2021年2月8日月曜日

「である」ことと「する」こと 13 「である」価値=?

 「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。


 二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。各クラス、各班が見つけた対応箇所も実に多様な箇所が挙がった。

 ここではそれらを網羅して列挙はしない。それでもいくつか挙げてみよう。

 例えば冒頭の一文。

ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「封建制」が「である」、「近代」が「する」だと仮定すると、次のように言い換えられる。

ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「する」化が肯定的に評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつてはポジティブに評価されていたのだ。


 このように、「である/する」図式は、今村が言っていることを把握する手がかりになる。

 そのうえで「市民社会化する家族」が「過近代」の問題を扱っているというためにはどのように論理をたどれば良いか?

 まずこの文章でも「市民社会」が「する」論理であることを確認する必要がある。そしてそれによって「である」が尊重されるべき部面に「する」論理が蔓延しているのを問題視しているならば、それが「過近代」な状態だといえる。


 「近代」はどのように語られているか。

近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。

 「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理である。

 さらに、

近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。

 となれば、「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会ということになる。

 そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。つまり「アトム化」とは人々が「する」化しているということだ。そうした「あかの他人」同士がつくる「社会」とは「未知の者の集まり」にほかならない。

 そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。

私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。

 「保守的」は「である」推しな観点だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と同様である。

 今村仁司は「過近代」の問題を論じているのである。

 そのことが典型的に表出しているのは次の一節だ。

子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。

 成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。

 だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。

 「する」論理=「実用の基準」「効果・効率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などといったら幼子は救われないではないか。そうではなく、子供には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。お爺ちゃんに「効率」など求めてはいけない。老人に生に流れる、緩やかな「休止」の時間と、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。


 最後に、それぞれの文章の主張が一致していることを納得するために、両者を簡潔な形に要約して並べてみる。具体的には「『である』ことと『する』こと」の170~171頁と「市民社会化する家族」の主張を、同じ文型単文で要約し、それが相互に入れ替え可能であることを示す。

 どのように頭を使うか?

 文中からどのフレーズが使えるかと、あてもなく探すのは非効率だ。見つからないかもしれない。

 それよりもまずはそれぞれの話題の中心が何であるかを見定めることだ。主語を決めるのである。

 「『である』ことと『する』こと」は?

 これは既習事項。「学問・芸術」または「文化」だ。

 述語は?

 「『する』論理ではかるべきではない。」とか「『である』価値こそが重要だ。」など。

 これと同じ文型で「市民社会化する家族」を要約する。

 まずは主語。これが「家族」であると見定められれば良い。

 述語は「『である』ことと『する』こと」と共通でもいいし「社会化すべきではない。」でもいい。

  • 文化は「する」化すべきではない。
  • 家族は「社会化」すべきではない。

もしくは

  • 学問・芸術には「である」価値を認めるべきだ。
  • 家族には「である」価値を認めるべきだ。


 これで「『である』ことと『する』こと」の後半と「市民社会化する家族」が同じ主張をしていることが腑に落ちる。


 こんなふうに「である/する」図式は、考え方の型として威力を発揮する。
 授業で読む文章は、あるときはそれをただ読むだけで価値がある場合もある。一方でこのように「使う」ことで有用性を発揮する場合もある。そうした「である」価値と「する」価値は矛盾するわけではなく、文章を「読む」という行為の中に同居している。

0 件のコメント:

コメントを投稿