2021年12月22日水曜日

2021年12月21日火曜日

舞姫35 最終回

 最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。


 それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。

 「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。

 だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。

 とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。

 そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。

 今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。


 豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。


 第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。


 主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。

 これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。

 ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。

 皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。


舞姫34 比較読解「羅生門」3 通過儀礼における「異類」殺し

 前述の『人身御供論』の中で、大塚は通過儀礼の物語と、「鶴女房」「蛇女房」「猿婿入り」などの民話に見られる「異類婚」のモチーフを結びつけ、〈移行〉期における随伴者としての「異類」の存在を「移行対象」のアナロジーで考察している。

 『移行対象(transitional object)』とは、絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である『移行期(6ヶ月~1歳頃)』に現れてくる物理的な対象のことである。それは単なる物理的なモノというだけではなく、今まで一方的に依存していた母親のもとを離れようとする幼児の孤独や不安を和らげる魔術的な力を持ったぬいぐるみやおしゃぶり、玩具、毛布、ハンカチなどのことを指す。(「分かりやすい“心理学用語事典・学術用語事典”のブログ!Keyword Project+Psychology」)

 幼児は成長する過程で、いったんは「移行対象」に依存し、その後再びそれを捨て去るのであり、これが、「異類」との別離が必須である理由だと大塚は分析する。

 先の『千と千尋の神隠し』では、主人公の千尋は、「ハク」と呼ばれる川の精霊に助けられて、異界での〈移行〉期を過ごす。だが、通過儀礼の物語の最終的な段階である〈再統合〉のためには、千尋は「ハク」との別れを経験しなければならない。

 そして「異類」との別離は、時として殺害という形で表現されることもある。あるいは主人公によって、あるいは物語そのものの力によって、「異類」は通過儀礼の供儀として殺される

 グリム版「赤ずきん」では、森へのお使いが〈分離〉および〈移行〉のプロセスに対応し、帰還が〈再統合〉に対応している。だとすれば、森という異界に住む狼が、赤ずきんにとっての「移行対象」である。ベッドに潜んで赤ずきんを誘惑し、「食べて」しまう狼に性的な比喩を読み取ることは容易だ。つまり狼は赤ずきんにとっての「異類婚」の相手である。そして主人公は「移行対象」である「異類」を殺すことによって、通過儀礼の物語を完遂する。

 「羅生門」の老婆もまた、下人によって手荒く蹴倒されることによって、「移行対象」としての役割をまっとうしたのだといえる(そうした観点からは『千と千尋の神隠し』における〈移行〉期の随伴者は「ハク」及び「カオナシ」「湯婆婆」の三者に分離しているというべきかもしれない。子ども向けの作品としては随伴者の殺害といった物騒な展開にするわけにもいかないだろうから、「ハク」とは別れのみを体験させ、「殺害」に相当する闘争の相手として「湯婆婆」を置いているのかもしれない。「カオナシ」の存在はまた奇妙な謎に包まれていて、ここでは分析しきれない)。

 こう考えてみると、「舞姫」の物語が、なぜエリスの発狂という、読者にとって不全感を拭いがたい形で完結しなければならなかったのかという疑問にも、ひとつの解答が得られる。

 それは「舞姫」という物語が、豊太郎を近代日本という社会に〈再統合〉させる通過儀礼の物語だからなのだ、という答えである。

 エリスという「異類」は、そのための供儀として殺されなければならなかったのだ。


 通過儀礼とは、当人にとっては共同体への参入の資格を得る機会であり、それが「成長」というビルディングス・ロマンの形式にも比せられる理由だが、一方で通過儀礼を要請するのはあくまで共同体の側である。

 共同体は、内部の秩序を成立させるために、異物を作り出してそれを外部に排除する必要がある。「一寸法師」や「桃太郎」における鬼ヶ島の鬼たちも、そうして殺される「供儀」である。

 老婆が着物を剥ぎ取られたうえで蹴倒されるのも、エリスが発狂したうえで捨てられてしまうのも、狼や鬼などの異界の住人が当然のように腹を裂かれ討ち滅ぼされてしまうことを考えれば、やむを得ない物語上の要請があったからだと考えるべきかもしれない。

 それは主人公による主体的選択などではなく、物語が強いる構造上の必然だ。そこでは登場人物の豊太郎もまた、近代的「個人」として行為の起源を担うことはできない。


舞姫33 比較読解「羅生門」2 通過儀礼の形式

 「舞姫」と「羅生門」それぞれに、通過儀礼の構造を見つけることは難しくない。

 「舞姫」では、豊太郎の洋行がすでに〈分離〉の形式を成していることは明らかだが、さらにここに「母親の死」と「免官」という要素を加えて、鷗外は豊太郎を日本、及びその安定した社会構造から念入りに〈分離〉する。

 一方の「羅生門」の下人もまた「主人から暇を出され」ることで社会的秩序から〈分離〉されている。

 〈分離〉はまた、異界への越境である。たとえば千尋が神々の世界に迷い込む際にトンネルを通過する場面は、〈分離〉の形式を、「境界を越える」という空間的な移動として象徴的に表現したものだ。

 「羅生門」における越境を空間的に展開したのが、もとより境界上に存在する門としての「羅生門」という舞台設定であると一見したところ見えなくもない。

 だが下人は千尋のように門を通って都の外へ出るわけではない。そもそも「羅生門」が隔てている「洛中」と「洛外」は、〈洛中のさびれ方はひととおりではない〉以上、それほど明確なコントラストを描いているとはいえない(むしろ初出によれば、下人はこのあと京都の町、つまり「洛中」へ舞い戻るのだ)。

 したがってここでの越境は、羅生門の上層へ下人が登ることによって表現されていると言える。


 一方「舞姫」における越境について考えるには、「山月記」「檸檬」との比較において考察した「舞姫」の空間把握が参考になる。

 すなわち大きなスケールでいえば日本→ドイツが〈分離〉=越境であるには違いない。

 だが、豊太郎にとってドイツは異国ではあるが、ウンテル・デン・リンデンに立つ豊太郎はまだ社会的秩序から断ち切られているとは言い難い。豊太郎にとって本当に異界であるのは、ここまでも空間的な対比として捉えてきた、反ウンテル・デン・リンデン的空間であるクロステル巷だ。異界としてのクロステル巷へ足を踏み入れた豊太郎は、そこで異界の住人であるエリスに出会い、エリスに伴われてその家へ足を踏み入れる。

 つまり「舞姫」において〈分離〉の形式は、先に「檸檬」との比較で考察した西洋的秩序への忌避感や母親の死と免官といった心理的な〈分離〉とともに、空間的には「ドイツ」→「クロステル巷」→「エリスの家」という入れ子状の「異界」への空間的な越境によって表現されているのである。


 こう考えてみると、うち捨てられた死体の転がる羅生門の上層への梯子を登る下人と、父親の死体の横たわるエリスの部屋への石の梯を登る豊太郎の姿が、奇妙に重なって見えてくる。

 「異界」は「彼岸=あの世」でもある。二人はともに「異界」への越境という形で、通過儀礼における〈分離〉を果たす。


 これまで檸檬と対比されてきたエリスは、ここで老婆に比せられる。

 二人は豊太郎や下人が〈移行〉期を過ごす「異界」の住人だ。エリスとのつつましやかな同棲生活が豊太郎にとっての、また老婆との会話の戯れが下人にとっての〈移行〉期である。下人はここで本当に、それまで彼を捉えていた「観念」から〈分離〉される。

 とすれば、豊太郎と下人の〈再統合〉はいかにして行われるか?


舞姫32 比較読解「羅生門」1 通過儀礼

 最後に「羅生門」と「舞姫」を読み比べてみよう。

 今年度の授業は「羅生門」から始まった。最後の教材「舞姫」の読解を「羅生門」との重ね合わせで終わるのも妙な巡り合わせではある(もちろん普通は1年生の早い時期に「羅生門」を読むので、つまりこの2作品は高校の国語科授業の最初と最後を飾る小説だといえる)。

 この読み比べによって期待するのは、なぜエリスはあんなに酷い目に遭わねばならないのかという疑問に対する一つの説明である。この疑問に対する別の解答は「こころ」との比較において考察した、豊太郎を日本に帰すという結末を前提として、豊太郎の性格造型との整合性を持たせるため、という心理的な機制である。一方ここでは文化人類学的な知見を応用した、別の説明を試みる。


 さて、両作品を比較する端緒は何か?


 共通するキーワードは「通過儀礼」である。

「通過儀礼」 出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(「Wikipedia」)

「イニシエーション」 人類学用語。「成年式」「入社式」とも訳される。社会的に一人前の成人として認知,編入されるための一連の手続きのこと。広義には,ある社会的カテゴリーから他の社会的カテゴリーへの,集団的あるいは個人的加入を認可するための一連の行為体系をさし,秘密結社への加入やシャーマンなど宗教職能者の地位の取得なども含まれる。通過儀礼を伴うことが多い。(「コトバンク」)

 長らく国語教育界では「羅生門」を「極限状況において人間が持たざるを得ないエゴイズム」を主題とする小説として扱ってきた。だが今年度の最初に読んだ「羅生門」はそのような小説ではなかったはずだ。

 ここでは詳述しないが、授業で提示した読解によれば、「羅生門」とは自らの「観念」から脱却する話だ。とすればそれは下人にとって一種の成長譚と捉えることができる。

 そしてこれを通過儀礼の物語として読もうというのが、ここでの読み比べの手がかりである。

 一方、「舞姫」を通過儀礼の物語として読む可能性については、前述の前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」に言及が見られる。


 さて、「舞姫」と「羅生門」を通過儀礼の物語として読むためには、もう少し準備がいる。それは通過儀礼の基本構造を押さえておくことである。

通過儀礼がその構造上、三つのプロセスに分けて考えることができるのは文化人類学の定説である。まず儀礼の当事者は彼がそれまで帰属していた社会的立場から〈分離〉する。そしていったん、彼は日常的な社会秩序から解き放たれ、非日常的な時空を象徴的に生きる。この状態を〈移行〉期と呼ぶ。やがて彼は再び社会に〈再統合〉されるが、その段階では彼はそれまでその支配下にあったのとは全く異なる社会的秩序のものと組み込まれているのである。(大塚英志『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』)

 古くからの民俗や習俗にとどまらず、多くの民話・神話、童話やファンタジーなどの物語をこの〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という基本構造によって分析する試みが、これまで文化人類学や民俗学で行われてきた。

 たとえば、旅をモチーフとする、いわゆる「行きて帰りし物語」は基本的に通過儀礼の構造をもつものとして把握できることが知られている。

 「桃太郎」「一寸法師」「白雪姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」などの民話、あるいは「ナルニア国物語」「指輪物語」「ゲド戦記」「ハリー・ポッター」などのファンタジーにも同様の構造が見られる。

 たとえば人口に膾炙した宮崎駿監督によるジブリ・アニメの諸作品も、多くはそうした構造をもっているといっていい。

 中でも最も典型的なのが『千と千尋の神隠し』だ。現実の世界では中学生である千尋は、トンネルを抜けて迷い込んだ神々の世界で父母と離れ名前をはぎ取られて(分離)、湯屋の下働きとして働き(移行)、やがて元の世界へ帰る(再統合)。そこには主人公の成長を描こうとする、明瞭に意図された通過儀礼の構造があからさまに見て取れる。


 さて、以上の予備知識をもとに「舞姫」と「羅生門」について考察する。


舞姫 31 比較読解「檸檬」5 謎を解く

 「檸檬」と「舞姫」に見出せる対比構造を表わす抽象語を考えてみた。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁

    する/である

    近代/非近代

    西欧/日本

    均質/感性


 これらの対立に基づいて読むことの妥当性を考えることが、すなわち「檸檬」や「舞姫」を読むことだ。上のどれかが「正解」などということもなく、ましてそうした「正解」を教わることに意味があるわけではない。

 妥当性は作品の読解によって保証される。読解に資するものであればいい。

 こうした構図に基づいて引き続き、最初に提示した「檸檬」の謎を解こう。


 画集を積み上げて檸檬を置くという行為は何を意味するか?

 柄谷の論が参考になる。画集が象徴しているのは、外国から輸入された、公的に価値を認められた秩序体系だ。本来は秩序を破壊する力を持っているはずの芸術を、規格化された体裁に収めて年代順かアルファベット順に並べることで秩序に馴致させたものが画集である。またこうした全集に収録されることでそれらは権威づけられ、収録されていない作品・作者群との間に中心(権威)/周縁という秩序を構成する。

 主人公は、こうした秩序体系において価値を認められている画集本来の価値を無効化して、あたかも積み木のように用い、その秩序を壊して「ゴチャゴチャに積み上げ」る。

 そして、公的なヒエラルキーを逆転して、その頂上に檸檬を置く。それはつまり先ほどの構図の、下の領域による、上の領域の価値の転倒である。


 だが、いっときヒエラルキーの逆転に満悦したとしても、狂態の後で再び画集を元通りに棚に戻したのでは、秩序は回復してしまう。

 その時主人公の頭に第二のアイデアが浮かぶ。秩序を回復することなく、檸檬爆弾によって秩序を丸善諸共破壊してしまう、というだめ押しである。

 つまり「檸檬」という物語は、右の領域による、左の領域の秩序の破壊という欲望を形象化しているのだ。(ということで下の写真も、東大京大の赤本青本の上に絵本を置いて、てっぺんに檸檬を乗せるところにヒエラルキーの逆転の意図を読み取ってほしい)


 このまま物語の結末も解釈できるだろうか?

 「舞姫」が左から右へ移行して最終的に左へ帰還する物語であるのと対照的に、「山月記」は右に(虎の世界に)行って終わる物語だった。では「檸檬」は?

 授業で聞いてみると、最後の一文を、そのまま右側に留まっていると解釈する者が多かったが、檸檬爆弾など所詮妄想に過ぎないのだから、結局は左側に戻るしかないと考える少数派がいないわけではなかった。授業者にはアイデアのない例の「現在」を、「舞姫」における、手記を書いている豊太郎と同じ位置にいるものと考え、回想という体裁で語る共通点から、「檸檬」もまた秩序に戻るしかない「舞姫」と同じ結末を意味しているという解釈を語ってくれたのはB組のWさんだった。

 最後の一文の解釈は、「京極を下がる」という行為における「京極」とか「下がる」を手がかりに考えるより、明らかに「活動写真の看板画が奇態な趣で街を彩っている」という描写・形容に重点がある。これをどのようなイメージで捉えるべきか?

 授業者のイメージでは、「活動写真の看板画」の印象は「あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火」や、画集を積み上げた「そのたびに赤くなったり青くなったり」する「奇怪な幻想的な城」に近いように思える。活動写真=映画の虚構性も、「想像・錯覚」に浸る主人公の精神状態に近しい。

 それが「奇体な趣で街を彩っている」のは、檸檬による爆破によって下の領域(たとえば「混沌・周縁」)が上の領域(「秩序・中心」)に溢れ出している、といったイメージではないだろうか。「活動写真」という虚構の世界を現実に重ねる「想像・錯覚」が、この一文のイメージなのではないか。

 とすれば結末において主人公はどちらの領域にいるのか、という問題ではなく、二つの領域の境が融け出して、全てが混沌に陥っている街を、主人公は悠然と闊歩しているのかもしれない。


 一昨年の授業で以上の解釈を語った時に、それは『Joker』だ、と言った生徒がいた。ちょうどその映画を劇場で観ていた授業者は、そう言われて、はたと思い当たってしまった。なるほど。

 アメコミ・ヒーロー、『バットマン』のレギュラーのヴィラン(悪役)であるジョーカーの誕生を描いた同映画では、社会の周縁にいる弱者である主人公が、思いがけず悪のヒーローとして暴徒に祭り上げられる。まさしく周縁が中央に反逆し、混沌が秩序を破壊せんとする物語なのだ。

 ゴッサムシティが暴動に包まれるクライマックスと「檸檬」の結末が奇妙に重なって見える。

 『Joker』では、しかしその暴動が実はジョーカーの妄想なのかもしれないという不確かさで描かれているのだが、「檸檬」の結末の「奇体な」イメージもまた、主人公の妄想の中だけなのかもしれない。そのあやういバランスもまた似ている。

 それだけではなく、ビジュアルイメージとしても奇妙な類似がある。

 CMでは階段でジョーカーが踊るシーンが使われているが、軽い仰瞰で捉えた階段を「檸檬」の画集の山に見立てると、檸檬がジョーカーなのだ。(0:20過ぎ)


 もうひとつ。暴動の中で、ジョーカーがパトカーの上で踊るシーンがある。(2:40あたりから)


 パトカーとは当然「秩序」の象徴であり、破壊されたパトカーの上にジョーカーが立つというのは、比喩とさえ言えないほどあからさまにヒエラルキーの逆転を意味する。とすればパトカーは乱雑に積み上げられた画集であり、その上に乗るジョーカーこそ檸檬なのだった。


 豊太郎が法律の勉強より文学や歴史にうつつをぬかし、官長を軽んじたり同郷の留学生を疎んじたりしてエリスと関わった結果、官職を罷免されるにいたる乱心も、「檸檬」の「私」が丸善で見せた狂態と同様に考えることでその意味がはっきりする。豊太郎もまたジョーカーと化したわけだ。

 日本にとっての近代化とは西欧化にほかならない。そうした近代的体制の中でエリートとしての地位にいた豊太郎はいわば、漱石の言うところの「外発的」な文化に酔っていたのだといえる。だがそれがいつしか「宿酔」として豊太郎をそうした価値から遠ざける。その時惹かれていくのがクロステル巷であり、エリスだ。

 「西欧/日本」という対立は「相沢・天方/エリス」という対立と転倒しているように見える。だが相沢や天方大臣は「西欧」的な体制の中心に属している。一方のエリスはドイツ社会における貧困層として、いわば「中心/周縁」における「周縁」に属している。エリスは日本人の豊太郎にとって異人であるとともに、ドイツ社会からも周縁化された存在だという二重性を帯びている。

 そういえば同様に、下の領域にあると考えられる檸檬が、よりによってカリフォルニア産だというのも理屈に合わない。だが果物屋も、「にぎやかな通り」である「寺町通り」にありながら「もともと片方は暗い二条通りに接している街角になっているので店頭の周囲だけが妙に暗い」のだ。

 そうしてみると、檸檬もエリスも、単に下の領域に属しているとだけ単純化して捉えるべきではなく、二つの領域をまたぐトリックスター的な機能を帯びているというべきかもしれない。

トリックスター (英: trickster) とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。(「Wikipedeia」)

 トリックスターは「中心/周縁」を横断することで秩序を破壊するのだ。道化師=ジョーカーが典型的なトリックスターだというのは偶然だができすぎている。


 基本構造は同様に捉えられる二つの物語は、しかし最終的には違った展開を見せる。「檸檬」においては下の領域にある檸檬が上の領域にある丸善・画集を破壊して終わるのだが(もちろんそれは主人公の想像においてのみだが)、「舞姫」では逆に、上の領域にある相沢が、下の領域にあるエリスを、いわば「破壊」して終わるのである。

 こうした結末の違いを、まだ近代化の途上にあった明治に書かれた「舞姫」と、文化の爛熟期を迎えた大正末期に書かれた「檸檬」の違いとして説明するのはいささか牽強付会になるだろうか。

 また「舞姫」の結末における悲劇の意味については、次の「羅生門」との読み比べにおいて、「通過儀礼」という概念を通して再考する。


舞姫 30 比較読解「檸檬」4 解読

 さて、そもそもここまでの考察の発想には元ネタがある。前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」と、柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」だ(かなり短縮したものをプリントした。元の形に近いものをTeamsにアップしてある)

 授業者の「舞姫」および「檸檬」の読みの端緒は、これらの論に拠っている。

太田豊太郎がエリスと出会うクロステル街は、ウンテル・デン・リンデンとはまったく異質な空間として意味づけられている。ウンテル・デン・リンデンの大通りが、へだたりとひろがりをもったモニュメンタルな空間であるとすれば、こちらは内側へ内側へととぐろを巻いてまわりこむエロティックな空間である。

前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」

非常に単純化していうと、『檸檬』で梶井が〝爆破〟しようとしているのは、「交換価値」によって、あるいは「概念」(意味されるもの)によって体系づけられている世界である。

柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」

 前田論は「舞姫」を空間的な対比構造によって読み解いている。実は先に「山月記」との比較の際にも用いたこうした対比構造は、前田論から借りた。

 そこに柄谷の「檸檬」論を結びつける。

 これらの論から、「舞姫」と「檸檬」についてどのような読みが可能か?


 たとえば最初に共有した「檸檬」の謎のうち、物語の冒頭から主人公を「始終おさえつけてい」る「不吉な塊」について考えてみる。

 これを「青春期にありがちな漠然とした鬱屈」だとか、「頽廃した生活がもたらした倦怠」などと説明してはならない(いずれも教員向けの評釈書からの引用)。あるいは芥川の「ぼんやりとした不安」などと同一視してはならない。

 これらは冒頭の「えたいの知れない」に惑わされて考えることを放棄し、その後で「酒を飲んだあと」の 宿酔 ふつかよい に相当し」ていると書いてあるのを無視している。

 では「酒を飲む」という比喩は何を意味するか?


 構造把握に基づいて考えれば、それが「生活がまだ蝕まれていなかった以前」、「蓄音機」で「美しい音楽」を聴いたり、「丸善」に出入りして「オードコロン・香水瓶」を見るのに小一時間も費やしていたことに該当するのだとわかる。

 やがて〈酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる〉。ある量までは美味しいと思って飲んでいた酒が、そのうちに肝臓で分解しきれなくなって体が受けつけなくなる。そうした宿酔の状態が、丸善に対する現在の主人公が感じている「嫌悪」である。

 そんなときに一杯の清涼な水を欲するように、主人公は「裏通り」にあるあれこれ〈みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられ〉〈慰め〉られる。


 「不吉な塊」が「宿酔」であることが一般的に考慮されないのは、冒頭でそう表現されても、その時点ではこの作品の構造が見えてはいないし、「酒」に相当する丸善でさえ2頁程読み進んでからでないと登場しないのだから、故のないことではない。

 語り手の言う「えたいの知れない」を言葉通りに受けとって思考停止してしまうのだ。


 とすれば豊太郎にとって、〈模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて〉勇んで公務に取り組んだり、ベルリンの大都会の景物に目を奪われたりすることが「飲酒」に該当しており、やがて「宿酔」になった豊太郎は〈歴史文学に心を寄せ〉、クロステル巷で〈心の恍惚となりてしばしたたず〉んだりするのである。

 「山月記」との比較では、豊太郎もまた虎になったのだ、という認識が導き出されたときにあらたな「舞姫」の把握が実感されたのだが、「檸檬」との比較によって今度は、豊太郎もまた「宿酔」になっていた=「不吉な塊」を胸に抱えていたのだ、という認識に至ったことになる。


 だがこの「不吉な塊」は「嫌悪」をもたらすだけでなく「焦燥」とも表現される。かつて主人公を酔わせ、今や「我慢がならなくなった」世界は、ただそこから逃げ出せばいいというものでなく、そこから脱落した者に焦燥感を与えるべくすがりついてもくるのである。

 両者を一時酔わせ、やがて宿酔に追いやる〈酒〉とは何か?

 二つの領域の対立はどのようなものか?


     以前/その頃

    東大生/落魄れた

美しい詩・音楽/想像・錯覚

    表通り/裏通り

     丸善/果物屋

     画集/檸檬


   (以前)/3年経って

   エリート/免官

     法律/歴史・文学

  ウンテル…/クロステル巷

カイゼルホウフ/エリスの家

 相沢・天方伯/エリス


 つまり「檸檬」と「舞姫」は、左右の対立をめぐる物語だ。豊太郎は左の世界から右の世界に移行し、結局は左の世界に戻っていく。

 「檸檬」の主人公もまた左から右へ移行するのだが、その結末はどうなっていると考えればいいのだろう?


 対立がどのようなものであるかを把握するために、両辺を表わす対比的な形容をいくつか挙げてみよう。

 新しい/古い

 明るい/暗い

  広い/狭い

真っ直ぐ/いりくんだ

 これらの形容が冠せられるのは、どんな概念・理念・価値か?

 この問いは無論、難題だ。だがこういう「正解」のない問いに対して、互いにあれこれ答えを提示してみて、それに授業参加者全員で検討しあうことこそが授業の意義だ。

 多くのクラスで「理想/現実」が挙がった。だが、左右が逆転した「現実/理想」も挙がったのは面白かった。どちらにあてはめようとしてもそれぞれに肯ける面と、腑に落ちない面とがある。

 他にいくつか候補を挙げてみる。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁


 いくつかのクラスで発想されたのは「する/である」の対比だ(最初に思いついたのはG組のK君)。

 すなわち次のような対比が挙げられるのだ。

近代/非近代

  確かに、明治という、近代化のただなかにあって豊太郎を「エリート」たらしめているものは、「公的社会秩序」における有用性=「する」価値だ。つまり豊太郎は「役に立つ」のである。そうであることに疲れた主人公たちが、あらためて自分にとっての「である」価値に目覚めているということだということか。

 日本にとっての近代化とは、西欧文化の流入だ。そういえば丸善に並んでいるきらびやかな品々はどれも舶来品だし、「美しい詩」は、おそらく和歌などではなく翻訳詩であり、蓄音機で聴く音楽は西洋のクラシック音楽なのだろう。つまり「近代/非近代」という対比は次の対比でもある。

西欧/日本

 また、柄谷の言葉を借りれば、左は「『交換価値』によって、あるいは『概念』(意味されるもの)によって体系づけられている世界」なのだから、それを次のような対比としてみるのは無理な飛躍はない。

    均質な空間/感性的な空間(「場所と経験」より)


 こうした対比に基づいて、「檸檬」と「舞姫」を読み解こう。


2021年12月18日土曜日

舞姫 29 比較読解「檸檬」3 時間・空間の対比

 「檸檬」と「舞姫」には、対比的な心理状態によって区切られる、時期の対比がある。

  以前/その頃

(以前)/3年経って

エリート/落魄・頽廃

 この対比構造に、さらに作品中の要素を対比させて書き加えていこう。

 実は「檸檬」と「舞姫」を比べよ、と指示した段階で、気づいた者もいた。「檸檬」の時間的な対比構造は、「山月記」との比較の際に考察した「舞姫」の空間的な対比構造と、対立軸を同じくするのである。

ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷

 ホテル・カイゼルホウフ/エリスの家

 ということは「檸檬」にも同じような空間的対比があるのだろうか?


 わかりやすいのは「ホテル・カイゼルホウフ/エリスの家」という対比に対応するものとして「丸善/果物屋」という対比が見つかることだ。

 そしてもうちょっと大きな空間として「ウンテル…/クロステル」の対比に「表通り/裏通り」という対比が重なることがわかる。ウンテル・デン・リンデンはベルリンの目抜き通り、中心的な表通りである。

 そしてクロステル巷が裏通りに対応していることは、何よりその描写の印象から感じ取れることだ。

 実際に本文で該当箇所を読み比べてみよう。

なぜだかそのころ私はみすぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣のある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり…


クロステル巷の古寺の前に来ぬ。余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、頰髭長き猶太教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は穴蔵住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引き込みて立てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚となりてしばしたたずみしこと幾度なるを知らず。

寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上りて、四階目に腰を折りて潜るべきほどの戸あり。


 双方に洗濯物が登場するのは偶然とは言え、崩れかかった街のイメージは,驚くほど似ている。

 また「丸善」と「カイゼルホオフ」及びロシアの宮殿の描写を読み比べる。

生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。しゃれた切り子細工や典雅なロココ趣味の浮き模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶。煙管(きせる)、小刀、石鹼、たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。


余が車を下りしはカイゼルホオフの入り口なり。…久しく踏み慣れぬ大理石の階を上り、中央の柱にプリユツシユを被へるゾフアを据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。

ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾、ことさらに黄蠟の燭を幾つともなく点したるに、幾星の勲章、幾枝のエポレツトが映射する光、彫鏤の工を尽くしたるカミンの火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなど…


 印象が似ていることに驚いてほしい(授業者は最初ずいぶん驚いた)。梶井基次郎がそれを意識したとは思わないが、これらはまるで示し合わせたように対応していると感じないだろうか。


 さて、「エリスの家」にエリスがいるように、檸檬は「果物屋」で購ったものだ。

 「相沢・天方伯/エリス」という対比は明らかだが、檸檬に対比されるのは、香水瓶? 石鹸? 小刀?

 檸檬との絡みで考えるならば画集こそがふさわしい。

     丸善/果物屋

     画集/檸檬

     相沢/エリス

カイゼルホウフ/エリスの家

 もう一つ、こうした対比のセットで、「舞姫」と「檸檬」に対応するものを挙げてみよう。

 豊太郎は右の時期において「歴史文学に心を寄せ」るようになる。とするとそれに対応して左に置かれるべきものは?

 「法律」である。豊太郎は法律の勉強のためにドイツに留学を命ぜられたのだった。だが今や法律は「枯れ葉」と表現される。

 同じような対比が「檸檬」の「私」にも認められるだろうか?


 「美しい詩・音楽」を左辺に挙げたい。それは「以前私を喜ばせた」ものであり、今は「辛抱がならなくなった」ものだ。対応する右辺は?

 ここに「花火・びいどろ」を挙げるのは不揃いだ。確かにそれらは右辺に置かれるべきものだが、それに対応して左辺に置かれるのは具体物である「香水瓶・石鹸」などだろう。

 精神活動の対比として、「想像・錯覚」がふさわしいと思う。街を二重写しに見る幻想や、最後に檸檬を爆弾に見立てる想像癖は、右辺にある主人公の心理的な特徴の一つだといえる。

     法律/歴史・文学

美しい詩・音楽/想像・錯覚


 「檸檬」と「舞姫」は、時間的にも空間的にも、そして主人公の心理的状況的にも、きわめて似通った対比構造をもっている。

 そうした直観を可視化するため、「舞姫」と「檸檬」の対比構造を全体として図示しよう。

 例えば、「檸檬」と「舞姫」を左右に振り分けて横軸を類比対応とし、上下は対立関係にある項目を挙げる。

 上記3点に加え、さらにそこにある物品、それぞれに付された形容などを探して、対比図に書き込む。


 これが「檸檬」と「舞姫」の時間・空間、事物や形容などに見出される対比構造だ。

 こうした座標軸の中で、確かに檸檬とエリスは同じ位置にあることが確認できる。

 この構造把握に基づいて両作品を読解してみよう。


舞姫 28 比較読解「檸檬」2 構造化する

 さて、問いは立ててみたものの、それに答えるために何を考えたらいいかは、依然としてよくわからない。檸檬とは○○の象徴だ! などという「答え」は天から「降りて」くるようにして閃くものかもしれない。だがそれを当てにしていたのでは授業はできない。皆でひたすらただ黙って考えてみるにしても、皆が真剣に考えているのか、ただぼーっとしているのかも判然としない。

 授業では、みんなが一斉にやれることに取り組もう。

 まずは情報の、バランスの良い把握と整理だ。そのために、ともかく何かの引っかかりを見つけて、それを手がかりに、まずは読むことを進めるしかない。

 どんな手がかりがあるか?


 最初の問いを立てる段階で、そこに注目している人はあちこちにいた。この小説では「かつて好きだったもの」「今好きなもの」が対比的に列挙される。そうした対比を整理するのが有効なのではないか?

 良い着眼点だ。ともかくも頭を構造化することは、ある種の「理解」にとって必須の作業だ。そして、そのための標識として使える手がかりがもう一つある。これも指摘した人がいた。

 この小説には、「時期」を示す言葉が頻出している。そしてその「時期」の区分は、上記の対比と同一軸に並ぶのである。


 まずは時間・時期を示す表現を文中から探して、それらをマークする。

 この作業によって「檸檬」という小説を読むための構えができる。

 この作業から次のことがわかる。

  1. 「その頃」と「以前」が対比的に何度も示される。
  2. 「ある朝・その日」が同じ一日を指し、それは「その頃」に含まれる。
  3. 「その頃」を「あの頃」と回想する「現在」がある。

 ひとまずはこの対比構造の把握が必要だ

 「その頃」といい「以前」といい、時間には実際には何の区切りもないのだから、それをどう把握するかは、ある観点・視点、つまり意識の変化に拠る。この場合は、これらが対比的であることが、それを区別されるものとして把握させているのである。

 この時間の整理は「檸檬」という物語そのものの構造把握につながる。

 ただ、3については物語中で一箇所、突然浮上するのだが、この回想が何を意味しているかについては、申し訳ない、授業者にはアイデアがない(この点についての解釈を語ってくれた人がいたので、それについては後述)。


 さてもう一つの手がかりは、そもそもの授業の流れであるところの「舞姫」との比較だ。

 これまでの読み比べの作法に従えば、それぞれの作品に対応する要素を探す、ということになる。すると、「エリス=檸檬」説も、早い段階で発想されてもいい。そもそも「檸檬」には「私」以外の登場人物がいないのだ。「私」と豊太郎を対応させて、その後はもう「エリス=檸檬」くらいしか考えようがない(一方で「相沢=檸檬」説もとび出した。これがどんな結論を導くかは、提案した班の手に委ねる)。

 だが繰り返すが授業は「正解」を求めているのではない。要求しているのは根拠と論証だ。そしてそうした対比が可能にする作品の読みだ。

 その直観の根拠となるのは「主人公が心を惹かれるもの」といった共通点であることはすぐに思い浮かぶ。だがその先に考察を進めるのは容易ではない。

 なぜ主人公は「エリス=檸檬」に惹かれるのか?

 そうした設定が意味しているものは何か?


 既に対比として捉えた「檸檬」の構造を「舞姫」にも適用してみよう。

 最初はぼんやり見えてくる。そのつもりで読んでみると次第にはっきりしてくる。「檸檬」の「以前/その頃」に似た対比が「舞姫」にもあるではないか。留学後のある時期までと、3年経ってからの時期だ。

  • 檸檬   以前/その頃
  • 舞姫 (以前)/3年経って

 どちらも左から右へ、主人公の 頽廃 たいはい 落魄 らくはく といった変化がある。豊太郎はエリートコースを外れて免官されるし、「檸檬」の「私」は、たぶん大学生だろうが(ちなみに梶井基次郎自身は東大在学時に「檸檬」を発表している。余談だが今回扱う作品の作者はみな、東大出身なのだった。鷗外、漱石、芥川龍之介、梶井基次郎、中島敦…。閑話休題)、学校に行っている友達の家に居候して、本人はぶらぶらしている。金もない。「 落魄 おちぶ れて」「生活が…蝕まれて」といった表現が文中にある。

 どちらも、似たような変化によって、「時期」を分けることができるらしい。

 それぞれの時期に属する要素を、さらに対比的に列挙してみよう。


2021年12月16日木曜日

舞姫 27 比較読解「檸檬」1 問いを立てる

 次は「檸檬」と「舞姫」。

 「檸檬」も教科書小説教材の定番だ。有名だし好きな人も多い作品だが、それは教科書に載っているからでもある。

 授業者も高校の授業で読んだ。だがもちろん何を言っているのか、ちっともわからなかった。当時の教師が何を言っていたのかは覚えていない。ただ、良いだろ、これ、というような「文学的」な享受を生徒に期待していたような気がする。高校生としては、主人公の抱える憂鬱もなんだか文学っぽいポーズのようなものとしてしか受け取っていなかったし、檸檬が爆弾だとかいう想像もまるで理解も共感もできなかった(だがこれに共感できるという人は世の中にはいっぱいいるらしい。A教諭とかG組Y君とか…)。

 ただ、授業でそんなものを読んだことは覚えていない、などと言うつもりはない。むしろ印象は強い。

 授業者にとって、高校生の頃に読んだ「檸檬」は、ただひたすらに「描写」の小説だった。とりわけ、檸檬を購ったかの果物屋の描写の美しさには感嘆した。

 そういった文学享受のありようも否定はしないが、今回授業で取り上げるにあたっては、ある読解の決着点を目指す。


 全ての文章の読解は、まずは「この文章は何を言っているか?」を当面の目標とする。

 もちろんそれではとりつくシマもないと感ずるから、それぞれの文章で、それを考える上で有効と思われる問いを細分化して立てる。「羅生門」ならば「下人はなぜ引剥をしたか?」だし、「山月記」なら「李徴はなぜ虎になったか?」だし、「こころ」なら「Kはなぜ自殺したか?」…。さて「檸檬」では?

 話し合いの中で提出された問いは、さまざまな抽象度のものが混ざっているだろうから、そこから精選して、次の問いを全体で共有しておく。


  1. 「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?
  2. 檸檬は「私」にとって何の象徴か?
  3. 画集を積み上げて檸檬を置くことや、檸檬を爆弾だと想像することは何を意味するか? それが「私」にとってなぜ快感なのか?
  4. 最後の一文をどう解釈するか?


 これら諸点について、当時の教師がどのように語ったのかはまるで覚えていないが、少なくとも授業者にそれが理解されなかったことは確かだ。

 だが、今授業の読解は、これらの問いに答える、つまり「檸檬」とはどのような物語かを、いささかなりと語りうる方途を見出すことを図る。

 さしあたって、これらの問いの関係を概観しておく。

 1と2は対になっている。「不吉な塊」と「檸檬」が対立的な意味をもっているらしいことはわかる。

 物語に、何のことだが腑に落ちないことは山ほどあるが、それを例えば2のような抽象度の問いとして発想できるようにすることは、2年間の授業を通しての一つの目標ではあった。「不吉な塊」は最初から比喩だから、それが何を喩えているのかと考えることは自然だが、檸檬という具体物を、ここでは象徴として読む必要があるのだと明確に意識できるかどうかが、小説を読む上での一つのスキルなのだ。

 そして、檸檬の色、形、重さ、冷たさが念入りに描かれているから、それら何の意味があるのかと気になるが、それらは2を考える上でほとんど有効でないこともわかってほしい(いや、単に授業者が思いついていないだけで、これらをヒントとする読解も可能なのかもしれない)。

 ではどうするか?

 3から考えるのである。2は3からしか考えられないし、3に答えられるということは2がわかるということだ。つまり2と3は相補的な問いなのである(檸檬を手にしているとなぜ丸善に入る気になるのか、とか、なぜ画集を見ることに疲れてしまったのか、といった疑問もこれに付随する)。

 4はその上でもう一歩、自由度の高い小説の解釈の愉しみを味わいたい。


2021年12月6日月曜日

舞姫 26 比較読解「こころ」5 無作意の悲劇

 「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を道徳的に批難しているようには見えないからである。

 だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。

 鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのである。


 さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現とともに、「無作為による悲劇」という表現を提示した。

 ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。

 「不作為」は「しないこと」である。「私」と豊太郎の罪は「選択」という「作為=したこと」にあるのではなく、「言わない」という「不作為=しなかったこと」にある。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、実は主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入である。

 奥さんと相沢、二人が為したのは、物語の決定的な悲劇をもたらす事実をそれぞれの犠牲者に告げる役割である。だがそれはことさらに「作意」のあるようなものではないように見える。

 奥さんにしてみれば当然、友人であるKに対しては、「私」の口からとうに婚約成立の事実が告げられているはずである。

 また相沢にしてみれば当然、エリスと別れるという豊太郎の約束はエリス本人にはとうに告げられているはずである。

 二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずである。

 二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態がもたらす③の悲劇を描いているのだと言える。

 そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。

 「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。


 だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。

 奥さんと相沢の介入は本当に「無作」なのだろうか?


 奥さんにとって、親の遺産を相続して東京に出てきた帝国大学生である「私」は、娘の結婚相手として申し分のない相手である。そして当の「私」が娘に気があるのは、恐らく母親にも筒抜けである。一方同じ帝大生とはいえ、親元から勘当されて金に困っているKは条件において劣るという判断は、娘の親としては当然である。

 当のお嬢さんはそうした条件に左右されてはいないだろうが、どうもこの母子は、なかなか煮え切らない「私」をその気にさせるために、Kをいわば当て馬にしているふしがある。少なくとも、結婚相手として「私」が話題に上がっていたであろうという想定は、結婚の申し込みに対して母親が二つ返事で「本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」と承諾しているところから充分に読み取れる。

 さて、めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉というのだから、それでも何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kにこのことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。

 もちろん奥さんは、友人である「私」の口からKさんへはとっくに伝えてあるはずだ、という逃げ道を確保してある。あまつさえ〈あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは〉と「私」を責めることで自らの責任を回避し、その「作意」を隠してさえみせるのである。


 一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。

 当の豊太郎はエリスとの関係について〈この情縁を断たんと約し〉はしたものの、実際の行動の上からはどうもはっきりしない。そこで病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣るのである。

 もちろんここでも相沢は、「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。ここでもその「作意」は巧妙に隠されている。


 二つの悲劇は、奥さんと相沢という第三者の「無作為」の介入によって起きた、と一見したところ見えているのだが、実は二人は、自らの利益のために邪魔者を排除せんとする「作意」によって、この「無作為」に見える介入をしたのだ、と読むことも可能である。

 断定はできない。二人は本当に「無作為」だったのか? 自らの「作意」を自覚していたのか? 自らの「作意」が悟られないはずだという計算のもとに「無作意」に見える行為を実行したのか?

 「無作意」という言葉は辞書にはない。辞書には「無作為」としか載っていない。しかし、二人の行為はその「無作意」に疑いの余地がある。「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作意」のある疑いが。

 二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えているのである。


舞姫 25 比較読解「こころ」4 不作為の悲劇

 さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。

D

 ①  私 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 ①  私 ―豊太郎

 ② 奥さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Dの対応から見えてくるのは、「こころ」と「舞姫」を「①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る物語」だと捉える読解である。だがこれが作品を適切に捉えていないことは、最初から皆感じ取っていたはずだ。

 ではEの対応はどのような作品把握に基づいているか。

 ①と③はDと同じ。①は主人公というだけでなく、語り手という特権的な位置を占めているし、③が悲劇の犠牲者であることも、その対応には十分な必然性がある。

 ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。

 「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。

 みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。

 悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。

 だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。


 授業者が提示したいのは次の表現だ。

不作為による悲劇

無作為による悲劇

 これらはどのような把握を意味しているか?


 まず「不作為」と「無作為」の語義を捉える必要がある。

 「不作為」→すべき行為をしないこと。

 「無作為」→作為がないこと。意図的でないこと。


 Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。

 二つの物語における〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。

 そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うのが②奥さんと相沢である。

 この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。


 もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?

 Kの恋心の告白とは、実は自らの「道」に対する迷いの告白だ。恋が信仰の妨げになるという信条に反するから、恋心はKにとって罪である。だが「私」が自分の恋心を告白していれば、Kにとっては自分の恋心が相対化され、その罪の深刻さは軽減されるはずである。

 また、婚約の件をKに伝えることは、Kの自殺を食い止める決定的な契機になったはずだ。奥さんから婚約の件を聞いた時の〈変な顔をしていた〉〈最もおちついた驚き〉と表現されるKの反応の裡に読み取るべき心理は、「私」が考えるようにお嬢さんを失う絶望でも、裏切った友人への怒りでもない。Kの関心は自らの求道の行方であり、だからこそ友人とお嬢さんの婚約は寝耳に水の展開ではあるが、それは決して直ちにKの怒りや悲しみや絶望を引き起こすものではない。Kは自らの関心の外にあるこうした展開に、どうとも反応できずにとまどっているだけである。

 やがて「二日余り」の間に徐々に納得が訪れる。自分の悩みを聞いていたはずの友人の中で、自分の悩みとはまるで関係のない煩悶が繰り広げられていたことが、ようやく分かってくる。だがそうしたすれ違いに、自分も、友人も、まるで気付かずにいた。ならば「理想と現実の衝突」という問題はただ自分が解決するしかないのであり、〈覚悟〉していた自死という決着は、とうに自分独りで実行に移すべき処断だったのだ、とKは思い至る。

 遺書の最後に書き添えた「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という述懐に込められた心情、また、「私」が後に考える〈Kが私のように淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうか〉というKの心理はそのようなものだ。

 端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。

 とすれば、「私」がKに自らの思いを告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。

 つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのである(Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しい。詳しくはブログの昨年度の記事を参照されたい)。


 一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ〈友に対して否とはえ答へぬが常なり〉とか〈余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり〉などと言い訳がましい説明をしては、目の前にいる者に恭順してしまう。

 だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。前述の通り、作者鷗外はそのつもりで豊太郎を描いている。

 とすれば、なぜ豊太郎は発狂したエリスを置いて日本に帰るような非道な行いをしたのかと問うべきではなく、むしろエリスが発狂することによって豊太郎は日本に帰れたのである。

 あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。

 エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。

 とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。


舞姫 24 比較読解「こころ」3 ≠選択の悲劇

 「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。

 にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることはなぜ不適切だと言えるのか?


 「舞姫」においては、豊太郎が「故郷+栄達」と「愛情」の選択に悩んでいることは、本文に明らかな記述がある。

 だが、「舞姫」という物語において、結局のところ主人公による選択はされなかったと言うべきである。

 豊太郎は相沢にしろ天方伯にしろ、目の前にいる人物に対してとりあえずの恭順を示してしまう。エリスとの縁を切れと言われても、日本に帰ろうと言われても、「はい」と答えてしまう。

 一方でエリスに対してもロシア行から帰った時〈故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕の思ひは去りて、余は彼を抱〉いてしまう。

 つまりどちらが選ばれるかは後出しジャンケンのようにして決まるといっていい。どちらにも豊太郎の主体的な選択のニュアンスはなく、だから時間的に後にきている、天方伯への帰国の了承の返答も、その後でエリスとの対面があればたやすくひっくり返りそうな気配がある(鷗外自身が「『舞姫』論争」でそのことを認めている)。

 したがって、エリスの主観からすれば、選択されなかったことによって発狂したのだとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだ、と言えるのである。エリスが冷静に豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。

 つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズム〉による選択によるものではないのである。


 一方「こころ」についてはどうか。

 まず、K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまったく違った構造において成立している。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけである。

 さらに「私」が天秤に掛けているのは②と③ではない。

 通常はこの選択肢は「友情/愛情」であるように語られる。もうちょっと気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。

 だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。

 そう、「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていないのだ。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのである。

 では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?


 物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。

 それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?


 「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。

 この葛藤はむろん「友情か愛情か」という選択とはまるで無関係だし、巷間「こころ」のテーマとして語られる「倫理観とエゴイズムの葛藤」とも違う。

 「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのである。

 言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。

 いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の対象になってはいない。


 「こころ」と「舞姫」を

①が②と③の選択に迷い、

②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る

 と把握することはまちがっている。豊太郎は相沢を選んでいないし、「私」はお嬢さんとKの選択に迷っていないだけでなく、最終的に何かを選んでさえいない。

 それでは二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?


2021年12月4日土曜日

舞姫 23 比較読解「こころ」2 選択の悲劇

 BCは意外なアイデアだった。とはいえそれらは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。

 それに対して、次は授業者から提示したい対応関係だ。

 ①  私 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Dの対応を発想した者は必ずしも多くなかったのだが、実はこれこそが、最も一般的な「こころ」把握であり「舞姫」把握であることを認めなくてはならない。そしてDのような把握には「王道」とも言うべき強い必然性がある。

 ①「私」と豊太郎はいずれも主人公であり、物語の語り手である。

 また③Kとエリスは、両者がどちらも物語のクライマックスを為す悲劇の犠牲者である。

 一人称の語り手によって、登場人物の自殺と発狂がいわば物語の最大の「山場」として語られるような二つの物語を比較するうえで、①と③をこのように対応させることには強い必然性があるのである。

 ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?


 「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能である。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。

 だがさらに一般的なこれらの小説の受容のあり方から言えば、次のように言うのが自然だろう。

①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る

 「こころ」において、「私」はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。

 一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。

 ①  私 ―豊太郎(エゴイズムによる選択)

 ②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)

       ↑

      主人公による選択

       ↓

 ③  K ―エリス(選択されなった悲劇)

 一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と出世の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。

 だがこうした把握は間違っていることは、ここまで授業を受けてきた皆にはすぐにわかる。

 だがなぜこれが間違った物語把握だと言えるのか?

 にもかかわらず、なぜこのような対応による物語把握が一般的にはなされるのか?


 間違っていることを説明することの方が容易かもしれない。「一般的」といいながら、むしろDを発想した者はそれほど多くはなかった。それは健全なことだ。「不適切」と言っているのだから、それが発想されないことはむしろ両作品を適切に捉えている証拠ではある。

 だが上に述べたように、Dの把握には強い必然性がある。主語を主人公にすることも、物語の帰結としてKとエリスの悲劇をおくことも。

 だがそれだけではない。これらの物語には、そのように読者に捉えさせる強い方向付けがなされているのである。それは何か?


 二人の主人公の共通点は、彼らが手記の語り手だという点だ。二人は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?


 一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている

 さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」「後悔・悔恨」である。

 「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。

 一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。

 そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。

 「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白である。「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。ここには相沢に対するいわゆる「恨み」も含まれていようが、むしろ自らの行為に対する「悔恨」、つまり「罪悪感」が述べられていると見る方が適切だ。

 一人称の語り手でもある主人公たちのこうした言明は、読者にとっても殊更に無視できない重さを持っていて、それが物語の「主題」を形成すべく読者を誘導する。それがすなわち「エゴイズムの罪」である。二人は自らのエゴイズムによる選択が引き起こした悲劇の罪を抱えて生きていくのである。

 つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造としては適切なのである。そして一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。


 ではこうした把握がなぜ間違っていると言えるのか?