2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 4 対比の変奏

 それぞれの文章の対比を並べ、それらがどんなふうに整合するかを見ていこう。

 全体を通観するためのラベルは「である/する」だ。これと軸を共有できる対比を挙げる際は、左辺に「である」、右辺に「する」を並べる。そして、なぜそれが「である」なのか、「する」なのかは、「である/する」の言い換えのバリエーションから適宜表現を選んで対応させる。


 まずは「不均等な時間」。

 既に前の記事で「上野村/隣村」「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」という対比を挙げてある。
 さらに誘導した「時間」を使った対比は何か?
 文中から表現を探す前に、そもそも題名の「不均等な時間」という言葉は、直接には文中にない。だが「ホンモノのおカネ」が「ニセガネ」を、「メカ少年」が「少年」を潜在的な対比として含み持っているように、「不均等な時間」は「均等な時間」と対比されることが前提されている。
 不均等な時間/均等な時間
 こういう、包括的でシンプルな表現がラベルには便利だ。
 この対比を本文中の表現を使って言い換えると?
 伝統的な時間/近代社会が作り出した時間
  自然の時間/合理的な時間
 循環する時間/時計の刻む時間
 いずれも、明確な対比として文中に置かれているわけではないが、様々な言い換えのバリエーションとして左右に振り分けておく。

 これらがなぜ「である/する」の対比と重なるのか?
 「伝統/近代」はそのまま「である/する」の対比であることは確認済み。
 また「合理的」も、「する」論理が「機能・効用・効率」重視であることからすれば当然言い換えとして認めていい。何にとって「合理的」かといえば経済価値を生むための「合理性」だが、経済といえば「する」論理が活かされるべき「部面」だったはずだ。
 これが「均等な時間」となぜ対応するかといえば、工場生産においては、時間を「均等な」ものとみなして管理することがコスト計算を可能にしたり、生産性の向上につなげたりすることができるようになるからだ。つまり「均等な時間」とは「機能・効率」=「する」論理なのである。

 一方の「不均等な時間」がなぜ「である」なのか?
 「不均等な時間」とは、時間の流れには濃淡や遅速があるということだ。そこで起こることや為すことはもともと一定していない。それが「自然な時間」の流れ方だ。
 「である」とは「地縁・血縁」にせよ「身分」にせよそのままの「自然」の状態を言っている。「自然」の時間は「不均等」であり、そうした時間はそれぞれの「かけがえのない個体性」をもった、交換不可能なものだ(この「交換可能/不可能」という対比は「この村」の方からの前借り)。

 次に「この村が日本で一番」の対比、「ローカル/グローバル」という対比がなぜ「である/する」なのか?
 「ローカル」は「この地域に生まれた自然や歴史、文化、コミューンとともに、自分もまた存在している」という意識である。「である」であることに疑問はない。
 それが「グローバル」化することはなぜ「する」化なのか?
 グローバル化とは「市場経済を舞台にして、すべてものを交換可能なものへと変えていく」ことだ。「経済」が「する」論理なのは確認済みとして「交換可能」であることはなぜ「する」論理に則っているのか?
 「する」論理とは、「機能」や「業績」を重視するということだ。逆にいえば、同じ「機能」「業績」を備えていれば、それが誰であるかを問わないということだ。
 「グローバル化」とは、世界中が「均等な」基準によって「交換可能」になることなのだ。
 「する」化=「グローバル化」=基準の均等化=時間の合理化=「交換可能」化は、人間をもまた交換可能にする。時給計算は人間の価値を時間によって均等に量るということだ。

 さていよいよ「南の貧困/北の貧困」だ。
 「貧困にならない/貧困になる」という対比は「金がある/金がない」という対比ではない。それは「貨幣からの疎外」を問題にしているのであって、それより問題なのは「貨幣へ疎外されていない/貨幣へ疎外されている」という対比である。
 これが「である/する」という対比とどう対応するのか?

 「貨幣への疎外」とは本文中で次のように説明されている。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
 ここに述べられている事態は、内山が述べている事態とまるで同じである。
たとえば
  • 上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。(…)ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。
  • 時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくともそこに自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。(「不均等」)
 まずはただちに両者に共通する「自然・共同体」が「である」価値を持ったものであることが確認できる。
 そこから「貨幣へ疎外される」ことがなぜ「する」化なのか?

 「貨幣への疎外」とは「貨幣」が豊かさの基準になることだ。そして内山が述べているのはそれを「時間」に置き換えただけだ。
 この置き換えが可能なのは、そのように置き換えられる「時間」とは「時計の時間が価値を生む」ような、そのまま貨幣への換算が可能な時間だからだ。商品の「コスト」計算や労働者の「賃金」計算は、時間を金額に換算することによって成り立つ。逆に言えば、そのように換算が可能な「時間」こそ「均等な時間」である。
 貨幣とは、その額面によって得られるものが決まっているということだから、つまり「機能・効用・効率」だ。何の? 「幸福と不幸の尺度」である。貨幣は「幸福」を手にできるという「機能」を持っている。どれほどの「幸福」が手にできるかという「効用」を表わしている。
 したがって「貨幣への疎外」もまた「する」化なのである。

 通観してみよう。

       である/する
かけがえのない個体性/機能・効用
    不均等な時間/均等な時間
     自然の時間/合理的な時間
        伝統/近代
      ローカル/グローバル
     交換不可能/交換可能
 見えない幸福の次元/貨幣へ疎外されている

 こうして通観してみると、4つの文章はすべて共通する対比軸に沿って対置された対比に基づいて論じられていることがわかる。
 ではこれらによって語られる「問題」とは何か?

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