ここからは「部分」の考察だ。もちろん「部分」の解釈にも、全体の論理構造の把握が益する。必要に応じて前回までの考察を参照したい。
最初に取り上げるのは「生臭い秘密の場所」である。
とりあえずノーヒントで考え、話し合ってみる。
だが、しばらく考えたら辞書を引く。これは「生臭い」が「世俗的な」「俗っぽい」「(金銭的)利害がからむ」などのニュアンスを慣用的にもっている形容であるという「知識」を外部から補う必要があるからだ。
そしてさらに、そこに対比の考え方を用いる。
「世俗的」の対比は?これは2回目の考察が応用される。「芸術」もしくは「神秘的」である。この部分の少し前に「美術作品の運命」などという表現もある(「世俗的」の対義語である「神聖な」とまで言ってしまうとここでは方向がやや異なる)。
腕のある場所がなぜ「世俗的」なのか?これは様々な説明が可能だ。なるべく多くの班から、それぞれの話し合いの成果を聞きたい。
さていくつかの説明をこちらでも用意してある。
腕のないとろこに美を見出しているのが「芸術」的立場だとするのだから、あった方が良いのだ、という発想がそもそも「俗っぽい」のだ(これはこの後の「逆説/通説=通俗的」の対比にもつながる)。
また、「秘密の場所」という表現に引きつけて言うのなら、ヴィーナスの腕はどこにあるんだろう、みつかったら大発見だ、などという興味本位な関心の持ち方が「俗っぽい」とも言える。
また、腕がないことが「神秘的」な雰囲気をもたらしているのだから、あったら、ありふれた「世俗的」なヴィーナス像になってしまう。
また、直前の部分でヴィーナスを発見した農民がフランス人に売り、その後ルーブル美術館に運ばれたという紹介があることに関連させるなら、腕の発見はあらたな売買や美術館収蔵につながる、金銭や名誉といった「世俗的」な価値を帯びる可能性がある、とも言える。
複数クラスでこの部分を「ルーブル美術館/ギリシャの海か陸のどこか」という対比で捉える意見が提示された。これは授業者にとっては想定外だった。
この対比に「芸術的/世俗的」という対比をそのまま対応させることは確かにできる。
なるほど、そういう説明ができるか、と驚いた。
一方で、「ルーブル美術館」は売買や権威といった「世俗的」な価値につながりそうな感じもして、必ずしも「ギリシャの海か陸のどこか=生臭い秘密の場所」の対比的な位置にあるわけではないとも言える。
結論として否定も肯定もできないが、こういう発想が提出されるのが授業の面白いところだ。
これはまあ小手調べである。
次に取り上げる一節。
ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。太字部分を説明せよ、と訊くのだが、皆の説明は焦点がぼやけている。多くは、この部分の前の内容(この後で扱う予定の「特殊から普遍へ」の解釈)を曖昧に語っているような感じだ。
ここでは前の部分「特殊から普遍へ」の解釈はしなくていい。
この部分の考察が有意義なのは、これが復習でもあるからだ。それが充分に定着していないことがもどかしくもある。
この部分を説明しようと思ったら二つの対比について考える必要がある。何か?
まず「逆説」を考えよう(説明しよう)と思ったら何を考えるべきか?
「通説」である。「ホンモノのおカネの作り方」でこの考え方をさんざん使ったはずだ。
「通説/逆説」の対比は、この前後の文章を軽く眺めただけではわかりにくい。かえってわからなくなる、とも言える。明確に、直截的に指し示せる部分がないからである。
だが一方で、全体の趣旨を既に捉えているので、考えればすぐにわかる、とも言える。
通説 有る方が良い何事によらず一般的には「有る」方が良い。だが筆者は、ミロのヴィーナスの腕が失われていることを、むしろ肯定的に捉えている。そのことを「逆説」と言っているのだ。
逆説 無い方が良い
さらに文章全体の趣旨を汲み取るならば、「有る」ことは確かに「有る」ことだ、という当たり前の論理(通説)に対して、「無い」方がむしろ多く「有る」ということだ、という奇妙な論理(逆説)を指しているとも言える。
この部分にはもう一つ、明白な対比がある。
この考え方は2回目の授業で触れている。「量の変化ではなくて、質の変化である」が対比であることは、文型からわかる。「AではなくB」の文型になっている場合は基本的に「A/B」の対比によってBを明確にしようとしているのである。
問題のこの部分は「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。」という、対比の文型になっている。
この部分にはもう一つ、明白な対比がある。
この考え方は2回目の授業で触れている。「量の変化ではなくて、質の変化である」が対比であることは、文型からわかる。「AではなくB」の文型になっている場合は基本的に「A/B」の対比によってBを明確にしようとしているのである。
問題のこの部分は「ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これはぼくの実感なのだ。」という、対比の文型になっている。
「~ではない」で否定される要素は何か?
もちろん文章どおりに言えば「逆説を弄しようとしている」である。だが筆者が言おうとしているのは「無い方が良い」というまさに「逆説」である。「逆説」の内容を否定しているわけではないのだ。
とすると対比要素は何なのか?
もちろん文章どおりに言えば「逆説を弄しようとしている」である。だが筆者が言おうとしているのは「無い方が良い」というまさに「逆説」である。「逆説」の内容を否定しているわけではないのだ。
とすると対比要素は何なのか?
対比要素だけを抽出するなら、「弄する/実感」である。
これが対比であることはピンとくるだろうか?
まずは「弄」の字の訓読みを確認しよう。そう「もてあそぶ」だ。
その上で、「弄する/実感」の対比要素を、対立していることがはっきりするように表現する。
「ふざけている/本気」「不真面目/真面目」「口先だけ/心から」…。
つまり「逆説を弄する」とは、一般的な説とは反対の言説を、口先だけで気取って言うことである。「奇を衒う」などという言い方に近いニュアンスだ(「衒う」を「てらう」と読めた人に拍手)。
以上の整理をもとに、文脈に戻してみる。
「無い方が良い」「無いことでかえって無限の可能性が広がる」などというちょっと変わったこと(「逆説」)を、言葉遊びのように口先だけで言っている(「弄する」)わけではなく、本当に心からそうだと思っている(「実感」)のだ…。「対比」というメソッドはここでもまた強力な汎用性を示すのだった。
ほーん
返信削除