2021年12月21日火曜日

舞姫35 最終回

 最後の「羅生門」との比較は、「通過儀礼」という視点を提示した時点で既に実質的な読解はほぼ完了していると言っていいから、授業時間内における考察の余地がそれほどあるわけではなく、授業時間の残りのなくなったクラスでは割愛した。


 それにしても、最初の一章の口語訳朗読を始めてから、既に長い時間を経過している。後期まるまる全ての授業を「舞姫」の読解に費やした。

 「舞姫」という、教科書の定番教材であり文学史上は紛れもなく重要な小説と目されていながら、現代の一般読者からするとひどく読みにくくて、そのわりにカタルシスもない小説は、主人公の行為=選択に主題を求めようとすると、重苦しいばかりで面白くもない。

 だが小説としての情報密度の高さを信頼してその論理を読み解こうとすると、物語はたちまち魅力的な謎をいくつも提供してくれる。

 とはいえそれを楽しむためには、みんなで考えることのできる授業という場が必要だ。そしてそれを成立させるのは皆の姿勢次第で、それが確保されれば、読み進めること自体が楽しい。

 そうして読み終えた後で考えるべきなのはやはり、豊太郎の行為の是非などではない。

 今回、高校国語科授業の定番といっていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」との読み比べを通して、「舞姫」という小説が、ページをめくるたびに違った相貌を見せる、とび出す仕掛け絵本のように立体的に浮かび上がるようだ、と授業者には思えた。


 豊太郎が虎になる物語としての「舞姫」。


 第三者の「無作為」の介入によって、主人公が「不作為」になるほかない事態がもたらす悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 近代的=西洋的な価値体系と別のもう一つの価値、二つの世界の対立をめぐる物語としての「舞姫」。


 主人公を近代日本という秩序に組み込む通過儀礼において起こる「異類殺し」の悲劇を描いた物語としての「舞姫」。


 これらは「女か出世かの選択をめぐる、人間のエゴイズムを描いた物語」として捉えた「舞姫」とは随分違った物語だ。

 これらの読み方が正しい「舞姫」だと言うつもりは無論ない。そのような物語としての「舞姫」という作品が、価値が高いとか面白いなどとさえ思ってはいない。

 ただそのように「読む」ことだけが楽しいのであり、なおかつ高校の国語科授業として意義あることだと思っているのだ。

 皆の目にも同様に、めくるめくような「舞姫」の世界が映っていたことを祈って、今年度の授業を終える。


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