「南の貧困/北の貧困」の筆者・見田宗介は、日本を代表する社会学者。この文章が収められた『現代社会の理論』は、本校図書室の新書コーナーにある。
現代社会の貧困について、本質的なモデルを提示していて、考える上で汎用性のある、とても「使える」文章だ。例えば社会学とか国際関係学などで貧困や開発や国際貢献がテーマとなる小論文に、この考え方を援用できる。
だが正直、不必要に捻った言い回しが多く、読みにくい文章でもある。
となれば手がかかるのは「部分」だ。
そのためにはまず「全体」を把握しておく。
そのために使えるメソッドは?
「問いを立てる」である。
というわけでこれが冬休みの課題だった。
「『である』ことと『する』こと」に比べて、「南の貧困/北の貧困」では、これはそれほど難しくない。
ところが、提出された課題を見ると、このメソッドの注意事項を、実行の際には忘れている人が多かった。自覚はあるだろうか?
年度当初にブログでこのメソッドを紹介した際、「イエス/ノーで答えられる問いではなく、疑問詞を使った問いにする」という注意事項を掲げておいた。
それなのに「『二重の疎外』という貧困のコンセプトは正しいか(適切か)?」というような形にした人が、意外なほど多かった(初期の提出者の半分がそうだった)。
このように問いを立てると、ほとんどの場合、答えは「正しくない(不適切だ)」となってしまう。「正しいのか?」というのは、疑問と言うより反語なのだ。答えが決まっている。
確かにこれが筆者の主張とか文章の主旨を適切に表わしていると感じられる場合もある。「南の貧困/北の貧困」もそうだ。
だが今は文章把握のためのメソッドとしてこれをやっている。その場合、反語的な「~か?」は問いと答えのセットが持つ情報量が少ないのだ。
例えば「『二重の疎外』という貧困のコンセプトはなぜ不適切か?」などと、疑問詞を使った問いの形の方が、思考の整理のために有益だ。
それよりも、この文章ではシンプルに「貧困はなぜ起こるのか?」でいい。「貧困のコンセプトはどのようなものか?」でもいい。
この問いに対する簡単な答えは「貨幣からの疎外と貨幣への疎外という、二重の疎外に因る。」だ。
さて、そのように「全体」を把握して、最初に考察に値する「部分」は何か?
言うまでもなく「貨幣への疎外」である。
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