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2021年5月27日木曜日

情報流

 最後に用意した「情報流」は充分な時間がとれなかった。「内閉化する『個性』」と「情報流」にそれぞれ1時限を使えたクラスが一つだけあったが、どちらの考察も1時限を使ってさえ、まだまだ深めることができそうだという手応えだった。

 これまでの読み比べ同様、切り口によって、さまざまな分析が可能だ。

 ただ、西垣通の「情報流」の比較は、ここまでの3編とは違った難しさがある。抽象度の違うところに土俵を設定する必要があるのだ。

 ここまでの鷲田、斎藤、平野、土井は、言わば「自分」論だ。主観的な自己意識の様相について、その背景からの分析を述べている。

 それに対し、「情報流」は言わば「人間」論であり、その図地一体となった「社会」論である。「人間」についてのある見方が提示されていて、上の諸氏の論は、それらの見方の内部で、それらの人々が「自分」をどう捉えているかという主観が問題にされている、と言える。

 どのような「人間」観が提示されているか?


 対比構造は明確だ。

孤立した個人/情報流の一部

 ここに時間軸を持ち込んで、三層の対比図を画く。

 プレモダン/ モダン  /ポストモダン

共同体の一部/孤立した個人/情報流の一部


 この、近代(モダン)的「個人」観が、鷲田の言う「自由な個人」であり、斎藤・平野・土井らの言う「本当の自分」の幻想につながってくる。

 それに対して西垣の描く「個人」は、「情報システム」の一部だ。そこでは「個人」は、周囲の世界の構造の中に置いて捉えられ、「個」と「群」が入れ子状のフラクタル図形的イメージで描かれている。身体も精神も社会も、それぞれ「情報流」のアナロジーで捉えられている。

 とすれば、「情報流」の考え方による「個人」は、平野の言う「分人」や、土井の言う「社会的個性指向」につながってくる。

 つまりみんな「近代」的人間観に対する反省や批判としてそれぞれの論を構築していると言っていいのである。


 一方「『である』ことと『する』こと」は、特に前半部の「非近代」批判においては、正しい「近代」を目指すべきだと言っている。それは自律した個人が集まって作る社会のイメージだ。丸山にとって「近代」はまだ明るく輝く未来だったのだ。

 それは「『市民』のイメージ」にも共通している。アメリカの陪審員制度をモデルに日野啓三が描きだす「市民」は、西垣の言う「神の理性を分有する」「個人」である。新興国アメリカをモデルにすれば、近代もまだまだ新鮮な理想と見える。

 そこに「自由や責任」が生ずる。そしてそれは同時に「つながっていたい」という寂しさをも生む。


 一見したところ無関係に見えるそれぞれの論が、「近代」を接点としてあらたな相貌を見せる。


内閉化する「個性」

 土井隆義の「内閉化する『個性』」を読む。

 土井氏は筑波大教授の社会学者で、2016年のセンター試験に「キャラ化する/される子どもたち」が出題された。どこかで聞いたような題名だ。

 2018年には、河合塾と筑波大学の「オーサービジット事業」で本校を訪れた。

 ここでも取り上げられている著書の一節が本文で、慶應大学の入試に出題された文章でもある。


 分析のために対比をとる。

 対比らしき記述が登場するのは30行を過ぎてからの次の記述。

現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく、生まれもったはずの素朴な自分のすがたを、そのまま自らの個性とみなす傾向にあります。彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として感受されているのです。

 ここにみられる2度の「ではなく」が対比を表わしているのは意識すべきだ。

  固有の実在/人間関係の関数

 文中の出現順を入れ替えたのには訳がある。

 対比に付けるラベルとしては、言葉が揃っていた方が整理しやすいので、探していけば次の用語が見つかる。

内閉的個性指向/社会的個性指向

ここに、文中からあれこれの言葉を抜き出して配置する。

     身体/言葉

  内発的衝動/社会関係

刹那的・断片化/持続性・統合性

 そしてこの文章では、今までの文章と共通する「キャラ」「本当の自分」という言葉が、左辺に配せられる。


 さて、この左と右の配置は、ここまで読んできた文章との対応を見易くするために敢えて文中の登場順を入れ替えてある。

  固有の実在/人間関係の関数

といった対比を「である/する」と対応させると、斎藤の次の対比が同じ向きで並ぶことになる。

      必然/偶然

     固有性/匿名性

  キャラクター/キャラ

   記述不可能/可能

 「固有」が左辺にくるという対応が認められるし、斎藤の「キャラ」は土井の言う「人間関係の関数」によって成立していることも一致する。

 右辺では「言葉」が人格の「持続性・統合性」を保障するのだが、これは斎藤の「キャラ」は「記述」することで自己同一性を維持する、という認識に対応する。

 その上で土井は右辺を肯定的に評価し、斎藤の描く右辺的若者像は悲劇的な色合いを帯びている。

 「偶然」や「匿名」も土井の論との対応がよくわからないが、無理矢理言えば、「社会関係の関数」で個性が決まるということは、そうした自己は入れ替え可能な「匿名性」を帯びたものと捉えることができるかもしれないし、そうした認識の背景には「全てが偶然教」の信仰があるということも、全くできないわけではないかもしれない(曖昧な言いよう!)。

 まあ、二人の対比軸が同一のものだという保証はないので、こうした齟齬はやむをえまい。


 平野の論ではどうか?

内閉的個性指向/社会的個性指向

 を連想させるのは「キャラ/分人」の対比だ。「キャラ」は「インタラクティブでない」し、「分人」は人間関係によって生ずる。

 その上で、生まれついた「固有の存在」を「本当の自分」と見なす左辺的認識を否定して、「分人」こそ自分の「個性」だという右辺的人間観を提示しているという点で、平野の論と土井の論は一致している。


 上記のような分析は別に「正解」というわけではない。

 「分人」も上のように言えば右辺だが、「断片化」した「寄せ木細工」のような自己イメージは、複数の「分人」の集合を「自分」と考えるイメージに近いように見える。「断片化」は左辺だ。

 そもそも「分人」は「キャラ」と対比されているわけではなく「個人」との対比だ(そしてこの「個人」が問題になるのが次の「情報流」との読み比べだ)。

 それぞれの論の対比軸が揃っているわけではないから、分析の切り口によって、それぞれの論はさまざまに分析できる。


2021年5月26日水曜日

「本当の自分」幻想 3 賛否を問う

 斎藤と平野が、他者とのコミュニケーション(相互作用)によって、「自分」というもののある側面が作られているという認識で一致していることは認めていい。だがそれ以外の相違点は結局何なのか?

 そしてそうした相違はなぜ生じたのか?

 さらに、みんな自身は、そのどちらに賛成したいのか?


 ここから先は正解のない考察になる。それぞれがどう自分の考えをまとめるかが問われる。

 だがそれも、元になるテキストの読解をねじ曲げて良いわけではない。その適否を判断するのはとても難しかった。

 前回取り上げた、

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない

 が、共通性よりもむしろ相違を表わしているという解釈、

平野 「本当の自分」はない

斎藤 「固有性」はある

 は、「ない/ある」という対立が相違を表わすように併置してあるのだが、そもそも「本当の自分」と「固有性」が等置できるのかに疑問の呈されたクラスもあった。


 また、前回の鷲田と平野の比較からわかるように、「誰がそれを語っているのか」を明らかにしないと、それらが対立するかどうかも明らかにはならない。

 例えば平野は自分の意見としてある考えを表明しているが、鷲田や斎藤は「~と若者は考えている」と言っている部分も多い。だから、平野と、鷲田や斎藤の描写する「若者」の意見が相違しているとしても、それに対して鷲田や斎藤がどう考えているのかはそれと切り分けて慎重に検討しなければならない。


 それでも平野と斎藤はやはり対立しているのだろうか?


 斎藤は「キャラ」を否定的に捉えているように見えるし、平野は「分人」を新しい人間観として肯定的に提案しているように見える。

 それはもともと次のような相違から導かれている。

斎藤環

 人にはおそらく〝幸福の才能〟というものがある。偶然の成功体験を、これは必然の運命だったと自分に信じ込ませる才能のことだ。そうした必然性への〝信仰〟が、自らを取り替えのきかない固有の存在であるとみなす確信の基盤にある。

平野啓一郎

私たちは、唯一無二の「本当の自分」という幻想に囚われてきたせいで、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。


 自らの「固有性」を信じることが〝幸福〟だという斎藤に対し、「本当の自分」を信じると「苦しみとプレッシャーを受け」ると平野は言う。

 だがこれも、斎藤は、信じられれば〝幸福〟だが、信じられないので「キャラ」を作ることになり、それは悲劇的だと言っているわけで、どこかにある「本当の自分」の幻想こそ不幸のもとだから、すっぱりと「分人」を信じましょうという平野の提案は、むしろ斎藤の現状認識に対する処方箋になっているとも言える。

 斎藤がそれを受け容れることはないのだろうか?


 実際、みんなの中でも平野の考え方に共感する者が多かった。わかりやすいしハッピーなイメージがある。

 ただし、「分人」は全て「本当の自分」だ、という捉え方には違和感がある、という意見も出た。さまざまな「分人」の中にはそれぞれの濃淡があり、その中にはやはり「偽りの」自分だと感じられるものもある、と。

 単純に「キャラ」=「分人」という前提も成立しているかどうか怪しいし、「キャラ」全否定、「分人」全肯定というわけにもいかない。

 「キャラ」という概念と「分人」という概念の関係についてもさまざまな見方が提示された。それぞれに有益な議論だった。


 それでもやはり1975年生まれの平野と1961年生まれの斎藤の世代差は、読者にも感じられる。鷲田・斎藤の認識を乗り越える視座を平野は提示しているのではないか、と。


 一点、耳目に入りやすい平野の論についての異論を提示しておく。

 平野の描写する「分人」と斎藤の描写する「キャラ」、それぞれ誰をモデルにしているか?


 平野の「分人」の発想は、自らの実感を元にしている。

 一方、斎藤の分析は「若者」をモデルにしている。これは精神科医として接してきた患者や、大学教授として接する悩める大学生がモデルということではないか?

 そう考えてみたとき、平野の提示する「分人」モデルは、あまりにうまくいきすぎているのではないか、という疑問が生じないだろうか?

 斎藤の言及する「不本意なキャラ」や、「キャラ」を喪失することの恐怖は、平野の論では言及されない。「キャラ」を「降りる」ことはできないと斎藤は言うが、平野は「降りればいいじゃん」と言うだろう。だが、それは誰にも可能なことなのだろうか?

 この点をめぐって「極めつけの難問」と言う斎藤の「精神科医としての困惑」は、少なくとも平野の論の記述からは解消しないように思える。


2021年5月21日金曜日

「本当の自分」幻想 2 共通と相違の再検討

 「分人」という珍奇な造語によって、相手との相互作用によって生じた自分の、ある側面を肯定的に捉える概念を提起する平野に対し、斎藤の、「キャラ」という言葉の若者による使い方から見えてくる病理を描写する斎藤は、もしも面と向かって対談することがあれば、この点をめぐって対立するのだろうか?


 ちなみに鷲田清一はどう言うだろう?

(若者が他者とのつながりを求めているのは)なんの条件もつけないで「このままの」自分を認めてくれる他者の存在に渇くということだ。上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服している自分を「偽の」自分として否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいる

 他者との関係の中で「条件」を「上手に克服している自分」とは、斎藤の「キャラ」であり、平野の「分人」のように見える。とすると、それを「『偽の』自分として否定する」のは、「キャラ」を否定的なニュアンスで語る斎藤の認識に近いと言っていいだろうか?


 いや、「否定する」のは若者であって、鷲田ではない。鷲田が、否定すべきだと言っているわけではない。

 とすれば、積極的に「分人」を認めるべきだという平野の主張と対立するわけではなく、むしろ平野は若者が「否定する」ように追い込まれているような前提そのものに対する異議を唱えているのだから、そうして苦しんでいる若者を見つめる鷲田と斎藤は同盟者なのかもしれない。


 とすれば、斎藤と平野の主張も、前回の「抽象化」のように相違しているわけではないのかもしれない。


 例えば、前回、共通認識として提出された次のフレーズについても検討する余地がある。

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない


 「本当の自分」と「固有性」が対応するとしても、平野の「実体がない」と斎藤の「根拠がない」とを、同じだと見なしていいかどうか。

 「根拠がない」は「つまり記述不可能だ」と言い換えられている。これは、記述できるような形で根拠を指し示すことができないというだけで、裏返して言えば、記述のできない「固有性」は、その存在が前提されているということだとも言える。

 とすればこれは共通認識と言うより、むしろ相違点を示しているのだ、という意見が出たクラスもあったのだった。

平野 「本当の自分」はない

斎藤 「固有性」はある


 同じだということも違うということも、表面的な言葉の比較だけですぐさま判断できるわけではない。

 その中で、それでも二人の主張には違いがあると言える部分はどこか?


「本当の自分」幻想 1 共通点と相違点

 ここに平野啓一郎「『本当の自分』幻想」をぶつける。

 1学年の「国語総合」の教科書に収録されていた文章だが、授業で詳細に読解したというわけでもないらしく、皆、見覚えはあるが内容はどうだったか、といった曖昧な反応だった。


 題名の通り、これは「自分」論だから、鷲田-斎藤ラインには載ってくるが、丸山真男にはやや縁遠い。とはいえ「である/する」は考える/語る枠組みとして使い回せばいいのだ。


 対応関係を探るというのが毎度のパターンだが、読んでみると、今回は相違点が意識されてこないだろうか?

 特に主張の方向性が見易い斎藤「『キャラ』化した若者たち」と比較したい気がする。

 とはいえ「相違」として意識されるのは、共通した土俵で比較するからだ。だからまずは共通点、共通認識を明らかにして、その上で相違点を探る。


 共通点/相違点、どちらも抽象化の能力が問われる。それぞれの文章の言葉のままでは、同じとも違うとも言えない。

 むしろ、同じ言葉が使われていても、それが文中の使われ方によって定義される意味合いが違えば、そのままで「相違」とも言えるし、だからといって主張が「相違」しているとは言えないのだ。

 例えば平野は

キャラという比喩は…インタラクティブでない印象を与える

というが、斎藤は

「キャラ」を維持させてくれるのが、コミュニケーションの力なのである

という。

 「インタラクティブ(相互的)」と「コミュニケーション」を同じ趣旨だとみなすと、まるで正反対のことを言っているように見えるが、これは見解が相違しているというより、「キャラ」という言葉の文中での使い方が違うのだと感じられる。

 平野の文中から、上の斎藤の言葉に近い意味合いの一節を抜き出すなら「分人は…相手との相互作用の中で生ずる」だろう。

 ここでは「コミュニケーション」と「インタラクティブ・相互作用」を同じものとみなしているのだから、斎藤の「キャラ」と平野の「分人」が対応していると考えられるわけだ。


 上の認識の前提として、次の記述を共通性として挙げた班があった。

平野 「本当の自分」には実体がない

斎藤 自らの「固有性」には根拠がない

 そこから次の認識に至るわけだ。

平野 「分人」は他者との相互作用で生ずる

斎藤 「キャラ」は相手とのコミュニケーションで維持される


 ここでの抽象化とは、文型を揃えて、そこで対応する成分を交換可能と見なせるかどうかを検討するということだ。

 これらの対応を認めるならば、まずは二人には共通した認識があるということになる。


 さてその上で相違点をどう抽象化するか?

平野 「分人」は流動的・可変的

斎藤 「キャラ」は同一性の維持こそが目的(固定化を指向する)


平野 「分人」こそ自分自身

斎藤 「キャラ」は偽の自分


 さらに平野は「分人」という概念を肯定的に提起しているが、斎藤は「キャラ」の負の面を描写している。


 まずはこうした共通点と相違点の把握が妥当なものかを疑うことも必要だ。抽象化の過程で、不適切な言い換えをしていないか?

 そのうえで、これを認めるとして、次はこの相違について、皆の賛否を問いたい。

 もちろん心情的な共感というだけでなく、それぞれの論の論理をたどり直して、その適否を問題にするのである。

 そこに何が見えてくるか?