2021年12月21日火曜日

舞姫 31 比較読解「檸檬」5 謎を解く

 「檸檬」と「舞姫」に見出せる対比構造を表わす抽象語を考えてみた。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁

    する/である

    近代/非近代

    西欧/日本

    均質/感性


 これらの対立に基づいて読むことの妥当性を考えることが、すなわち「檸檬」や「舞姫」を読むことだ。上のどれかが「正解」などということもなく、ましてそうした「正解」を教わることに意味があるわけではない。

 妥当性は作品の読解によって保証される。読解に資するものであればいい。

 こうした構図に基づいて引き続き、最初に提示した「檸檬」の謎を解こう。


 画集を積み上げて檸檬を置くという行為は何を意味するか?

 柄谷の論が参考になる。画集が象徴しているのは、外国から輸入された、公的に価値を認められた秩序体系だ。本来は秩序を破壊する力を持っているはずの芸術を、規格化された体裁に収めて年代順かアルファベット順に並べることで秩序に馴致させたものが画集である。またこうした全集に収録されることでそれらは権威づけられ、収録されていない作品・作者群との間に中心(権威)/周縁という秩序を構成する。

 主人公は、こうした秩序体系において価値を認められている画集本来の価値を無効化して、あたかも積み木のように用い、その秩序を壊して「ゴチャゴチャに積み上げ」る。

 そして、公的なヒエラルキーを逆転して、その頂上に檸檬を置く。それはつまり先ほどの構図の、下の領域による、上の領域の価値の転倒である。


 だが、いっときヒエラルキーの逆転に満悦したとしても、狂態の後で再び画集を元通りに棚に戻したのでは、秩序は回復してしまう。

 その時主人公の頭に第二のアイデアが浮かぶ。秩序を回復することなく、檸檬爆弾によって秩序を丸善諸共破壊してしまう、というだめ押しである。

 つまり「檸檬」という物語は、右の領域による、左の領域の秩序の破壊という欲望を形象化しているのだ。(ということで下の写真も、東大京大の赤本青本の上に絵本を置いて、てっぺんに檸檬を乗せるところにヒエラルキーの逆転の意図を読み取ってほしい)


 このまま物語の結末も解釈できるだろうか?

 「舞姫」が左から右へ移行して最終的に左へ帰還する物語であるのと対照的に、「山月記」は右に(虎の世界に)行って終わる物語だった。では「檸檬」は?

 授業で聞いてみると、最後の一文を、そのまま右側に留まっていると解釈する者が多かったが、檸檬爆弾など所詮妄想に過ぎないのだから、結局は左側に戻るしかないと考える少数派がいないわけではなかった。授業者にはアイデアのない例の「現在」を、「舞姫」における、手記を書いている豊太郎と同じ位置にいるものと考え、回想という体裁で語る共通点から、「檸檬」もまた秩序に戻るしかない「舞姫」と同じ結末を意味しているという解釈を語ってくれたのはB組のWさんだった。

 最後の一文の解釈は、「京極を下がる」という行為における「京極」とか「下がる」を手がかりに考えるより、明らかに「活動写真の看板画が奇態な趣で街を彩っている」という描写・形容に重点がある。これをどのようなイメージで捉えるべきか?

 授業者のイメージでは、「活動写真の看板画」の印象は「あの安っぽい絵の具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火」や、画集を積み上げた「そのたびに赤くなったり青くなったり」する「奇怪な幻想的な城」に近いように思える。活動写真=映画の虚構性も、「想像・錯覚」に浸る主人公の精神状態に近しい。

 それが「奇体な趣で街を彩っている」のは、檸檬による爆破によって下の領域(たとえば「混沌・周縁」)が上の領域(「秩序・中心」)に溢れ出している、といったイメージではないだろうか。「活動写真」という虚構の世界を現実に重ねる「想像・錯覚」が、この一文のイメージなのではないか。

 とすれば結末において主人公はどちらの領域にいるのか、という問題ではなく、二つの領域の境が融け出して、全てが混沌に陥っている街を、主人公は悠然と闊歩しているのかもしれない。


 一昨年の授業で以上の解釈を語った時に、それは『Joker』だ、と言った生徒がいた。ちょうどその映画を劇場で観ていた授業者は、そう言われて、はたと思い当たってしまった。なるほど。

 アメコミ・ヒーロー、『バットマン』のレギュラーのヴィラン(悪役)であるジョーカーの誕生を描いた同映画では、社会の周縁にいる弱者である主人公が、思いがけず悪のヒーローとして暴徒に祭り上げられる。まさしく周縁が中央に反逆し、混沌が秩序を破壊せんとする物語なのだ。

 ゴッサムシティが暴動に包まれるクライマックスと「檸檬」の結末が奇妙に重なって見える。

 『Joker』では、しかしその暴動が実はジョーカーの妄想なのかもしれないという不確かさで描かれているのだが、「檸檬」の結末の「奇体な」イメージもまた、主人公の妄想の中だけなのかもしれない。そのあやういバランスもまた似ている。

 それだけではなく、ビジュアルイメージとしても奇妙な類似がある。

 CMでは階段でジョーカーが踊るシーンが使われているが、軽い仰瞰で捉えた階段を「檸檬」の画集の山に見立てると、檸檬がジョーカーなのだ。(0:20過ぎ)


 もうひとつ。暴動の中で、ジョーカーがパトカーの上で踊るシーンがある。(2:40あたりから)


 パトカーとは当然「秩序」の象徴であり、破壊されたパトカーの上にジョーカーが立つというのは、比喩とさえ言えないほどあからさまにヒエラルキーの逆転を意味する。とすればパトカーは乱雑に積み上げられた画集であり、その上に乗るジョーカーこそ檸檬なのだった。


 豊太郎が法律の勉強より文学や歴史にうつつをぬかし、官長を軽んじたり同郷の留学生を疎んじたりしてエリスと関わった結果、官職を罷免されるにいたる乱心も、「檸檬」の「私」が丸善で見せた狂態と同様に考えることでその意味がはっきりする。豊太郎もまたジョーカーと化したわけだ。

 日本にとっての近代化とは西欧化にほかならない。そうした近代的体制の中でエリートとしての地位にいた豊太郎はいわば、漱石の言うところの「外発的」な文化に酔っていたのだといえる。だがそれがいつしか「宿酔」として豊太郎をそうした価値から遠ざける。その時惹かれていくのがクロステル巷であり、エリスだ。

 「西欧/日本」という対立は「相沢・天方/エリス」という対立と転倒しているように見える。だが相沢や天方大臣は「西欧」的な体制の中心に属している。一方のエリスはドイツ社会における貧困層として、いわば「中心/周縁」における「周縁」に属している。エリスは日本人の豊太郎にとって異人であるとともに、ドイツ社会からも周縁化された存在だという二重性を帯びている。

 そういえば同様に、下の領域にあると考えられる檸檬が、よりによってカリフォルニア産だというのも理屈に合わない。だが果物屋も、「にぎやかな通り」である「寺町通り」にありながら「もともと片方は暗い二条通りに接している街角になっているので店頭の周囲だけが妙に暗い」のだ。

 そうしてみると、檸檬もエリスも、単に下の領域に属しているとだけ単純化して捉えるべきではなく、二つの領域をまたぐトリックスター的な機能を帯びているというべきかもしれない。

トリックスター (英: trickster) とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。(「Wikipedeia」)

 トリックスターは「中心/周縁」を横断することで秩序を破壊するのだ。道化師=ジョーカーが典型的なトリックスターだというのは偶然だができすぎている。


 基本構造は同様に捉えられる二つの物語は、しかし最終的には違った展開を見せる。「檸檬」においては下の領域にある檸檬が上の領域にある丸善・画集を破壊して終わるのだが(もちろんそれは主人公の想像においてのみだが)、「舞姫」では逆に、上の領域にある相沢が、下の領域にあるエリスを、いわば「破壊」して終わるのである。

 こうした結末の違いを、まだ近代化の途上にあった明治に書かれた「舞姫」と、文化の爛熟期を迎えた大正末期に書かれた「檸檬」の違いとして説明するのはいささか牽強付会になるだろうか。

 また「舞姫」の結末における悲劇の意味については、次の「羅生門」との読み比べにおいて、「通過儀礼」という概念を通して再考する。


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