2021年12月21日火曜日

舞姫 30 比較読解「檸檬」4 解読

 さて、そもそもここまでの考察の発想には元ネタがある。前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」と、柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」だ(かなり短縮したものをプリントした。元の形に近いものをTeamsにアップしてある)

 授業者の「舞姫」および「檸檬」の読みの端緒は、これらの論に拠っている。

太田豊太郎がエリスと出会うクロステル街は、ウンテル・デン・リンデンとはまったく異質な空間として意味づけられている。ウンテル・デン・リンデンの大通りが、へだたりとひろがりをもったモニュメンタルな空間であるとすれば、こちらは内側へ内側へととぐろを巻いてまわりこむエロティックな空間である。

前田愛「ベルリン1888―『舞姫』」

非常に単純化していうと、『檸檬』で梶井が〝爆破〟しようとしているのは、「交換価値」によって、あるいは「概念」(意味されるもの)によって体系づけられている世界である。

柄谷行人「梶井基次郎と『資本論』」

 前田論は「舞姫」を空間的な対比構造によって読み解いている。実は先に「山月記」との比較の際にも用いたこうした対比構造は、前田論から借りた。

 そこに柄谷の「檸檬」論を結びつける。

 これらの論から、「舞姫」と「檸檬」についてどのような読みが可能か?


 たとえば最初に共有した「檸檬」の謎のうち、物語の冒頭から主人公を「始終おさえつけてい」る「不吉な塊」について考えてみる。

 これを「青春期にありがちな漠然とした鬱屈」だとか、「頽廃した生活がもたらした倦怠」などと説明してはならない(いずれも教員向けの評釈書からの引用)。あるいは芥川の「ぼんやりとした不安」などと同一視してはならない。

 これらは冒頭の「えたいの知れない」に惑わされて考えることを放棄し、その後で「酒を飲んだあと」の 宿酔 ふつかよい に相当し」ていると書いてあるのを無視している。

 では「酒を飲む」という比喩は何を意味するか?


 構造把握に基づいて考えれば、それが「生活がまだ蝕まれていなかった以前」、「蓄音機」で「美しい音楽」を聴いたり、「丸善」に出入りして「オードコロン・香水瓶」を見るのに小一時間も費やしていたことに該当するのだとわかる。

 やがて〈酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやってくる〉。ある量までは美味しいと思って飲んでいた酒が、そのうちに肝臓で分解しきれなくなって体が受けつけなくなる。そうした宿酔の状態が、丸善に対する現在の主人公が感じている「嫌悪」である。

 そんなときに一杯の清涼な水を欲するように、主人公は「裏通り」にあるあれこれ〈みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられ〉〈慰め〉られる。


 「不吉な塊」が「宿酔」であることが一般的に考慮されないのは、冒頭でそう表現されても、その時点ではこの作品の構造が見えてはいないし、「酒」に相当する丸善でさえ2頁程読み進んでからでないと登場しないのだから、故のないことではない。

 語り手の言う「えたいの知れない」を言葉通りに受けとって思考停止してしまうのだ。


 とすれば豊太郎にとって、〈模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて〉勇んで公務に取り組んだり、ベルリンの大都会の景物に目を奪われたりすることが「飲酒」に該当しており、やがて「宿酔」になった豊太郎は〈歴史文学に心を寄せ〉、クロステル巷で〈心の恍惚となりてしばしたたず〉んだりするのである。

 「山月記」との比較では、豊太郎もまた虎になったのだ、という認識が導き出されたときにあらたな「舞姫」の把握が実感されたのだが、「檸檬」との比較によって今度は、豊太郎もまた「宿酔」になっていた=「不吉な塊」を胸に抱えていたのだ、という認識に至ったことになる。


 だがこの「不吉な塊」は「嫌悪」をもたらすだけでなく「焦燥」とも表現される。かつて主人公を酔わせ、今や「我慢がならなくなった」世界は、ただそこから逃げ出せばいいというものでなく、そこから脱落した者に焦燥感を与えるべくすがりついてもくるのである。

 両者を一時酔わせ、やがて宿酔に追いやる〈酒〉とは何か?

 二つの領域の対立はどのようなものか?


     以前/その頃

    東大生/落魄れた

美しい詩・音楽/想像・錯覚

    表通り/裏通り

     丸善/果物屋

     画集/檸檬


   (以前)/3年経って

   エリート/免官

     法律/歴史・文学

  ウンテル…/クロステル巷

カイゼルホウフ/エリスの家

 相沢・天方伯/エリス


 つまり「檸檬」と「舞姫」は、左右の対立をめぐる物語だ。豊太郎は左の世界から右の世界に移行し、結局は左の世界に戻っていく。

 「檸檬」の主人公もまた左から右へ移行するのだが、その結末はどうなっていると考えればいいのだろう?


 対立がどのようなものであるかを把握するために、両辺を表わす対比的な形容をいくつか挙げてみよう。

 新しい/古い

 明るい/暗い

  広い/狭い

真っ直ぐ/いりくんだ

 これらの形容が冠せられるのは、どんな概念・理念・価値か?

 この問いは無論、難題だ。だがこういう「正解」のない問いに対して、互いにあれこれ答えを提示してみて、それに授業参加者全員で検討しあうことこそが授業の意義だ。

 多くのクラスで「理想/現実」が挙がった。だが、左右が逆転した「現実/理想」も挙がったのは面白かった。どちらにあてはめようとしてもそれぞれに肯ける面と、腑に落ちない面とがある。

 他にいくつか候補を挙げてみる。

    外面/内面

    社会/個人

    公的/私的

    秩序/混沌

    中心/周縁


 いくつかのクラスで発想されたのは「する/である」の対比だ(最初に思いついたのはG組のK君)。

 すなわち次のような対比が挙げられるのだ。

近代/非近代

  確かに、明治という、近代化のただなかにあって豊太郎を「エリート」たらしめているものは、「公的社会秩序」における有用性=「する」価値だ。つまり豊太郎は「役に立つ」のである。そうであることに疲れた主人公たちが、あらためて自分にとっての「である」価値に目覚めているということだということか。

 日本にとっての近代化とは、西欧文化の流入だ。そういえば丸善に並んでいるきらびやかな品々はどれも舶来品だし、「美しい詩」は、おそらく和歌などではなく翻訳詩であり、蓄音機で聴く音楽は西洋のクラシック音楽なのだろう。つまり「近代/非近代」という対比は次の対比でもある。

西欧/日本

 また、柄谷の言葉を借りれば、左は「『交換価値』によって、あるいは『概念』(意味されるもの)によって体系づけられている世界」なのだから、それを次のような対比としてみるのは無理な飛躍はない。

    均質な空間/感性的な空間(「場所と経験」より)


 こうした対比に基づいて、「檸檬」と「舞姫」を読み解こう。


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