ラベル 逆説 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 逆説 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年6月19日金曜日

ミロのヴィーナス3 -「生臭い秘密の場所」「逆説を弄する」

 対比というメソッドを用いて二段落を考察するところまでが第2回の授業。
 ここからは「部分」の考察だ。もちろん「部分」の解釈にも、全体の論理構造の把握が益する。必要に応じて前回までの考察を参照したい。

 最初に取り上げるのは「生臭い秘密の場所」である。
 とりあえずノーヒントで考え、話し合ってみる。
 だが、しばらく考えたら辞書を引く。これは「生臭い」「世俗的な」「俗っぽい」「(金銭的)利害がからむ」などのニュアンスを慣用的にもっている形容であるという「知識」を外部から補う必要があるからだ。
 そしてさらに、そこに対比の考え方を用いる。
「世俗的」の対比は?
 これは2回目の考察が応用される。「芸術」もしくは「神秘的」である。この部分の少し前に「美術作品の運命」などという表現もある(「世俗的」の対義語である「神聖な」とまで言ってしまうとここでは方向がやや異なる)。
腕のある場所がなぜ「世俗的」なのか?
 これは様々な説明が可能だ。なるべく多くの班から、それぞれの話し合いの成果を聞きたい。

 さていくつかの説明をこちらでも用意してある。
 腕のないとろこに美を見出しているのが「芸術」的立場だとするのだから、あった方が良いのだ、という発想がそもそも「俗っぽい」のだ(これはこの後の「逆説/通説=通俗的」の対比にもつながる)。
 また、「秘密の場所」という表現に引きつけて言うのなら、ヴィーナスの腕はどこにあるんだろう、みつかったら大発見だ、などという興味本位な関心の持ち方が「俗っぽい」とも言える。
 また、腕がないことが「神秘的」な雰囲気をもたらしているのだから、あったら、ありふれた「世俗的」なヴィーナス像になってしまう。
 また、直前の部分でヴィーナスを発見した農民がフランス人に売り、その後ルーブル美術館に運ばれたという紹介があることに関連させるなら、腕の発見はあらたな売買美術館収蔵につながる、金銭名誉といった「世俗的」な価値を帯びる可能性がある、とも言える。

 複数クラスでこの部分を「ルーブル美術館/ギリシャの海か陸のどこか」という対比で捉える意見が提示された。これは授業者にとっては想定外だった。
 この対比に「芸術的/世俗的」という対比をそのまま対応させることは確かにできる。
 なるほど、そういう説明ができるか、と驚いた。
 一方で、「ルーブル美術館」は売買権威といった「世俗的」な価値につながりそうな感じもして、必ずしも「ギリシャの海か陸のどこか=生臭い秘密の場所」の対比的な位置にあるわけではないとも言える。
 結論として否定も肯定もできないが、こういう発想が提出されるのが授業の面白いところだ。

 これはまあ小手調べである。

 次に取り上げる一節。
ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。
 太字部分を説明せよ、と訊くのだが、皆の説明は焦点がぼやけている。多くは、この部分の前の内容(この後で扱う予定の「特殊から普遍へ」の解釈)を曖昧に語っているような感じだ。
 ここでは前の部分「特殊から普遍へ」の解釈はしなくていい。

 この部分の考察が有意義なのは、これが復習でもあるからだ。それが充分に定着していないことがもどかしくもある。

 この部分を説明しようと思ったら二つの対比について考える必要がある。何か?

 まず「逆説」を考えよう(説明しよう)と思ったら何を考えるべきか?
 「通説」である。「ホンモノのおカネの作り方」でこの考え方をさんざん使ったはずだ。
 「通説/逆説」の対比は、この前後の文章を軽く眺めただけではわかりにくい。かえってわからなくなる、とも言える。明確に、直截的に指し示せる部分がないからである。
 だが一方で、全体の趣旨を既に捉えているので、考えればすぐにわかる、とも言える。
通説 有る方が良い
逆説 無い方が良い
 何事によらず一般的には「有る」方が良い。だが筆者は、ミロのヴィーナスの腕が失われていることを、むしろ肯定的に捉えている。そのことを「逆説」と言っているのだ。
 さらに文章全体の趣旨を汲み取るならば、「有る」ことは確かに「有る」ことだ、という当たり前の論理(通説)に対して、「無い」方がむしろ多く「有る」ということだ、という奇妙な論理(逆説)を指しているとも言える。

 この部分にはもう一つ、明白な対比がある。
 この考え方は2回目の授業で触れている。「量の変化ではなくて、質の変化である」が対比であることは、文型からわかる。「AではなくB」の文型になっている場合は基本的に「A/B」の対比によってBを明確にしようとしているのである。
 問題のこの部分は「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。」という、対比の文型になっている。
 「~ではない」で否定される要素は何か?
 もちろん文章どおりに言えば「逆説を弄しようとしている」である。だが筆者が言おうとしているのは「無い方が良い」というまさに「逆説」である。「逆説」の内容を否定しているわけではないのだ。
 とすると対比要素は何なのか?

 対比要素だけを抽出するなら、「弄する/実感」である。
 これが対比であることはピンとくるだろうか?
 まずは「弄」の字の訓読みを確認しよう。そう「もてあそぶ」だ。
 その上で、「弄する/実感」の対比要素を、対立していることがはっきりするように表現する。
 「ふざけている/本気」「不真面目/真面目」「口先だけ/心から」…。
 つまり「逆説を弄する」とは、一般的な説とは反対の言説を、口先だけで気取って言うことである。「奇を衒う」などという言い方に近いニュアンスだ(「衒う」を「てらう」と読めた人に拍手)。

 以上の整理をもとに、文脈に戻してみる。
「無い方が良い」「無いことでかえって無限の可能性が広がる」などというちょっと変わったこと(「逆説」)を、言葉遊びのように口先だけで言っている(「弄する」)わけではなく、本当に心からそうだと思っている(「実感」)のだ…。
 「対比」というメソッドはここでもまた強力な汎用性を示すのだった。

2020年5月28日木曜日

少年という名のメカ 6 -この小説をどう読むか

 3回のプレ講座が終了しました。
 3回とも、とても楽しく、充実した時間でした。そしてとても疲れました。
 疲れたのはいつもと勝手が違うことに緊張があったせいで、慣れれば普段の授業と変わらなくなるのでしょう。おそらく。
 そして、楽しさや充実感は、これまでの普段の授業でいつも感じてきたことです。
 この楽しさや充実感を感ずるには、「当事者になる」必要があります。授業者である私はもちろん、カメラやマイクをオンにして対話に加わってくれた人は、そうした「当事者」としての充実感を得たはずだと信じています。
 今後の教室での授業では、単純に受講者全体の人数が減り、全員の姿が互いに見えていて、少人数でのグループワークが行われ、と、みんながそれぞれ「当事者」になる条件が増えます。
 その時さらに充実するかどうかは、みんなのそれぞれの参加への姿勢次第です。

 さて、前半組の講座では第2回で「解決」してしまった問題について、まず確認しましょう。
 この小説は、「反『少年』」たる「メカ少年」の設定によって、逆に「少年」という存在を浮き彫りにしていると考えられます。
 またこの小説は、既存の様々なメディアで提供される、ファンタジーやSF的な「物語」の特徴を備えています。その、いかにも、といった手触りはあまりにあからさまです。
 そういった「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているのでしょうか?
 S君・Mさんはこれを 「物語」における「主人公」 と表現しました。
 それを受けてYさん・H君は、この小説は、「物語」における「主人公」というのは、実際にいたら、周囲の人にとってはとても迷惑な存在だという皮肉を言っている小説だ、と解釈しきってみせました。
 つまりこの小説は、「メカ少年」という設定によって逆説的に「少年」というものの存在を浮き彫りにすることを通して、「物語」における「主人公」というものについて逆説的に語っていると言えます。
 逆説的?
 紛らわしい。「メカ少年」を描くことが「少年」を描いていることになるのだ、という事態がまず「逆説的」です。そしてもう一つ、重要なことはここで描き出される「少年」が「逆説的」な存在なのです。
 どういう意味で?
 「逆説」を説明するにはまず「通説」です。「主人公」は肯定的に捉えられるべき存在だ、というのが「通説」です。自由だったり特別だったり勇敢だったりして、人々から愛されたり憧れられたり感謝されたりする存在としての「主人公」像に対して、ここで描かれる「少年」は、その身勝手さが人々に迷惑をかけ、傷つけます。「通説」に反する、そのような「主人公」像が、それもまた真実でありそうだと思わせるところが「逆説」的なのです(以上、「逆説」についての復習)。

 さて、最初にこの講座のテーマとして掲げたのは、この小説をどう読んだら良いのか? でした。
 この問いの問題意識がそもそもわかりにくいはずです。といってこれをどういう問題なのかと説明するのは得策ではありません。実際に読んでみて、それがどのような読み方なのか、と振り返る方がいいはずだ、と考えました。

 最初に考察したのは、序盤の会話の分析を通して、小説中の情報を読者がどのように受け取っているか、その思考や感情の流れを、スローモーションのように振り返ってシミュレートしてみることでした(第1回講座)。
 もちろん実際にみんながそのように考えたり感じたりしていたわけではありません。あくまでシミュレーションですから、言われてみればそんなふうに考えたり感じたりすることはありえる、と思えればいいのです。

 次に、我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、末尾の一文によって変更されることで構築される、新たな「世界観」の可能性について考察しました。
 少年という名のメカの目的を知り、特許制度や経済活動の存在する世界の広がりに思いを馳せ、メカの作り手や買い手を想像する…。
 しかし実はこのような考察は、おそらく上に掲げた授業の目的にはたどり着きません(思いがけない形でたどり着くかもしれませんが、少なくともこちらはそれを想定していません)。これはあえてみんなの思考をミスリード(誤誘導)したのです。
 このような読解は、なぜ「この小説をどのように読んだら良いか?」にたどり着かない(だろうと想定される)のでしょうか?

 比較対象に、一昨年の授業で生徒が語った解釈を紹介しました。
 コンピュータ・プログラムが稼働し続けていると、不要なデータやバグが蓄積されていくことがあります。あるいはウイルスと呼ばれるソフトがプログラムの一部を書き換えてその機能に不都合を与えたりします。それに対して修正プログラムとかワクチン・プログラムなどと呼ばれるプログラムを走らせることで、バグをリセットすることがあります。
 この小説で描かれているのは、そうしたコンピュータの内部で展開しているプログラムの振る舞いを擬人化・具象化して描いているのだ、というのです。「少年」によって傷ついた心が「バグ」で、メカ少年がワクチン・プログラムです。
 面白い思いつきです。

 また、第2回講座で前半組から出された解釈を前回紹介しました。
 人々の心のケアも、テクノロジーの進歩によって解決しようとし、かつそれを商品」化する、我々の社会が「象徴」されているのだ、という捉え方です。

 そして上に示した解釈です。

 さらに、もう一つの読み方の可能性についても示唆しました。
 「反少年」としてのメカ少年によって明らかにされる「少年」は、確かに「『物語』の主人公」的な姿に見えます。ファンタジーの主人公「あるある」です。
 それだけでしょうか?
「無邪気に振る舞い、わしらを散々幸せな気持ちにさせておきながら、ある日…目の前から消えちまう。…その後はとんと音沙汰なしだ。絵葉書一つ寄越したためしがない。」「唇の端にスープをつけたままにして、わたしの母性にアピール(する)」「服を泥だらけにしたり、ボタンを弾き飛ばしたり(する)」「肉体的にも、精神的にも成長(する)」…。
これらの描写も単に「ファンタジー物語の主人公」としての「少年」を描いたものなのでしょうか?
 S君・Tさんがすぐに気づいたように、これらの描写から浮かび上がる「少年」は「親の目から見た子供」です。ここに表現されるのは、自分に向ける親の愛情に満ちた眼差しにも、そして子供が手を離れてしまう親の淋しさにも無頓着な子供の姿です。
 また、少女は「少年」について次のように語ります。
彼じゃなくて、彼のサポートについたわたしの方が怪我をするの。わたしが少年を守るはめになるの。…わたしが怪我をするたび、ものすごく謝ってくるんだけど、それだけなの。根本的に変わらないし、もうなんか疲れちゃった。
ここで語られる「彼」は、Yさんが言うように、まるで「女性から見た男性」のように見えないでしょうか。恋人である男の身勝手さに振り回されながらも離れられない女。
 老夫婦の語る「少年」は幼い子供で、少女の語る「少年」はむしろ「青年」と言っていい年齢にも感じられます。
 ここにはどちらも、相手に対する愛情と、それ故に相手の自由奔放さに傷ついてしまう心情が描かれています。つまり「少年」に対する「大嫌い」は「大好き」の裏返し、「可愛さあまって憎さ百倍」なのです。
 これは、たとえ読者が親世代でなくとも、恋愛経験が乏しくとも、ありそうだと感じられるように意図的に描いていると言えないでしょうか。

 整理します。

1.我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、「特許出願中。」という末尾の一文によって変更されることで新たに構築される「世界観」の可能性について考察を深める。

2.「あるコンピュータ・プログラムが稼働し続けることによって蓄積されていくバグをリセットするワクチン・プログラムを、稼働中のプログラムの中に走らせている」という世界を擬人化・具象化して描いている、と解釈する。

3.全てがテクノロジーの進歩によって機械化されていく「現実」が象徴されている、と解釈する。

4.「物語」の主人公というのは、本当にいたら周囲の人々にとっては意外と迷惑なものだ、という逆説を皮肉として描いている、と解釈する。

5.老夫婦の語る「少年」は「親にとっての子供」を象徴し、少女の語る「少年」は「女性にとっての恋人の男性」を象徴していると考え、その愛憎半ばする心情を描いている、と解釈する。

 これら5つの読み方は、どのようにこの小説を読んでいることになるのでしょうか?

 ここからはそれぞれの講座で、この5つをどのように分類したり分析したりすることが可能か話し合ってもらいました。この話し合いはどちらもとても有益でした。
 ここはやはりグループワークで、全員が自分の分析について語るべき問題です。
 ここには特に固定的な「正解」があるわけではありません。もちろんその分析の妥当性は検討されるべきです。しかしさまざまな観点からさまざまな分析が可能です。
 もちろん1~5の中から正解を選ぶ必要もありません。どれも認めた上で、それらの違い、関係を考えるのです。

 例えば「作者の意図」について考えるかどうかで分類できるのでは? というアイデアがどちらの講座でも出ました。
 確かに「作者」を視野に入れることで、作品から距離をおいて、その小説世界を俯瞰することが可能になります。物語の世界に入り込んでしまえば、その外側にいる作者の姿は見えなくなってしまいます。
 そのような傾向が最も顕著なのは1でしょう。
 1の方向に考察を進めるのはミスリードだと上で述べたのは、1は、あくまで物語の「世界」の内にとどまって、そこを探索するような考察だからです。そのような探索は、第2回講座でやったように、それなりに楽しくなることもあります。また、小中学校の国語の時間にありがちな「この時の登場人物の気持ちを考えてみましょう」的な授業は、基本的にこの層に視点を限定しています。
 とはいえ、1~5のどれもが、それぞれに作者の意図を同時に捉えることも可能ではあります。1のような読み方でも、そのように世界を構築し、そのように物語を展開し、そのように人物を描く作者の意図を考えることはありえます。小中学校の国語の時間でも「気持ち」発問とともに、「作者は何を言いたかったでしょうか」などとよく訊かれたはずです。

 とりあえず1に比べて2~5が、作品の物語の層から離れて、小説を俯瞰しようとする視点に立っている、というのは確かです。
 その上で2~5をさらに分類するなら、紹介した2,3と、講座中で意図的に展開した4,5のような読み方の違いはあると言えます。
 2,3の解釈は、作品世界全体の構造を、別の何かと重ね合わせることができるのでは、という仮説です。どちらも授業者自身の解釈ではないので検討が不十分ですが、本当にそうだと言うためには、作品の細部や構造自体から、ある特徴を抽出し、それが、重ね合わせようとする対象の特徴と意図的な一致を図っているかどうかを検討する必要があります。
 それを丁寧に行うまでは、これはあくまで思いつきです。面白い、そうかもしれない、とは思うものの、腑に落ちる、という感覚には至りません。まだ。
 一方、4,5の解釈は、小説の細部の特徴から、意図的に方向付けられた小説の「感触」を確認し、それをある作者の意図として想定できないか、と考えています。
 読者が感じるはずの手触りを表現し、確かにそういう感じがする、という読者間の合意のもとに、それが合理性を持つような作者の意図を想定してみよう、と考えているのです。

 小説と何を重ねるか、という点から、別の分類をしてみましょう。
 3と5は、小説内世界と、我々の住む「現実」が重ねられています。
 2と4は、小説内世界と、それぞれ別のバーチャルな世界が重ねられています。
 2のコンピュータ・プログラムの振る舞いは、もちろん現実の物理現象ではありますが、それは我々にとってのリアルではなく、やはりバーチャルな世界でもあります。
 4は、様々なメディアで我々に伝えられる「物語」と小説が重ねられています。しかも、その二つを同じ層で並べているのではなく、「物語」の上の層から俯瞰する視点に小説は立っています。
 その意味で、4の解釈に立つのなら、この小説はメタ「物語」だと言えます。「物語」のパロディなのです。
 そのとき、そうした諸々の「物語」を作っている作者達や、そうした「物語」を享受している我々自身が相対化されます。

 まだまだ分析は可能でしょう。別の分類もありえます。
 とりあえず今回の3回の講座で考察できたのはここまでです。

 後から思いついたことを少々付け加えます。
 H君の言った、この小説の中心はやはり「少年」ではなく、メカ少年が人々を癒やすことの方にあるのではないかと思う、という言葉が引っかかっていたのですが、そこから思いついたことがあります。
 この小説は、過剰なサービスは、そのうちに人を疲れさせるようになり、その時、むしろ何もサービスしないことが癒やしになる、という逆説を表しているのではないか、という思いつきはどうでしょう。「レンタルなんもしない人」が話題になっていることなどをふと連想しました。
 さらに言えば、サービスに疲れた人に対して、さらに何もしないことをもサービスとして提供するという堂々巡りを皮肉っているとか、そうした商魂たくましい様子を戯画化している、などとも言えます。
 そしてこのような社会批判としてみるならば、この論理はこの先授業で読む予定の「南の貧困/北の貧困」とも重なってくる可能性さえあります(まあ今の時点では何のことかわからないでしょうけれど)。
 この解釈は上の3の解釈と同系統の、小説世界を我々の現実と重ねる解釈の一つです。
 この解釈を通番で解釈6とすると、みんなが自由に発言する機会が充分に確保されていたら、いったいいくつの解釈がみんなの目の前に並べられていただろうと考えると、愉しくもなり惜しくもなります。

 「少年という名のメカ」という作品を題材に、その作品世界に分け入りつつ、小説を読むという行為、「小説の読み方」自体をも考察対象にしてきました。
 ブログ開設初期に、教材の読解は、学力向上のためのトレーニングではあるが、それだけではない、ある種の掛け替えのない「体験」なのだ、と書きました。
 特定の文章の解釈を結果として「知る」ことなど、学力向上のためのトレーニングにさえなりません。
 読解は主体的な「行為」です。それだけが実技科目としての国語の学力向上に益するのです。
 だがさらにそれが、一人ではなかなか遭遇することのできないひとつの「体験」として参加者それぞれに感じられることを期待して3回の講座を進めてきました。
 授業者自身には、間違いなく毎回がそれぞれの1回性の出来事の「体験」でした(既に一昨年から長い時間を考察に費やしてきたにもかかわらず!!)。
 そしてこれはどうしたって一人ではできないことなのです。

2020年5月10日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 12 -「逆説」

 「問題の整理」に基づく第1回のグループ討論を受けて、「授業11」ではさらに問題の「問題」点を整理し直しました。これに基づいて、このGW中に、あるクラスで第2回のグループ討論を行いました。
 この話し合いでは、多くのグループに授業者自身も参加して結論まで示してしまいましたので、このブログでもやっと今回、現状での授業者の考察を提示します。

 まず「逆説」について。
 本文からそのまま引用するなら、「逆説」とは「ホンモノの『代わり』がそれに『代わって』それ自身ホンモノになってしまうということ」です。ですがそれでは何のことかわからないはずだ、というところから話が始まったのでした。
 そこで考察及び説明のために「対比」の考え方を用いよ、と指示しました。「通説/逆説」という対比を考えるのです。
 この対比が「砂土原藩のニセガネ/預かり手形」に対応していることから、いくつかの班では次のような対比が挙げられました。

ホンモノのおカネを作るには
通説 ホンモノのおカネに似せればよい
逆説 ホンモノのおカネに代わればよい

 これは前回の「対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせる。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすること。」という指示に従ったものです。確かに指示通りではあります。
 ですがやはり「代わる」がなぜ「似せる」の「逆」なのかはよくわかりません。
 例えば次のように言えば「逆」であることがはっきりします。

ホンモノのおカネを作るには
通説 ホンモノのおカネに似せればよい
逆説 ホンモノのおカネに似せない方がよい

 では「代わり」「代わる」はなくてもいいのか。
 いや、やはりあった方がいいでしょう。その要素を入れて、なおかつ「逆」であることがはっきりするように並べてみましょう。

通説 ホンモノに似ているほど「代わり」になりうる
逆説 ホンモノに似ていないものこそ「代わり」になる

 上の「通説」が砂土原藩のニセガネ作りを支えた認識です。そして「逆説」は確かに、そう考えるのが普通であるような「通説」の「逆」になっています。
 これを「逆説」と呼ぶのは「真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説(辞書の説明)」というニュアンスをこめているということです。似ていないものこそがホンモノになるんだって? そんなバカな!? という反応を予想した上で、実はそれこそが真理なのだとしたり顔で言ってみせるのがこの「逆説」という言葉のニュアンスです。
 ある交易手段が「ホンモノのおカネ」になるには、現状の「おカネ」に「似ていない」ことが要件である、という認識は新鮮です。そして、「似ていない」からこそあくまで「代わり」にすぎないのに、その「代わり」こそが「ホンモノ」に「代わって」次の「ホンモノ」になる、という意外性が、この「逆説」という言葉には表現されています。

 このような言い方は、それぞれの班から、微妙に違う言い方で、何種類も提出されました。唯一の「正解」があるわけではありません。
 ただし良い表現の条件は、「逆」であることがわかりやすいように文構造が似ていること、「通説」は普通の人が考える普通の考え方で、「逆説」は一見すると、おかしな考え方に見えること、です。
 最後に、本文の表現をほぼそのまま使ってみましょう。

逆説 ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになる

 これに対する「通説」は?
 例えば次のように言えば良いのです。

通説 「代わり」はあくまで「代わり」であり、決してホンモノにはならない

 こうして提示されたものを見てしまえば、あたりまえだ、と思うかもしれませんが、実際に授業をしてみると、こうした表現がサラッと形にできる人が多いわけではありません。
 自分でこうした表現を考えることは、表現されたものを見て「わかる」ことよりはるかに難しいのです。
 「わかる」ことが学習の目的ではない、というのはこういうことです。

2020年4月30日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 11 -グループワーク実施

 学校全体でTeamsが動き出すまで、もうしばらくかかりそうです。
 そこで、あるクラスで試験的に、Teamsとは別のオンライン通話で、前回の「問題の整理」にしたがって、話し合いをしてもらいました。
 基本4人ずつの10班によるグループワークです。話し合いの後、その成果(必ずしも「結論」というほどまとまらなくても)をレポートとしてそれぞれ班ごとに送ってもらいました。

 レポートには、部分的に面白い見解や「うまい」表現もあったのですが、全体としては問題に対する考察が十分に深まっているとは言えませんでした。これはやむをえないことです。今回の話し合いはあえて時間を短くするよう制限しましたし、授業のようなこちらからの微妙な誘導ができないからです。

 それでも、こうした話し合いは授業にとってやはり重要な意味をもつと、あらためて思いました。
 そうした契機がなければ、こんなブログの長い文章など、読むことすら面倒でしょう。そしてその問題について考えることも。
 そして「考える」ことこそが、国語の学習のほとんどなのです。
 この後の記事を読む上でも、この問題について考えた今回の経験がなければ、どれほどの関心を持って読めるか、あまりにも心許ない。このクラス以外の人たちにとって。 
 それでも、そうした機会を待って現状で止まっているより、問題を先に進めます。

 考察すべき問題を確認します。まず一点目。

①文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」とは何のことか説明する。

 この問いにストレートに答えてはいけません。前々回この問いは「雑な問い方」だと言ったはずです。「単なる『何のことか』よりも適切な問い」をまず考えなさい、というのが前回までのアドバイスです。
 また、どちらも、文中から該当箇所を挙げることはできるが、それだけでは「わからない」ので、「わかる」ための説明を考えなさい、というのが指示です。
 もちろんこれらの指示に応えるのは難しい。問いそのものを工夫しているレポートはありませんでしたし、「説明」も、結局本文といくらも変わらない表現にとどまっているレポートが多い。
 繰り返し言いますが、それらの「答え」は正解です。本文からの抜き出しが適切なら。
 にもかかわらず、それでは「わからない」と感じているのではないでしょうか?
 やはり「わかる」ために明らかにしなければならないポイントを捉える必要があるのです。

 予告どおり、今回はそこまで話を進めます。
 説明が「わかりやすい」と感じられるようになるためには、「そのこと」を説明するだけでなく、「そのことでないこと」と併せて説明するのが効果的です。「対比」の考え方です。「対比」の考え方は、自分が「わかる」ためにも有効ですが、相手に「わかってもらう」ためにも有効です。
 つまり「逆説」を説明するためには「通説」が何なのかを明らかにするのです。
 「問い」として言い直すなら「この『逆説』とはどのような『通説』に対して『逆』なのか?」です。
 対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせるのが肝心です。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすることが、「そのこと」を認識しやすくします。
 さて「逆説」はもう明らかですね。ではこの場合「通説」とはどのようなものでしょう?

 「形而上学」も同じように考えます。「形而下」とは何のことか、と考えるのです。
 ただしこちらはこれだけではまだ「わかる」べきことが明らかにはなりません。
 授業ならば「『形而上学』という言葉を、筆者はどのようなニュアンスで使っているか?」と問います。
 「ニュアンス」?
 微妙な言葉です。ですが筆者がそれをどのような「ニュアンス」で使っているか、こそが「形而上学」の「わからなさ」です。
 そもそも肯定的? 否定的? どうして「形而上学」という言葉がそのような意味で使われるのでしょう? 筆者はこの言葉にどのような「ニュアンス」をこめているのでしょう?

 そしてもう一つ重要な問題は、題名にはじまって本文中一貫して「ホンモノ」という言葉がカタカナで表記されていることの意味です。ここにはどんなニュアンスがこめられているのでしょう?
 実は「形而上学」はそれだけを説明しても不十分で、「ホンモノの形而上学」と言わないとそのニュアンスが説明できないのです。
 筆者はなぜ、「本物」という言葉をカタカナで「ホンモノ」と表記するのでしょうか? それを含めて「ホンモノの形而上学」を「形而下」と比較しながら説明してください。

 ところで、レポートの中で「形而上学」を「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」と説明している班が複数ありました。察するに、おそらく昨年度の授業で確認された「公式」解答ということでしょうか。
 これは確かに間違ってはいません。ですが、単なる本文そのままの「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという認識」より何かが「わかりやすく」なっているでしょうか? どうしてこれが「形而上学」という言葉で表現されているかは、依然として「わからない」のではないでしょうか?
 「ホンモノの形而上学」が本文の何を指しているか、が問題なのではなく、やはりこの表現のニュアンスが読み取れることが、ここでは読者に問われているのです。

 ②全体を捉える「問い」と「答え」の組み合わせを考える。

 まず「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」では駄目だと最初に言いました。
 「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」は、それよりは良いのですが、上述の通りまだ不十分です。
 この二つは、その「答え」が本文中からほとんどそのまま抜き出せて、それでも「わかる」という感覚がおとずれるとは言い難いからです。
 ポイントは二つだと私は考えています。
 まず一つは上記にも挙げた「ホンモノ」のニュアンスです。「ホンモノ」とは何か?
 もう一つは?
 これは、もう一度考えてみてください。「問い」の形はシンプルです。そしてこの「問い」こそ、全体を把握する「問い」です。
 そして、上記二つの「問い」に対する「答え」を考えてください。
 「答え」は、繰り返し言っている通り、本文そのままでは駄目です。解釈を通して、自分が納得できる「答え」を形にしてください。

 さて、上記クラスには、もう一度、こうした誘導にしたがって話し合いをしてもらおうと思います。
 他のクラスでもそうした取り組みが自主的に行われることを期待します。
 何よりそもそも、始めてしまえば楽しいに違いないのです。

2020年4月26日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 10 -問題の整理

 休校中の課題の提示から2週間が経ちました。
 各科目の課題の中には、GW明けの学校再開を想定した課題もあります。一方、学習の方向性だけを示した課題もあります。本ブログ「現代文」の課題もそうです。要約を週に2本、という課題なので、ここまでで4、5本の要約をしていれば、とりあえずは指示どおりです。さらに「学習の手引き」について考えてあれば、「現代文」という科目の学習としては十分です。
 おそらく予定のGW明けの学校再開は難しいでしょう。感染者増加のペースは落ちていないので、緊急事態宣言を解除する理由がありません(解除するなら、活動自粛には実は感染拡大を防止する効果がない、という意見が専門家会議でまとまるしかないでしょう。が、それはここまでの方針を誤りであったと認めることになるので、難しい)。
 引き続き休校が続くとして、その間、課題は同じように続けてください。

 一方、このブログでは授業が行われていたら、という想定で、授業で取り上げたかもしれない教材文を題材に、読解のためのメソッドを紹介しています。
 繰り返し書いているように、メソッドは、知っていると役に立つというようなものではなく、使うことで、身につけることでしか役には立ちません。
 そしてさらに、可能ならば、ここで問題を提示することで、みなさんが授業を受けたときのように「考える」ことができないか、とも期待してきました。
 まあしかしこれについては悲観的にならざるをえません。おそらくみなさんは、数学の問題を解くようには、現代文の問題について一人で考えるという経験をしたことがないだろうと思われるからです。何かを一人で考え、考えが深まっていくという経験を。
 「考える」ためには、やはりある程度の強制力があり(例えば学校に集められて、授業を受けさせられる、といったような)、そこには目の前に他者がいて、対話をする、というような契機が必要なのです。
 一人で考えるという「経験」を数知れずしてきた私でも、前回までのように、対話という契機があると、いきなり、一人ではできなかったような考察に導かれます。前回までの考察では、自分なりにはこの文章はこう読めば良いだろうと見当をつけていた読みとは違う読みに目を見開かされました。「認識の変容」というやつです。
 こういうことが起こるから授業は面白い。

 さて、「ホンモノのおカネの作り方」について「考える」ために、問題を整理します。

  1. 文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」を説明する。
  2. 文章全体の「問い」を「~か?」という形で表し、その「答え」をまとめる。

 1については、もちろん語義ではなく、文中での意味を説明するのです。そしてもちろん、「逆説」も「形而上学」も、文中ではどういっているかを指摘することはできます。

  • 逆説ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説
  • ホンモノの形而上学ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」

 文中から上記部分を指摘するだけでは「わかった」と感じられるようにはならないからこそ問題なのであって、上記記述の意味をこそ説明すべきなのです。
 ここでは「説明」するための方向性について、単なる「何のことか」よりも適切な問いがあるのですが、前回予告を先延ばしして、さらに次回。

 2「文章全体の『問い』」については前回「授業8」で言ったように、以下のように「問い」と「答え」が出揃うことは共通認識として、それでも「わからない」感覚をどう納得させたらいいのか、を考えてください。

  • 問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
  • 答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 つまり、上記とは違う「問い」と「答え」の組み合わせを考えてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 9 -対話3「対比を探す」

 前回に続いて対話の試み。
 さらにこの生徒は「対比を探す」にも、応えてくれています。

【具体例】
  ニセの二分判金⇔預かり手形
【形容・性質】
  ホンモノに似ている⇔ホンモノには似ても似つかない
【抽象語】
  ホンモノの形而上学⇔逆説

 既に自分でも考えてあったみなさん、どうでしょう? 一致していますか?
 この中で「抽象語」に挙げられた対比「ホンモノの形而上学/逆説」は、私には全く予想外でした。そして、初見では「要約」同様、この対比に強い違和感を感じました。そしてなおかつ、考えてみて、この生徒がこれを対比として挙げた理由が納得されてきました。

 本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。

 私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
 これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
 この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
 そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
 「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
 そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。

すなわち、ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説の作用こそ、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきたのである。だが、あのニセガネ作りたちを支配していたのは、この逆説とは逆の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。(52~53頁)

 ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
 「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。

 「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
 /逆説の作用によって両替屋の預り手形ホンモノのおカネになった。

 見事な対比です。
 こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?

 ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。

 「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
 「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
 「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆」と「逆」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
 「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。

 「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
 違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。

 それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
 と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
 いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
 やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
 以下次回。

2020年4月23日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 6 -部分的な表現を考える1

部分的な表現を考える1


 「ホンモノのおカネの作り方」を題材に、web上で授業(のようなもの)を展開する試みを続けています。
 ここまで「要約」「問いを立てる」「対比を探す」というお題を課していますが、それぞれ実行しているでしょうか。
 「要約」はともかく、後の二つは、ここで今、解答&解説のようなことをしても、残念ながらそれほど学習のためにはなりません。これらのメソッドは学習者(みなさん)が実行することによってのみ意味あるものとなるのであり、その動機付けと有効性の確認のためには対話が必要だからです。
 この対話のためのツールについては、現在、学校全体で検討中です。オンライン会議のためのツールは、現在複数のサービスがありますので、それらのどれかを使うことになると思われます。既にみなさんが日常的に使っているツールとしてはLINEのグループ通話なども活用できるでしょう。
 動向は追って連絡されるはずです。その全体方針を見てから、この講座での展開方法を考えていきます。

 さて、「問いを立てる」「対比を探す」のいずれも、思考の方向性を定め、思考を整理するために役立つ方法ではありますが、これだけで十分というわけではありません。
 全体的にはわかってきたが、細かいところでわからない感じがしている部分もある、ということもあります。そして「ホンモノのおカネの作り方」の場合、「要約」しても「問いを立て」ても、結局そのわからない部分がそのままの形で露出してしまうだけなので、論理の構造がわかったからといって、腑に落ちないという感じは解消できないのです。
 ただ、攻める方向は複数あった方がいいのは確かです。いくつかの方向から複数の方法を試しながら考えていくことで、それらの成果が互いに助け合って働きます。

 上記「わからない部分」は、この文章の場合明らかです。
 「逆説」「形而上学」です。これらの言葉が出てくる箇所で、理解がいちいち引っかかるはずですし、それが要約したときにもそのまま露出するので、その適切さの判断がしにくいはずです。
 ちなみに、最初の「問いを立てる」というメソッドにおいて、「『~という逆説』とは何か?」「『ホンモノの形而上学』とは何か?」という「問いを立て」た人もいるかもしれません。
 これらの問いは間違ってはいませんが、理解のための有効性としては十分ではありません。問いが部分的であることと、その答えは本文中から簡単に見つかり、なおかつそれでもわからないからです。
 ですが、これがこの文章を読解する上で考えるべき焦点の一つ(二つ)であることは間違いありません。
 引き続き、考えるべきことの指示として、この二つを取り上げます。
 ここでいう「逆説」と「形而上学」とは何のことか、説明してみてください。

 そもそも言葉として馴染みがないですよね? まずは語義を辞書や手元にある『読解を深める 現代文単語』(表紙が全体として青緑の)で調べてみましょう。その語義を本文に戻して、その文脈上では何を言っているかを考えてください。
 ただし、「逆説」と「形而上学」とは何のことか? というのは雑な問い方です。授業では意図的に、まずは雑な問い方をします。問題の方向性だけを示して、それを考えるためにはさらに何を考えたらいいのかをみなさん自身に考えてもらうためです。
 問われたことを答えることよりも、重要なことは、自分で問いを立てることです(学習上も、人生においても!)。「正しく問いを立てる」ことができたら問題の大半は解決への道の半ば以上が過ぎている、とさえ言われます。
 「逆説」と「形而上学」のわかりにくさは、単に語義がわからないということではありません。語義がわかった上で、それでもわかりにくいのはなぜか、何をわかりたいのかを考えてください。
 この、さらに方向を明確にした「問い」は次回提示します。その前にまずは自分で考えてみてください。