文章で何が「問題」なのかをみていく。その際、前項で確認した対比が、どのようにしてその「問題」を生んでいるかを確認する。


  • 「である」ことと「する」こと

 「する」化がもたらす「過近代」的問題とは、休日が却って忙しい日になっているとかいう問題も挙がってはいるが、大きな問題は文化=学問・芸術に好ましくない影響があることだ。この「影響」は、あまり具体例としては挙がっていない。研究者の評価が論文ので(ではなく)決まってしまうことくらいだ。
 だが文化が「する」論理=「大衆的な効果と卑近な『実用』の基準」で評価されることは明らかに文化の衰退を招きそうな予感はある。「である」価値の軽視は文化にとって重要な「蓄積」にも悪影響があるだろう。

  • 不均等な時間
 「均等な時間」=「する」時間の浸透によって、「労働時間の作り出す経済価値がすべて」になると、そこに生きる人々のそれまでの共同体や自然との「すべての関係が崩れ去ってしまう」。そうなると人々は「自分たちの存在の形がな」くなることになる。
 つまり「時間に管理される」ことは、自然と、そこに生きる人々にとって「暴力」なのである。
 「時間に管理される」と、「経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。」というくだりは、上の「『である』ことと『する』こと」の「休日」のくだりに完全に対応している。
 そして「時間に管理される」とは、授業でも確認した「疎外」の概念「自分たちの作りだしたものに逆に支配され、本来の人間らしさを失う」状態を言っているのだということも多くの者が気づいたはずだ。

  • この村が日本で一番
 上の「疎外」の問題が、この文章でも言及されている。
グローバル化という形で拡大していく市場経済は、人間自体に対して深刻な問題を投げかけているのである。だからこのような時代には、「自己実現」とか「自分探し」、「個の確立」といった疎外された意識が次々に出てくる。だれもが、自分の確実な存在を見つけ出せないのである。
 ローカル=「我らが世界」では、「自分を見つけ出すことができる」。それがグローバル化によって、すべてを経済価値で測る「する」論理が支配するようになると、「自分」が「自分」であるという「かけがえのない個体性」は見失われてしまう。
 そうした「疎外」状況だからこそ、逆に「自分探し」に駆り立てられる。

  • 南の貧困/北の貧困
 問題は単なる貧困ではない。貧困を生み出す前提となる「貨幣への疎外」が問題だと見田はいっている。
 「貨幣への疎外」が「する」化であることは前項で確認済み。
 「問題」はその時に「人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される」ことだ。
 これはそのまま上の内山の「自分たちの存在の形がなくなる」ことに等しい。
 「南の貧困/北の貧困」ではこれを「見えない幸福の次元」「測定できない幸福の次元」を失う、と表現している。「測定できない」つまり「する」原理=機能・効率で量ることができない「幸福」こそ、「である」価値をもったものである。

 ではこれらに共通する「問題」を抽象化して言ってみよう。
近代化に伴う「である」価値の喪失
 これならば4つの文章に適用できる。
 「近代化」はそれぞれ次のように変奏している。
  • 「である」→ 「する」化
  • 「不均等」→ 時間の合理化
  • 「この村」→ グローバル化
  • 「南の貧困」→ 市場経済化=「貨幣への疎外」

 そこで失われる「である」価値とは何か?
  • 「である」→ 文化
  • 「不均等」→ 自然・共同体
  • 「この村」→ 自然・共同体
  • 「南の貧困」→ 自然・共同体

 そして内山の文章では「自然・共同体」との関係の喪失は「自分の存在」を危うくするという視点が重視されている。喪失するのは「自己」である。「疎外」とはそのような状態を指している。
 「『である』ことと『する』こと」でもこの「自己」の問題に言及している。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。
 「する」化によって失われるのは「教養」であり、「教養」が失われることは「かけがえのない個体性」をもった「自分」が失われることだ。そしてここでも「自分」という存在は社会や自然との関係において「自覚」されている。
 文化・教養、自然・共同体、そして自己。
 ここに「市民社会化する家族」から「家族」を加えてもいい。
 これらはどれも「する」論理で切り棄ててはならない「それ自体」=「である」価値を持ったものである。
 近代化はそうした「である」価値をもった存在を危うくするのである。

最後の読み比べ 4 対比の変奏

 それぞれの文章の対比を並べ、それらがどんなふうに整合するかを見ていこう。

 全体を通観するためのラベルは「である/する」だ。これと軸を共有できる対比を挙げる際は、左辺に「である」、右辺に「する」を並べる。そして、なぜそれが「である」なのか、「する」なのかは、「である/する」の言い換えのバリエーションから適宜表現を選んで対応させる。


 まずは「不均等な時間」。

 既に前の記事で「上野村/隣村」「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」という対比を挙げてある。
 さらに誘導した「時間」を使った対比は何か?
 文中から表現を探す前に、そもそも題名の「不均等な時間」という言葉は、直接には文中にない。だが「ホンモノのおカネ」が「ニセガネ」を、「メカ少年」が「少年」を潜在的な対比として含み持っているように、「不均等な時間」は「均等な時間」と対比されることが前提されている。
 不均等な時間/均等な時間
 こういう、包括的でシンプルな表現がラベルには便利だ。
 この対比を本文中の表現を使って言い換えると?
 伝統的な時間/近代社会が作り出した時間
  自然の時間/合理的な時間
 循環する時間/時計の刻む時間
 いずれも、明確な対比として文中に置かれているわけではないが、様々な言い換えのバリエーションとして左右に振り分けておく。

 これらがなぜ「である/する」の対比と重なるのか?
 「伝統/近代」はそのまま「である/する」の対比であることは確認済み。
 また「合理的」も、「する」論理が「機能・効用・効率」重視であることからすれば当然言い換えとして認めていい。何にとって「合理的」かといえば経済価値を生むための「合理性」だが、経済といえば「する」論理が活かされるべき「部面」だったはずだ。
 これが「均等な時間」となぜ対応するかといえば、工場生産においては、時間を「均等な」ものとみなして管理することがコスト計算を可能にしたり、生産性の向上につなげたりすることができるようになるからだ。つまり「均等な時間」とは「機能・効率」=「する」論理なのである。

 一方の「不均等な時間」がなぜ「である」なのか?
 「不均等な時間」とは、時間の流れには濃淡や遅速があるということだ。そこで起こることや為すことはもともと一定していない。それが「自然な時間」の流れ方だ。
 「である」とは「地縁・血縁」にせよ「身分」にせよそのままの「自然」の状態を言っている。「自然」の時間は「不均等」であり、そうした時間はそれぞれの「かけがえのない個体性」をもった、交換不可能なものだ(この「交換可能/不可能」という対比は「この村」の方からの前借り)。

 次に「この村が日本で一番」の対比、「ローカル/グローバル」という対比がなぜ「である/する」なのか?
 「ローカル」は「この地域に生まれた自然や歴史、文化、コミューンとともに、自分もまた存在している」という意識である。「である」であることに疑問はない。
 それが「グローバル」化することはなぜ「する」化なのか?
 グローバル化とは「市場経済を舞台にして、すべてものを交換可能なものへと変えていく」ことだ。「経済」が「する」論理なのは確認済みとして「交換可能」であることはなぜ「する」論理に則っているのか?
 「する」論理とは、「機能」や「業績」を重視するということだ。逆にいえば、同じ「機能」「業績」を備えていれば、それが誰であるかを問わないということだ。
 「グローバル化」とは、世界中が「均等な」基準によって「交換可能」になることなのだ。
 「する」化=「グローバル化」=基準の均等化=時間の合理化=「交換可能」化は、人間をもまた交換可能にする。時給計算は人間の価値を時間によって均等に量るということだ。

 さていよいよ「南の貧困/北の貧困」だ。
 「貧困にならない/貧困になる」という対比は「金がある/金がない」という対比ではない。それは「貨幣からの疎外」を問題にしているのであって、それより問題なのは「貨幣へ疎外されていない/貨幣へ疎外されている」という対比である。
 これが「である/する」という対比とどう対応するのか?

 「貨幣への疎外」とは本文中で次のように説明されている。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
 ここに述べられている事態は、内山が述べている事態とまるで同じである。
たとえば
  • 上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。(…)ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。
  • 時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくともそこに自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。(「不均等」)
 まずはただちに両者に共通する「自然・共同体」が「である」価値を持ったものであることが確認できる。
 そこから「貨幣へ疎外される」ことがなぜ「する」化なのか?

 「貨幣への疎外」とは「貨幣」が豊かさの基準になることだ。そして内山が述べているのはそれを「時間」に置き換えただけだ。
 この置き換えが可能なのは、そのように置き換えられる「時間」とは「時計の時間が価値を生む」ような、そのまま貨幣への換算が可能な時間だからだ。商品の「コスト」計算や労働者の「賃金」計算は、時間を金額に換算することによって成り立つ。逆に言えば、そのように換算が可能な「時間」こそ「均等な時間」である。
 貨幣とは、その額面によって得られるものが決まっているということだから、つまり「機能・効用・効率」だ。何の? 「幸福と不幸の尺度」である。貨幣は「幸福」を手にできるという「機能」を持っている。どれほどの「幸福」が手にできるかという「効用」を表わしている。
 したがって「貨幣への疎外」もまた「する」化なのである。

 通観してみよう。

       である/する
かけがえのない個体性/機能・効用
    不均等な時間/均等な時間
     自然の時間/合理的な時間
        伝統/近代
      ローカル/グローバル
     交換不可能/交換可能
 見えない幸福の次元/貨幣へ疎外されている

 こうして通観してみると、4つの文章はすべて共通する対比軸に沿って対置された対比に基づいて論じられていることがわかる。
 ではこれらによって語られる「問題」とは何か?

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 3 「問題」

 それぞれの文章では何が「問題」とされているか?

 「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?

 そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。

 以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。


  • 「である」ことと「する」こと

 この文章における問題を端的に表わす一語は?

 「倒錯」の一語が想起されてほしい。

 「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?

 「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。

 「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?

 それが他の文章とどのように重なるのか?


  • 不均等な時間

 何が問題かはわかりにくい。

 だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。


  • この村が日本で一番

 こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。

 さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。


  • 南の貧困/北の貧困

 ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。

 だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。

 そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。

 「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。

 南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?


 これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?

 そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。


最後の読み比べ 2 対比

 まずはそれぞれの文章の主要な対比を明確にしよう。


  • 「である」ことと「する」こと

 全編対比によって論が進んでいる文章だ。とりあえずラベルは言うまでもなく「である/する」だが、言い換えのバリエーションも十数語は既に挙がっている。以下の対応に最適な語をここから選んだり、必要に応じて変形したりする。


  • 不均等な時間

 明らかな具体例として「上野村/隣村」という対比がある。これがどのような対比かも、比較的すぐにわかる。それを「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」などと抽出するのにはもう一つ、ハードルがないわけではないが、できないことでもなかろう。

 だが文中に頻出する重要なキーワードは明らかに「時間」だ。これがどのような対比を形成するか?

 それは上の対比とどう対応しているか?


  • この村が日本で一番

 対比はわかりにくい。対比がわかりにくいことが内山節の文章のわかりにくさだ。それでも読み進めていくと「ローカル/グローバル」という対比が見つかる。

 これはどのような対比なのか?


  • 南の貧困/北の貧困

 対比は題名に示されているように「南/北」だろうか? もちろん違う。「南/北」は類比・並列であって、上の三つの文章の対比のように「対立」ではない。重ねることはできない。「本来的な必要/新しい必要」「必要/需要」などの既に授業で考察した対比も、結論から言えば、上の問題とは重ならない。もちろん「相対/絶対」でも「主観/客観」でもない。これらはそれぞれ別な問題を論ずる上で設定された対比である。

 今回の比較読みで問題にしたい対比は「貧困にならない/貧困になる」である。

 これは言われてみれば当然だろう。この文章全体の「問い」は「なぜ貧困は生ずるのか?」だったのだから。だが、盲点に入っている可能性が高い。本文中では目立つ形で対比的には表現されていないからだ。

 これはどのような対比なのか?


 これは「富裕/貧困」という対比ではない。

 「貧困」は「二重の疎外」によって起こる。どちらの「疎外」が問題なのか?

 もちろん「貨幣への疎外」だ。「富裕/貧困」という対比は「貨幣からの疎外」を問題としている。「への疎外」が起こっているか否かが対比されるべきなのだ。


 実は上の四つの文章の対比は左右の向きを揃えてある。

 それぞれの対比がどのように同じ「問題」を論ずるための対比なのかを考えることでとりあえず思考は進む。

最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。


2021年2月8日月曜日

「である」ことと「する」こと 13 「である」価値=?

 「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。


 二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。各クラス、各班が見つけた対応箇所も実に多様な箇所が挙がった。

 ここではそれらを網羅して列挙はしない。それでもいくつか挙げてみよう。

 例えば冒頭の一文。

ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「封建制」が「である」、「近代」が「する」だと仮定すると、次のように言い換えられる。

ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「する」化が肯定的に評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつてはポジティブに評価されていたのだ。


 このように、「である/する」図式は、今村が言っていることを把握する手がかりになる。

 そのうえで「市民社会化する家族」が「過近代」の問題を扱っているというためにはどのように論理をたどれば良いか?

 まずこの文章でも「市民社会」が「する」論理であることを確認する必要がある。そしてそれによって「である」が尊重されるべき部面に「する」論理が蔓延しているのを問題視しているならば、それが「過近代」な状態だといえる。


 「近代」はどのように語られているか。

近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。

 「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理である。

 さらに、

近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。

 となれば、「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会ということになる。

 そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。つまり「アトム化」とは人々が「する」化しているということだ。そうした「あかの他人」同士がつくる「社会」とは「未知の者の集まり」にほかならない。

 そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。

私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。

 「保守的」は「である」推しな観点だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と同様である。

 今村仁司は「過近代」の問題を論じているのである。

 そのことが典型的に表出しているのは次の一節だ。

子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。

 成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。

 だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。

 「する」論理=「実用の基準」「効果・効率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などといったら幼子は救われないではないか。そうではなく、子供には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。お爺ちゃんに「効率」など求めてはいけない。老人に生に流れる、緩やかな「休止」の時間と、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。


 最後に、それぞれの文章の主張が一致していることを納得するために、両者を簡潔な形に要約して並べてみる。具体的には「『である』ことと『する』こと」の170~171頁と「市民社会化する家族」の主張を、同じ文型単文で要約し、それが相互に入れ替え可能であることを示す。

 どのように頭を使うか?

 文中からどのフレーズが使えるかと、あてもなく探すのは非効率だ。見つからないかもしれない。

 それよりもまずはそれぞれの話題の中心が何であるかを見定めることだ。主語を決めるのである。

 「『である』ことと『する』こと」は?

 これは既習事項。「学問・芸術」または「文化」だ。

 述語は?

 「『する』論理ではかるべきではない。」とか「『である』価値こそが重要だ。」など。

 これと同じ文型で「市民社会化する家族」を要約する。

 まずは主語。これが「家族」であると見定められれば良い。

 述語は「『である』ことと『する』こと」と共通でもいいし「社会化すべきではない。」でもいい。

  • 文化は「する」化すべきではない。
  • 家族は「社会化」すべきではない。

もしくは

  • 学問・芸術には「である」価値を認めるべきだ。
  • 家族には「である」価値を認めるべきだ。


 これで「『である』ことと『する』こと」の後半と「市民社会化する家族」が同じ主張をしていることが腑に落ちる。


 こんなふうに「である/する」図式は、考え方の型として威力を発揮する。
 授業で読む文章は、あるときはそれをただ読むだけで価値がある場合もある。一方でこのように「使う」ことで有用性を発揮する場合もある。そうした「である」価値と「する」価値は矛盾するわけではなく、文章を「読む」という行為の中に同居している。

「である」ことと「する」こと 12 「市民」=「する」論理

 日野啓三「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 この準備として課したのが、冬休みの宿題だ。

 そこでは最初の2章「権利の上に~」「近代社会における~」を挙げる者が多かった。話題の方向性が近いという感触は間違っていない。が、引用に適するのは166~167頁「徳川時代を~」「『である』社会と~」に多い。

 どのような一節を選べばいいか?


 例えば次の一節を比べてみる。

  • 政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる(13頁)
  • 民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる(164頁)
  • 政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」(165頁)


 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を「問う」」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別年齢人種といった「先天的」な要素を持ち込まない「あかの他人」同士だ。ここでは「公共の・パブリックな道徳」が必要となる。それが「討議の手続きやルール」や「会議の精神」を支える。

討議も堅苦しくなく率直に、だがあくまで証拠に基づいて論理的に進められる。ひとりひとりが納得するまで決して安易に和合しない。(略)時に苛立つ人はあっても過度に感情的になる人は、少なくとも画面にはなかった。繰り返し証拠物に当たり被告の録音テープを聴き直し、告発に対する〝合理的な疑念〟を探し合う。「いいかげんにしろ」というような言葉を、反対意見の人に向かってどなることはない。

 ここに見られる陪審員の姿はこうした「パブリックな道徳」に基づく「会議の精神」=「する」論理を体現している。


 「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」に共通する「近代」が登場しない。

 だが次のような一節がそれに対応している。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。(16頁)

 「具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟」=「する」論理が「市民社会」を支える。「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「普遍的に開かれた現実」は、「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類が初めて手にした「上位のレベルの現実」なのである。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。

 そうして「『市民』のイメージ」は「する」推しではあるが「非近代」の問題は扱っていない、ということも、まず直感的にわからなくてはならない。「する」論理が高らかに顕揚される本論では、そこに「である」論理が根をはる「倒錯」には言及されていない。したがって、「『である』ことと『する』こと」の前半、「する」推しとは重なるが「非近代」には重ならないのである。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


「である」ことと「する」こと 11 使い回す

 「『である』ことと『する』こと」を読み進めたら日野啓三「『市民』のイメージ」と読み比べることは予告しておいた。

 さらにここに今村仁司「市民社会化する家族」を加えて、三つの文章の論旨の関係を考えてみよう。


 三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰しなければならない。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。

 その上で、関係づけるために、接点として使える共通項を見つける。

 後から加えた二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。

 だがそれは直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。

 他には?

 例えば「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」には、最も重要な用語が共通している。何か? またそれは「『市民』のイメージ」には適用できないか? 


 こんなふうにして共通項を接点とするつながりを探っていくのは有効だが、全体を俯瞰するための方略についての見通しもあわせて考えていきたい。


 「『である』ことと『する』こと」という講演における丸山の主張は確認した。それはそれで現代の問題にも適用して考えていけばいい。

 だがこれを文章として読んだ我々が、政治に対して行動を起こすとまでいかなくても、またそうした行動の指針としてのみ丸山の主張が有効なのでもなく、ここから得た認識はもっと汎用性のある考え方として、これを活かすこともできる。

 どういう考え方?

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。

 「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、というのだ。

 これは例えば「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」で述べられている事柄を「である/する」図式を適用して考えることができるということだ。そして「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ことが可能になるということだ。


 「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、と把握されなければならない。

 これは「『市民』のイメージ」が「非近代的」で、「市民社会化する家族」が「過近代的」だということをそのまま意味しはしない。後者はそのとおりなのだが、前者は誤っている。どういうことか?

 これも必要に応じて説明ができなければならないが、まずは、そうだ、と思えることが必要だ。


2021年2月1日月曜日

「である」ことと「する」こと 10 精神的貴族主義

 ここまで考えて、時間があれば最終頁の「保守的」に触れる。触れるだけ。

 「保守」の対義語は?

 「革新」「進歩」だ。

 「保守的」「進歩的」、それぞれ何のこと?

 「である」推しと「する」推しのことだ。

 後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?

 話の趣旨を理解していない人は前半と後半で主張が食い違うと「怪しむ」かもしれないし、あるいは単に昔がいいと言っている、反進歩的(=保守的)な主張のように感じる人がいるかもしれない。丸山真男は政治学者だから、「する」推しであるのは自然なこととして受け止められる。誰も怪しまない。それが後半で「である」推しになったので、よく趣旨がわからない人は「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。


 さていよいよ、「部分」の解釈において最も難問であった次の一節を考えることができる。

現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか

 ここを疑問として挙げた者も多い。

 これは上段の「文化の立場からする政治への発言と行動」の言い換えになっている。

 「文化の立場」=「精神的貴族主義」から「政治」に「発言」するにあたって「ラディカルな民主主義」と「内面的に結びつく」ことが必要なのだ。

 ピンとこないと感ずるときは、とりあえずは対比を立てることで、それが表わすものを明確にする。

 「ラディカル(根底的)」の対比は「表層的」、「内面的」は「外面的」だ。対比をとるとどちらも似たような概念の対比になっていることがわかる。つまり外側だけ、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめたいらしい。

 「精神的」は「現実的」とか「実体的」とかいったような対比を想定すればいい。つまりホンモノの「貴族」ではなく、「貴族」のような精神に基づく「主義」だ、と。


 そして、この部分の問題の核心は「貴族」の対比である。何との対比概念を「貴族」という言葉で表現しているのか?

 「貴族」という比喩が表わす「である」精神とは何か?


 「貴族」の対比は「庶民」? 「民衆」?

 悪くない。だが「貴族」の対比項目は既に文中でマークされている。

  1. 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の規準が押しよせてきている(170頁)
  2. 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない(171頁)

 ここに見られる「大衆的な効果と卑近な『実用』の規準」「大衆の嗜好や多数決」こそ「する」価値・論理である。

 「である」=「貴族」的精神は、こうした「する」=「大衆」的精神に対比されていると考えるべきなのだ。逆に言えば、「大衆」という対立項目が既に言及されていることを忘れてしまうから「貴族」という比喩が唐突でわけのわからないものに思えるのである。


 「大衆」との対比から「貴族」という比喩のニュアンスを説明してみよう。

 1から反照されるのは、非「実用」的=役に立たないものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージである。「実用」などといった規準は「卑近」だ。「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚(卑近の対義語)」なもの―例えば学問や芸術―に価値を見出すのだ。

 2から反照されるのは、単に人気投票で選ばれるような物を良しとするのとは違った価値観だ。では何を?

 ここには例えば「古典」や「価値の蓄積」が対比される。「古典」の対義語として「流行」、「蓄積」の対義語として「消費」を想起しよう。

 大衆は「多数決」の「流行」を「消費」する。そうした文化は寄る辺なく移ろいやすい。だが「貴族」はそうした一時の「流行」に左右されない価値を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。

 文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。

 貴族とは文化の庇護者である。「実用」性や「多数決」といった大衆の論理で文化を扱うと、古典として後世に残ることもなく消えてしまう。

 貴族は庇護する対象ではなく主体だ。貴族を文化として庇護するのではなく、貴族のように文化を庇護すべきなのである。

 「精神的貴族主義」とはそのような志向性を表わしている。


 さて最後に、どんな運動が「文化の立場からする政治への発言と行動」として想起されれば良いのだろう?


 例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」のひとつとして、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動などを挙げてもいい。

 そこまで直接的な文化保護でなくとも、「効率・機能・実用」主義だけで政策が決定されてしまうと損なわれるおそれのある「弱者保護」や「環境保護」なども、「である」精神によって修正していく必要があると考えればいいかもしれない。 


2021年1月28日木曜日

「である」ことと「する」こと 9 「である」価値とは

 全体は以上のような二段落構成をとっているのだが、予告したように、最終段落は後半の段落に含まれているというよりは、前後半をまとめて通観し、そこに筆者の主張を付け加える内容になっている。

 この章で丸山はどのような主張をしているか?


 まずそこまでの論旨はこうまとめられる。

 丸山真男の分析に拠れば、現代日本の問題は、「政治・経済」は「非近代的」であり、「学問・芸術」分野は「過近代的」であることだ、ということになる。

 そうした認識にたって、どうしようと言っているのか?


 主張は明らかだ。章題に現われているように「価値倒錯を再転倒」しなければならない、であり、その「ために」、「文化の立場からする政治への発言と行動」が重要だ、というこということになる。

 ここに見られる「文化/政治」という対比は「学問・芸術/政治・経済」という対比に他ならない。つまり「『である』立場から『する』活動へ発言・行動する」ことが求められているわけだ。

まさにそうした行動によって「である」価値と「する」価値の倒錯――前者の否定し難い意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯を再転倒する道がひらかれるのです。

 ここでもまた「非近代/過近代」が対比的に表現されている。

 「である」価値の否定しがたい意味を持つ部面(学問・芸術)に「する」論理が蔓延している状態「過近代」

 「する」論理によって批判されるべきところに「である」論理が居座っている状態「非近代」

 つまり「倒錯」とは「非近代/過近代」であることに他ならない。

 だから「非近代的」な「面」では正しく「する」化し、「過近代的」な「面」には「である」価値を見直すことこそ「再転倒」なのだ。


 ここでわかりにくいのは「である」価値だ。「する」価値・論理は最初のうちマークした表現でつかめている。そこでは「する」価値・論理は肯定的な意味合いで捉えられていた。前半は「する」推しだったわけだ。

 だが後半の「である」推しは、どのような意味でそれを価値あるものと見なしているか?


 対比表現をピックアップしてみる。

 対比的に明示されている表現は次の二つ。

  花/果実

それ自体/結果

 「である」価値を示す「花」は比喩だし「それ自体」もわかりにくい。

 「花」という比喩はどのような意味合いを表わしているか?


 「である」価値を示す表現は少ないが、実は「する」価値を示す表現は、後半に入っても様々に言い換えられて頻出している。170~172頁から挙げてみる。

  • 効用と能率原理
  • 有効に時間を組織化する
  • 効果と卑近な「実用」の規準
  • 果たすべき機能
  • 大衆の嗜好や多数決
  • 不断に忙しく働いている

 「である」価値=「それ自体としての価値」は、これら「する」価値とは反対方向を向いた価値、ととりあえずは把握できる。つまり

  • 「効用・効果・実用性・機能」などによって決められない価値
  • 多数決で決められない価値
  • 忙しく時間を使うことよりも、蓄積することで生ずる価値

といったようなものが「それ自体」としての価値=「である」価値なのだと考えておく。

 「花」はそういった価値を喩えたものだ。「花」は食べられない。おいしいわけでも栄養があるわけでもない。だから「効用・効果・実用性・機能」的には価値がない。だがそれに例えば「美」を見出す者にとっては「それ自体」に価値がある、と言っているのだ。


 「である」価値を示すフレーズはもう一つある。「かけがえのない個体性」だ。

 「かけがえのない」というのは「交換できない」という意味だ。

 「する」価値は、「果たすべき機能」が満たされればいいのだから、それを為す主体は交換可能である。誰がやってもいい。問題は「効果」や「結果」なのだから。

 政治はこれらの「する」価値の実現を目指している。

 だがそれだけを重視することは、今度は、「である」価値=「かけがえのない個体性」がもつ「それ自体」の価値の否定・軽視、すなわち「過近代」という「倒錯」を生む。

 だからこそ「である」=「文化」=「学問・芸術」からの発言と行動によって、その「倒錯」を「再転倒」しようというのである(もちろん一方の「非近代」という「倒錯」もまた「再転倒」されなければならない)。


「である」ことと「する」こと 8 抽象度を揃える

 「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。

 「日本の急激な『近代化』」の章(169頁)は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」(172頁)は全体のまとめだ。


 ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしてほしい。

 つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。

 これがピンとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。


 その上で最終段落がよくわからないから「結局どっちなんだ?」という「疑問」も挙がっていた。これは後で考察する。

 では、何については「する」推しなのだろう? 「である」推しなのは?

 これが保留にしていた、前半・後半の「面」とは何か、である。

 「非近代的」な「ある面」、「過近代的」な「他の面」とはそれぞれ何のことか?


 前半と後半を大づかみにして、抽象度の揃った語で表現することを目標として、ひとまずは様々な話題を取り出して総覧してみよう。

 どんな言葉を取り上げれば良いか?


前半

権利 自由 民主主義 制度 近代

 徳川時代 身分 人間関係 業績 会社 組織 


後半

宿屋/ホテル 休日 論文 教養 古典


 あれこれとキーワードを挙げてみたが、上にはまだ、「抽象度の揃った語」はまだ挙がっていない。

 これらのキーワードを包括する、前半と後半でバランスのとれた抽象度の言葉は何だろう?


 文中で、これらの言葉が対比的に使われるのは171頁上段の一度きりだ。

 それは「政治・経済」/「学問・芸術」である。

 全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」であるべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」であるべきだと言っているのだ、と考えると、にわかに全体の構造が腑に落ちないだろうか(各クラスで最初にこれを指摘した人は素晴らしい!)。

 そして文中で様々な例で指摘されているのが、そこに起きている「倒錯(錯誤した転倒)」なのだということが腑に落ちないだろうか。


 「『である』ことと『する』こと」という文章の読解の核心はここである。

 全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。

 そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。

 この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。


 残りは?

 最も厄介な「主張」と「部分」である。


「である」ことと「する」こと 7 前後半の対比構造

 「『である』ことと『する』こと」を前後半二つの大段落のまとまりとして把握する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 発想は悪くない。だが単に前半が「する」だとも「である」だとも言えないし、後半も同様である。


 このあたりでそろそろ、結びついてほしいところだ。

 先に留保した問題である。

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題(165頁下)

 さらに、この一節にも重なる。

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り(169頁下)

 さらにこれが169~170頁の一節にも重なる。

厄介なのは、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展しているという点なのです。(169頁下~)


 これら3箇所は同じことを言っているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

 について述べているのである。


 いよいよ保留にしていた「面」に光をあてる。前半と後半はどのような「面」について論じているのだろうか?