厄介な「部分」を、まずはゴリゴリと解釈していこう。
現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。
上の前半は北の国における「貨幣への疎外」だ。そのまま「貨幣への疎外を通して」と読み替えることができる。「依存する」「強いる」は「疎外」の「支配される」「本来のあり方を失った」感じを表わしている。
問題は後半「本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に」だ。ここがすんなりと腑に落ちると感ずる読者は多くないはずだ。
まず「様式」や「の上に」が鬱陶しいが、後回しにする。
「充足」という名詞も、上記の「疎外」同様に解釈の妨げになるので、「必要は幾重にも間接化されて充足する」と、動詞化して考える。
「間接化」は「直接」を対比的に想定する。「直接充足される」こととの対比で「間接的に充足される」という事態を想像しよう。
「必要」が「直接充足される」状態?
例えば狩猟採集生活。
狩猟採集によって食べ物を手にすることに比べ、間に何が挟まるというのか?
まずはいうまでもなく貨幣だ。お金を出さなければ「充足」されない。
だがまだ「幾重にも」がわからない。
想像してみよう。山の中の木から林檎をもいで食べる。これが「直接的な充足」だとする。それに対して、現代の消費社会で実際に我々がそれを口にするまでにどのような経路が想定されるか?
まず、我々は八百屋であれスーパーであれ、小売業者から林檎を買う。その前に配送業者が店舗に品物を運んでくる。農協からかもしれないし仲買業者からかもしれないし、巨大商社かもしれない。農家から我々の手元に林檎が届くまでに、既に様々な売り買いを経ているし、その間には配送業者も介在している。
さらに林檎を育てるためには、様々な農機具や農薬・肥料などが必要となる。
我々が林檎を食べるまでには、「幾重にも」生産流通システムが介在して「間接化され」ているのである。
工業製品はさらに複雑だ。原料→部品→製品→商品と、「幾重にも間接化されて」初めて我々の手に届く。
これで「物価が高い」理由は説明されただろうか?
間違ってはいない。だがそれが「常に新しく更新されてゆく」理由についてはまだ不十分である。
どう考えたらいいか?
ここで國分功一郎の出番だ。
冬休みの宿題では、「『贅沢』のすすめ」と「南の貧困/北の貧困」の何頁が関連するか? と問うたが、実はこれは152頁でも153頁でも良い。この辺り一帯を考えるのに参考になるのである。
対応を見るためには共通の語を手がかりにするのが常套手段だが、もう一つ、今回は対比の考え方を用いる。
「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比は何か?
「南の貧困/北の貧困」のこの部分の対比は何か?
0 件のコメント:
コメントを投稿