2021年12月6日月曜日

舞姫 26 比較読解「こころ」5 無作意の悲劇

 「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を道徳的に批難しているようには見えないからである。

 だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。

 鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのである。


 さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現とともに、「無作為による悲劇」という表現を提示した。

 ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。

 「不作為」は「しないこと」である。「私」と豊太郎の罪は「選択」という「作為=したこと」にあるのではなく、「言わない」という「不作為=しなかったこと」にある。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、実は主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入である。

 奥さんと相沢、二人が為したのは、物語の決定的な悲劇をもたらす事実をそれぞれの犠牲者に告げる役割である。だがそれはことさらに「作意」のあるようなものではないように見える。

 奥さんにしてみれば当然、友人であるKに対しては、「私」の口からとうに婚約成立の事実が告げられているはずである。

 また相沢にしてみれば当然、エリスと別れるという豊太郎の約束はエリス本人にはとうに告げられているはずである。

 二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずである。

 二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態がもたらす③の悲劇を描いているのだと言える。

 そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。

 「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。


 だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。

 奥さんと相沢の介入は本当に「無作」なのだろうか?


 奥さんにとって、親の遺産を相続して東京に出てきた帝国大学生である「私」は、娘の結婚相手として申し分のない相手である。そして当の「私」が娘に気があるのは、恐らく母親にも筒抜けである。一方同じ帝大生とはいえ、親元から勘当されて金に困っているKは条件において劣るという判断は、娘の親としては当然である。

 当のお嬢さんはそうした条件に左右されてはいないだろうが、どうもこの母子は、なかなか煮え切らない「私」をその気にさせるために、Kをいわば当て馬にしているふしがある。少なくとも、結婚相手として「私」が話題に上がっていたであろうという想定は、結婚の申し込みに対して母親が二つ返事で「本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」と承諾しているところから充分に読み取れる。

 さて、めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉というのだから、それでも何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kにこのことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。

 もちろん奥さんは、友人である「私」の口からKさんへはとっくに伝えてあるはずだ、という逃げ道を確保してある。あまつさえ〈あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは〉と「私」を責めることで自らの責任を回避し、その「作意」を隠してさえみせるのである。


 一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。

 当の豊太郎はエリスとの関係について〈この情縁を断たんと約し〉はしたものの、実際の行動の上からはどうもはっきりしない。そこで病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣るのである。

 もちろんここでも相沢は、「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。ここでもその「作意」は巧妙に隠されている。


 二つの悲劇は、奥さんと相沢という第三者の「無作為」の介入によって起きた、と一見したところ見えているのだが、実は二人は、自らの利益のために邪魔者を排除せんとする「作意」によって、この「無作為」に見える介入をしたのだ、と読むことも可能である。

 断定はできない。二人は本当に「無作為」だったのか? 自らの「作意」を自覚していたのか? 自らの「作意」が悟られないはずだという計算のもとに「無作意」に見える行為を実行したのか?

 「無作意」という言葉は辞書にはない。辞書には「無作為」としか載っていない。しかし、二人の行為はその「無作意」に疑いの余地がある。「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作意」のある疑いが。

 二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えているのである。


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