BCは意外なアイデアだった。とはいえそれらは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。
それに対して、次は授業者から提示したい対応関係だ。
D
②お嬢さん―相沢
③ K ―エリス
Dの対応を発想した者は必ずしも多くなかったのだが、実はこれこそが、最も一般的な「こころ」把握であり「舞姫」把握であることを認めなくてはならない。そしてDのような把握には「王道」とも言うべき強い必然性がある。
①「私」と豊太郎はいずれも主人公であり、物語の語り手である。
また③Kとエリスは、両者がどちらも物語のクライマックスを為す悲劇の犠牲者である。
一人称の語り手によって、登場人物の自殺と発狂がいわば物語の最大の「山場」として語られるような二つの物語を比較するうえで、①と③をこのように対応させることには強い必然性があるのである。
ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?
「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能である。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。
だがさらに一般的なこれらの小説の受容のあり方から言えば、次のように言うのが自然だろう。
①が②と③の選択に迷い、②を選ぶことで、選ばれなかった③が悲劇に陥る
「こころ」において、「私」はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。
一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。
D
②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)
↑
主人公による選択
↓
③ K ―エリス(選択されなった悲劇)
一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と出世の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。
だがこうした把握は間違っていることは、ここまで授業を受けてきた皆にはすぐにわかる。
だがなぜこれが間違った物語把握だと言えるのか?
にもかかわらず、なぜこのような対応による物語把握が一般的にはなされるのか?
間違っていることを説明することの方が容易かもしれない。「一般的」といいながら、むしろDを発想した者はそれほど多くはなかった。それは健全なことだ。「不適切」と言っているのだから、それが発想されないことはむしろ両作品を適切に捉えている証拠ではある。
だが上に述べたように、Dの把握には強い必然性がある。主語を主人公にすることも、物語の帰結としてKとエリスの悲劇をおくことも。
だがそれだけではない。これらの物語には、そのように読者に捉えさせる強い方向付けがなされているのである。それは何か?
二人の主人公の共通点は、彼らが手記の語り手だという点だ。二人は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?
一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている。
さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」と「後悔・悔恨」である。
「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。
一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。
そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。
「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白である。「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。ここには相沢に対するいわゆる「恨み」も含まれていようが、むしろ自らの行為に対する「悔恨」、つまり「罪悪感」が述べられていると見る方が適切だ。
一人称の語り手でもある主人公たちのこうした言明は、読者にとっても殊更に無視できない重さを持っていて、それが物語の「主題」を形成すべく読者を誘導する。それがすなわち「エゴイズムの罪」である。二人は自らのエゴイズムによる選択が引き起こした悲劇の罪を抱えて生きていくのである。
つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造としては適切なのである。そして一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。
ではこうした把握がなぜ間違っていると言えるのか?
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