2021年12月6日月曜日

舞姫 24 比較読解「こころ」3 ≠選択の悲劇

 「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。

 にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることはなぜ不適切だと言えるのか?


 「舞姫」においては、豊太郎が「故郷+栄達」と「愛情」の選択に悩んでいることは、本文に明らかな記述がある。

 だが、「舞姫」という物語において、結局のところ主人公による選択はされなかったと言うべきである。

 豊太郎は相沢にしろ天方伯にしろ、目の前にいる人物に対してとりあえずの恭順を示してしまう。エリスとの縁を切れと言われても、日本に帰ろうと言われても、「はい」と答えてしまう。

 一方でエリスに対してもロシア行から帰った時〈故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟躕の思ひは去りて、余は彼を抱〉いてしまう。

 つまりどちらが選ばれるかは後出しジャンケンのようにして決まるといっていい。どちらにも豊太郎の主体的な選択のニュアンスはなく、だから時間的に後にきている、天方伯への帰国の了承の返答も、その後でエリスとの対面があればたやすくひっくり返りそうな気配がある(鷗外自身が「『舞姫』論争」でそのことを認めている)。

 したがって、エリスの主観からすれば、選択されなかったことによって発狂したのだとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだ、と言えるのである。エリスが冷静に豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。

 つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズム〉による選択によるものではないのである。


 一方「こころ」についてはどうか。

 まず、K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまったく違った構造において成立している。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけである。

 さらに「私」が天秤に掛けているのは②と③ではない。

 通常はこの選択肢は「友情/愛情」であるように語られる。もうちょっと気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。

 だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。

 そう、「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていないのだ。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのである。

 では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?


 物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。

 それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?


 「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。

 この葛藤はむろん「友情か愛情か」という選択とはまるで無関係だし、巷間「こころ」のテーマとして語られる「倫理観とエゴイズムの葛藤」とも違う。

 「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのである。

 言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。

 いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の対象になってはいない。


 「こころ」と「舞姫」を

①が②と③の選択に迷い、

②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る

 と把握することはまちがっている。豊太郎は相沢を選んでいないし、「私」はお嬢さんとKの選択に迷っていないだけでなく、最終的に何かを選んでさえいない。

 それでは二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?


0 件のコメント:

コメントを投稿