2021年12月21日火曜日

舞姫32 比較読解「羅生門」1 通過儀礼

 最後に「羅生門」と「舞姫」を読み比べてみよう。

 今年度の授業は「羅生門」から始まった。最後の教材「舞姫」の読解を「羅生門」との重ね合わせで終わるのも妙な巡り合わせではある(もちろん普通は1年生の早い時期に「羅生門」を読むので、つまりこの2作品は高校の国語科授業の最初と最後を飾る小説だといえる)。

 この読み比べによって期待するのは、なぜエリスはあんなに酷い目に遭わねばならないのかという疑問に対する一つの説明である。この疑問に対する別の解答は「こころ」との比較において考察した、豊太郎を日本に帰すという結末を前提として、豊太郎の性格造型との整合性を持たせるため、という心理的な機制である。一方ここでは文化人類学的な知見を応用した、別の説明を試みる。


 さて、両作品を比較する端緒は何か?


 共通するキーワードは「通過儀礼」である。

「通過儀礼」 出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(「Wikipedia」)

「イニシエーション」 人類学用語。「成年式」「入社式」とも訳される。社会的に一人前の成人として認知,編入されるための一連の手続きのこと。広義には,ある社会的カテゴリーから他の社会的カテゴリーへの,集団的あるいは個人的加入を認可するための一連の行為体系をさし,秘密結社への加入やシャーマンなど宗教職能者の地位の取得なども含まれる。通過儀礼を伴うことが多い。(「コトバンク」)

 長らく国語教育界では「羅生門」を「極限状況において人間が持たざるを得ないエゴイズム」を主題とする小説として扱ってきた。だが今年度の最初に読んだ「羅生門」はそのような小説ではなかったはずだ。

 ここでは詳述しないが、授業で提示した読解によれば、「羅生門」とは自らの「観念」から脱却する話だ。とすればそれは下人にとって一種の成長譚と捉えることができる。

 そしてこれを通過儀礼の物語として読もうというのが、ここでの読み比べの手がかりである。

 一方、「舞姫」を通過儀礼の物語として読む可能性については、前述の前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」に言及が見られる。


 さて、「舞姫」と「羅生門」を通過儀礼の物語として読むためには、もう少し準備がいる。それは通過儀礼の基本構造を押さえておくことである。

通過儀礼がその構造上、三つのプロセスに分けて考えることができるのは文化人類学の定説である。まず儀礼の当事者は彼がそれまで帰属していた社会的立場から〈分離〉する。そしていったん、彼は日常的な社会秩序から解き放たれ、非日常的な時空を象徴的に生きる。この状態を〈移行〉期と呼ぶ。やがて彼は再び社会に〈再統合〉されるが、その段階では彼はそれまでその支配下にあったのとは全く異なる社会的秩序のものと組み込まれているのである。(大塚英志『人身御供論―供犠と通過儀礼の物語』)

 古くからの民俗や習俗にとどまらず、多くの民話・神話、童話やファンタジーなどの物語をこの〈分離〉→〈移行〉→〈再統合〉という基本構造によって分析する試みが、これまで文化人類学や民俗学で行われてきた。

 たとえば、旅をモチーフとする、いわゆる「行きて帰りし物語」は基本的に通過儀礼の構造をもつものとして把握できることが知られている。

 「桃太郎」「一寸法師」「白雪姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」などの民話、あるいは「ナルニア国物語」「指輪物語」「ゲド戦記」「ハリー・ポッター」などのファンタジーにも同様の構造が見られる。

 たとえば人口に膾炙した宮崎駿監督によるジブリ・アニメの諸作品も、多くはそうした構造をもっているといっていい。

 中でも最も典型的なのが『千と千尋の神隠し』だ。現実の世界では中学生である千尋は、トンネルを抜けて迷い込んだ神々の世界で父母と離れ名前をはぎ取られて(分離)、湯屋の下働きとして働き(移行)、やがて元の世界へ帰る(再統合)。そこには主人公の成長を描こうとする、明瞭に意図された通過儀礼の構造があからさまに見て取れる。


 さて、以上の予備知識をもとに「舞姫」と「羅生門」について考察する。


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