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2020年7月10日金曜日

山月記 7 李徴はなぜ虎になったのか?

 「山月記」読解の大詰めである。以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことである。

 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が再帰的に循環するとは、どのようなことか?

 「尊大」であることは「臆病」であることの原因である。プライドが高いから、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」を抱くのである。プライドが高ければ高いほど「危惧」は強まる。つまり「臆病」になる。
 「臆病」になると他人とのつきあいが悪くなる。
 人との交わりを断つことは「自尊心」にどのような影響を及ぼすか?
 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
 満たされない自尊心は燻ったまま蓄積する。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。他人に認められないから自尊心が満足されないのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられないのである。
 結果原因帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。
 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。

 また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
 「自尊心」が「臆病」からの脱出を妨げ、「臆病」が「自尊心」の満足を妨げている。決定不能の状態に止め置かれたまま、どちらへも進めない。心の平穏は永久におとずれない。

 悪循環にせよジレンマにせよ、どうすればこの地獄から逃れられたのか?
 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
 だがそれは、「李徴は狷介だったから=傲岸だったから虎になったのだ」ということの裏返しでしかない。それは間違ってはいないが、「虎になる」という現象の仕組みを一面的にしか言い当ててない。「悪循環による暴走」というシステムを説明していない。

 授業者が現在用意している表現は「やりきる」である。李徴は「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのである。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。
 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。

 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。

 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?

 両者を結びつける言葉は「我執」「自意識」である。
 「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。

 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。

2020年4月20日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 4 -問いを立てる3

メソッド1

問いを立てる3


 読解するためのメソッド「問いを立てる」、「ホンモノのおカネの作り方」について、考えてみましたか?
 と、その前に要約はしてあるでしょうか。
 「要約」「問いを立てる」、現代文探究で紹介する「読み比べる」、いずれも、読解するためのメソッドです。ブログでは、実際に授業で取り上げたかもしれない教科書の文章を教材として、その有効性を明らかにしていくつもりですが、何よりもこれらのメソッドは、みなさんが自分で実行し、自らの国語力向上を図るために紹介し、その実行を求めるものです。
 そしてメソッドとは「知っている」だけで有効なのではなく、繰り返し実行して身につけることによって有用な技術になるものです。
 実行してください。繰り返し。ルーチンとして。

 さて、既に「ホンモノのおカネの作り方」の要約をしたことを前提に話を進めましょう。
 「要約の実演」の中で、本文の順番に要約していく方法を提案しました。この方法で要約してみましょう。

A ホンモノのおカネを作るには、ホンモノのおカネに似せようとしなければいい。佐土原藩のニセの二分判金はホンモノに似せようとした、あくまで「ニセガネ」に過ぎないが、両替屋の天王寺屋や鴻池屋の発行する「手形」はホンモノには似ていないが、後にホンモノのおカネのように実際の支払い手段として流通するようになった。ホンモノの「代わり」がそれ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用が、ホンモノのおカネを作る。(198字)

 要約に使うキーセンテンスを選ぶ際には、具体例の挙がっている文よりも、抽象的な表現の文を選ぶ方が、短く結論を示すことができます。この文章の場合は佐土原藩のニセガネ作りと天王寺屋や鴻池屋の発行する「預かり手形」のエピソードが具体例にあたります。これらを取り上げずに要約文を作ることもできます。

B ニセガネ作りたちを支配していた、ホンモノのおカネがホンモノなのはホンモノの金銀からできているからだという「ホンモノの形而上学」ではなく、本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」が、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきた。本来のホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意なのである。(200字)

 ABどちらが正解ということもありません。
 砂土原藩のニセガネ作りのエピソードも、両替屋の預かり手形のエピソードも、本文中では多くの紙幅を費やして語られており、その例示自体にも情報としての重要性はあります。抽象度を高めた下の要約より、具体例を含んだ上の要約の方がわかりやすい(情報が読み手に伝わる)とも言えます。

 ですが、100字に要約するとなるとさすがに具体例と抽象的表現の両立が難しくなります。下の要約abはどちらが「わかりやすい」でしょうか。

a ホンモノに似せようとした佐土原藩のニセの二分判金はついにはホンモノにはなりえず、両替屋の手形はホンモノには似ていないからこそ、後にホンモノの「代わり」として流通するいわば「ホンモノのおカネ」になった。(100字)

b 本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」、つまりホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意である。(99字)

 具体例を含む要約aの方がわかりやすいけれど、だから何なんだ? と言いたくなる舌足らずさも感じます。一方の下の抽象的な要約bは、これだけでは何を言っているかわからない(原文を読んで理解している人にしかわからない)文だろうと思います。

 ともあれ要約は、要約しようという思考がトレーニングなので、その結果がどのような形になっても有益です。もちろん、上の要約を自分の要約と比べてみる、などという思考も。

 さて、こうして何種類かの要約をしてみると、そこには既に「問い(問題)」と「答え(結論)」が潜在していることに気づきます。
 どのような「問い」でしょうか?
 おそらくみなさんは次のような「問い」を立てただろうと思います(そうではない、という人はちょっと待っていてください。ひとまずは想定される多数派からとりあげます)。

どうしたらホンモノのおカネを作れるか(ホンモノのおカネの作り方の極意とはか)?

 この問いは題名の「ホンモノのおカネの作り方」に、既に潜在しています。「文系と理系の壁はあるか」でもそうですが、題名は主題の在処を示していますから、そこにその文章が提起する問題が潜在しているのは当然です。
 そしてこの「問い」の適切さは、「答え」との対応関係から判定されます。「答え」はなんでしょう?
 次のような「答え」を想定しているはずです。

ホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに似ていない、ホンモノの「代わり」を作ればいい。

 これらの問いと答えの組み合わせは、既に要約文中にも見て取れます。「要約する」ことも、「問いを立てる」ことも、読むための思考法=メソッドですから、それを通して形になる読み=理解に共通性があるのは当然です。このような要約をしたということは、この文章を、このような「問い」に対してこのように「答え」ている文章であると理解したということなのです。

 さて、このように要約され、このように問いを立てられたなら、この文章に対する理解は「正解」です。この文章はまさにそう言っています。
 にもかかわらず、みなさんの実感は「腑に落ちない…」といったところだろうと思います。
 例えば大学入試問題のような問いは、基本的には本文中の論理の対応を問うているはずなので、上のような論理の整理ができれば答えられます。ですが、そのように「答えがわかる」ことと、その文章が「わかる」と感じられることは、必ずしもイコールではないのです。

 この文章を「わかる」ためには、別の問いの立て方が必要です。
 そもそも、筆者岩井克人にとっても、この文章で説きたいことを「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」と表現するのは少々不適切なはずです。この問いの形は、わざと奇を衒(てら)ってこの文章を面白くしようというレトリック(修辞)に引っ張られて、文章が本当に問題にしていることを見えにくくしています。この文章がわかりにくいのはそのせいだとも言えます。

 この文章では何が問題になっているのでしょうか?
 再び、上記とは違った「問い」を立て、その「答え」を文中から探してください。