「『である』ことと『する』こと」を読み進めたら日野啓三「『市民』のイメージ」と読み比べることは予告しておいた。
さらにここに今村仁司「市民社会化する家族」を加えて、三つの文章の論旨の関係を考えてみよう。
三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰しなければならない。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。
その上で、関係づけるために、接点として使える共通項を見つける。
後から加えた二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。
だがそれは直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。
他には?
例えば「『である』ことと『する』こと」と「市民社会化する家族」には、最も重要な用語が共通している。何か? またそれは「『市民』のイメージ」には適用できないか?
こんなふうにして共通項を接点とするつながりを探っていくのは有効だが、全体を俯瞰するための方略についての見通しもあわせて考えていきたい。
「『である』ことと『する』こと」という講演における丸山の主張は確認した。それはそれで現代の問題にも適用して考えていけばいい。
だがこれを文章として読んだ我々が、政治に対して行動を起こすとまでいかなくても、またそうした行動の指針としてのみ丸山の主張が有効なのでもなく、ここから得た認識はもっと汎用性のある考え方として、これを活かすこともできる。
どういう考え方?
私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。
「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、というのだ。
これは例えば「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」で述べられている事柄を「である/する」図式を適用して考えることができるということだ。そして「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ことが可能になるということだ。
「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、と把握されなければならない。
これは「『市民』のイメージ」が「非近代的」で、「市民社会化する家族」が「過近代的」だということをそのまま意味しはしない。後者はそのとおりなのだが、前者は誤っている。どういうことか?
これも必要に応じて説明ができなければならないが、まずは、そうだ、と思えることが必要だ。
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