「貨幣への疎外」?
おそらくこの表現は、にわかにはピンとこないはずだ。
もちろんこれは「貨幣からの疎外」とセットで理解されなければならない。
そしてこれらの表現は、単に文中から言い換えを探すことで、ひとまずは考察が先に進む。
どこか?
貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。
「二重の疎外」→「貨幣からの疎外・貨幣への疎外」と遡って辿れば「金銭を持たないこと」が「貨幣からの疎外」で、「金銭を必要とする生活の形式の中で」が「貨幣への疎外」だとわかる(実際には後の部分との整合性で「わかる」のだが)。
とりあえずどういう意味かはわかる。それなのに「貨幣への疎外」という言葉に違和感を覚えるのはなぜか?
「疎外」という言葉はサ変動詞だ。つまり「疎外する」か「疎外される」を名詞化している。そしてその前に接続する格助詞は「~を疎外する」か「~から疎外される」だ。
だから「貨幣からの疎外」は「貨幣から疎外される」として解釈できる。
だが「~への疎外」だと「貨幣へ疎外する」なのか「貨幣へ疎外される」のかがまずわからない。しかも何が何を「疎外」しているかもわからない。
「疎外」という言葉は一般的には「仲間外れ」というような意味で使われる。「友達が話している話題に入っていけずに疎外感を感じた」などのように。
とすると「貨幣からの疎外」は、貨幣から仲間外れにされているという、貨幣を擬人化した表現として理解することもできる。
あるいは「関係が断たれる。縁遠くなる」くらいに捉えてもいい。貨幣との関係が断たれ、貨幣と縁遠くなるのだ。
いずれにせよ、つまりは金のない状態である。
一方「貨幣への疎外」は、直後で次のように言い換えられる。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(149頁)
どの部分を「への」と読んだらいいのか?
上の表現は、後に「GNPを必要とするシステムのうちに投げ込まれてしま(う)」とも言い換えられる(151頁)。
「への疎外」は「投げ込まれる」と受身に言い換えられている。とすれば「疎外される」の方か?
となれば主語は「人々は」だろう。
では「疎外する」の主語は? 人々は何によって「疎外された」のか?
「システムのうちに投げ込まれる」というのだから、システムの外にある「自然」や「共同体」からか?
「自然」や「共同体」が人々を仲間外れにしたのか?
なんだかピンとこない。
ここは「疎外」という言葉の独特な使い方に馴染む必要がある。
例えば例の『現代文単語』では「疎外」を「仲間外れにすること」としたうえで、「人間が本来あるべき姿を失った状態を意味する場合がある」と付け加えてある。広辞苑には「人間が自己の作りだしたもの(生産物・制度など)によって支配される状況」とある。
これはヘーゲルやマルクスの思想において使われる意味合いだ。つまり独特のニュアンスを帯びた哲学用語なのである。
「疎外」は「疎外する」という動詞で使うのだから、誰か疎外した主語があるように思われる。「投げ込まれる」にしても、誰かが「投げ込む」のだろうから、その主語は想定できるはずだ。
だがその主語は、自分のいる場所から人々を「仲間外れ」にして、システムの中に「投げ込んだ」わけではない。
そうではなく、人々がシステムの中に「投げ込まれ」て、そこで「疎外される」=「人間が本来あるべき姿を失う」のだ。だから「疎外する」の主語を想定するならば、「システムが」だ。
「への」はこの「投げ込まれる」という移行を示し、「疎外」は移行によって起こる事態を指している。上の引用の「貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」あたりが、こうした意味での「疎外」のニュアンスを表現している。
だから「貨幣への疎外」は「人々が貨幣を必要とするシステムへ投げ込まれてそこで疎外される」もしくは「人々が疎外されるようなシステムへ投げ込まれる」といった意味合いなのである。
「疎外」のこのような意味合いについては、「倫理」や「政経」、「現代社会」でも触れられるはずなので、意識しておくといい。もちろん「現代文」で評論を読むときにも、その「疎外」がこういった意味合いなのかどうかは注意しておく。
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