ここまで考えて、時間があれば最終頁の「保守的」に触れる。触れるだけ。
「保守」の対義語は?
「革新」「進歩」だ。
「保守的」「進歩的」、それぞれ何のこと?
「である」推しと「する」推しのことだ。
後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?
話の趣旨を理解していない人は前半と後半で主張が食い違うと「怪しむ」かもしれないし、あるいは単に昔がいいと言っている、反進歩的(=保守的)な主張のように感じる人がいるかもしれない。丸山真男は政治学者だから、「する」推しであるのは自然なこととして受け止められる。誰も怪しまない。それが後半で「である」推しになったので、よく趣旨がわからない人は「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。
さていよいよ、「部分」の解釈において最も難問であった次の一節を考えることができる。
現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか
ここを疑問として挙げた者も多い。
これは上段の「文化の立場からする政治への発言と行動」の言い換えになっている。
「文化の立場」=「精神的貴族主義」から「政治」に「発言」するにあたって「ラディカルな民主主義」と「内面的に結びつく」ことが必要なのだ。
ピンとこないと感ずるときは、とりあえずは対比を立てることで、それが表わすものを明確にする。
「ラディカル(根底的)」の対比は「表層的」、「内面的」は「外面的」だ。対比をとるとどちらも似たような概念の対比になっていることがわかる。つまり外側だけ、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめたいらしい。
「精神的」は「現実的」とか「実体的」とかいったような対比を想定すればいい。つまりホンモノの「貴族」ではなく、「貴族」のような精神に基づく「主義」だ、と。
そして、この部分の問題の核心は「貴族」の対比である。何との対比概念を「貴族」という言葉で表現しているのか?
「貴族」という比喩が表わす「である」精神とは何か?
「貴族」の対比は「庶民」? 「民衆」?
悪くない。だが「貴族」の対比項目は既に文中でマークされている。
- 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の規準が押しよせてきている(170頁)
- 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない(171頁)
ここに見られる「大衆的な効果と卑近な『実用』の規準」「大衆の嗜好や多数決」こそ「する」価値・論理である。
「である」=「貴族」的精神は、こうした「する」=「大衆」的精神に対比されていると考えるべきなのだ。逆に言えば、「大衆」という対立項目が既に言及されていることを忘れてしまうから「貴族」という比喩が唐突でわけのわからないものに思えるのである。
「大衆」との対比から「貴族」という比喩のニュアンスを説明してみよう。
1から反照されるのは、非「実用」的=役に立たないものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージである。「実用」などといった規準は「卑近」だ。「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚(卑近の対義語)」なもの―例えば学問や芸術―に価値を見出すのだ。
2から反照されるのは、単に人気投票で選ばれるような物を良しとするのとは違った価値観だ。では何を?
ここには例えば「古典」や「価値の蓄積」が対比される。「古典」の対義語として「流行」、「蓄積」の対義語として「消費」を想起しよう。
大衆は「多数決」の「流行」を「消費」する。そうした文化は寄る辺なく移ろいやすい。だが「貴族」はそうした一時の「流行」に左右されない価値を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。
文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。
貴族とは文化の庇護者である。「実用」性や「多数決」といった大衆の論理で文化を扱うと、古典として後世に残ることもなく消えてしまう。
貴族は庇護する対象ではなく主体だ。貴族を文化として庇護するのではなく、貴族のように文化を庇護すべきなのである。
「精神的貴族主義」とはそのような志向性を表わしている。
さて最後に、どんな運動が「文化の立場からする政治への発言と行動」として想起されれば良いのだろう?
例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」のひとつとして、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動などを挙げてもいい。
そこまで直接的な文化保護でなくとも、「効率・機能・実用」主義だけで政策が決定されてしまうと損なわれるおそれのある「弱者保護」や「環境保護」なども、「である」精神によって修正していく必要があると考えればいいかもしれない。
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