2021年2月8日月曜日

「である」ことと「する」こと 12 「市民」=「する」論理

 日野啓三「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 この準備として課したのが、冬休みの宿題だ。

 そこでは最初の2章「権利の上に~」「近代社会における~」を挙げる者が多かった。話題の方向性が近いという感触は間違っていない。が、引用に適するのは166~167頁「徳川時代を~」「『である』社会と~」に多い。

 どのような一節を選べばいいか?


 例えば次の一節を比べてみる。

  • 政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる(13頁)
  • 民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる(164頁)
  • 政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」(165頁)


 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を「問う」」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別年齢人種といった「先天的」な要素を持ち込まない「あかの他人」同士だ。ここでは「公共の・パブリックな道徳」が必要となる。それが「討議の手続きやルール」や「会議の精神」を支える。

討議も堅苦しくなく率直に、だがあくまで証拠に基づいて論理的に進められる。ひとりひとりが納得するまで決して安易に和合しない。(略)時に苛立つ人はあっても過度に感情的になる人は、少なくとも画面にはなかった。繰り返し証拠物に当たり被告の録音テープを聴き直し、告発に対する〝合理的な疑念〟を探し合う。「いいかげんにしろ」というような言葉を、反対意見の人に向かってどなることはない。

 ここに見られる陪審員の姿はこうした「パブリックな道徳」に基づく「会議の精神」=「する」論理を体現している。


 「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」に共通する「近代」が登場しない。

 だが次のような一節がそれに対応している。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。(16頁)

 「具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟」=「する」論理が「市民社会」を支える。「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「普遍的に開かれた現実」は、「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類が初めて手にした「上位のレベルの現実」なのである。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。

 そうして「『市民』のイメージ」は「する」推しではあるが「非近代」の問題は扱っていない、ということも、まず直感的にわからなくてはならない。「する」論理が高らかに顕揚される本論では、そこに「である」論理が根をはる「倒錯」には言及されていない。したがって、「『である』ことと『する』こと」の前半、「する」推しとは重なるが「非近代」には重ならないのである。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


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