2021年6月6日日曜日

自律という虚構 -論述問題

 まとまった文章を書かせたい、と去年から言っていた。読み進めたい文章が目白押しで、なかなかタイミングがとれなかったが、今回思い切ってここに挿入する。

 第1回定期考査の大問3に出題した小坂井敏晶の文章は、1年の「国語総合」の教科書にも収録されていたので、みんなは初めて出会うわけではない。その、1年の時に読んだはずの「自律という虚構」から今回の論述問題を設定した。考査の問題は早稲田の入試問題であり、こちらは中央大法学部で出題された文章だ。

 どちらも、「近代的個人=自律した理性的主体」という考え方をひっくり返している点で、今年度これまでに読んできた「自己」論の流れを受けている。とりわけ西垣通の「情報流」や、考査大問2の同じく西垣の「個人とは何か」との相似は濃厚に感じられる。


 本文は、小坂井の専門の社会心理学の実験を例に、「合理化」という機制を用いて「自律した理性的主体」などという「個人」観が虚構であることが述べられている。

 設問①は、一つ目の実験から、人間が認知的整合性を維持するために行う「合理化」の論理を読み取り、それを二つ目の実験に応用する問題。

 「正解」が一つに定まるので、オリジナリティや発想のユニークさより、考察・論述の正確性・論理性が問われるタイプの論述問題だ。


 二つの実験に共通するのは、望まないことをさせられるというシチュエーションだ。

実験1 反対意見を書かされる

実験2 バッタを食べさせられる

 実験1では、被験者に渡される金銭的報酬が多い場合と少ない場合にそれぞれ、どういう論理で修正が起こりやすいと予想されるかが述べられた後で、実際には、少ない場合の方が修正されやすいという結果が示される。

 同じ論理を、バッタを食べる実験2における、味の印象の修正にそのまま応用する。

実験1  報酬が   多い←→少ない

実験2 実験者がA優しい人←→B嫌な人

 上のような対応関係をメモとして書き出せば、結論は明白。こういう図式化は大事だ。

 説明のための論述も、実験1についての説明を使って、対応する部分を実験2に置き換えればいいということに気づけば勝ちだ。

 ABが正しく選択されたうえで、説明の論理の的確さ・明晰さを評価しよう。

 Aを選んでいたら基本的には致命的だが、そこまでの説明が正しくて、AかBかの部分が、純粋にケアレスミスだと見なせるようならそれなりに評価してもいい。

 また「合理化」の機制について正しく理解したうえで、Aであることを充分に論理づけていると見なせれば、3点以下でそれなりに評価しても良い。

 逆にBを選んでも、その説明が不適切ならば不可とする。

 以下、解答例。


 「中略」部分の原文はこう。

 好きな人のためならかなりの犠牲を払うことも厭わないが、嫌な人のためには何の努力もしたくないのが人情。バッタを食べるのは気味の悪い経験だけれども、優しい実験者の頼みならば、彼に喜んでもらえるならば、努力のしがいもある。反対に、嫌いな人のためであれば、どうしてまずいものを無理して食べなければならないのか、なぜこんな人のために苦労するのか、理解に苦しむ。したがって、嫌悪感を覚える実験者に請われてバッタを食べた場合のほうが、好意を持つ実験者に依頼されて食べた場合に比べて矛盾が大きい。とすれば、バッタを味見したという事実は動かせない以上、矛盾を緩和するためには結局、バッタが思っていたほどまずくはなかったと思い込むほかはない。したがって、意地悪な実験者の条件の方がバッタの味の印象が向上する(という予想が立てられる。そして実験結果は実際そのとおりになっている。)

 「向上する」までで343字だが、ABの略称を使えばもう少し字数は少なくなる。

 使う言葉もあれこれ入れ替えて書き直してみよう。

 良い人のために嫌なことを我慢することに比べ、嫌な人のために嫌なことをしたというのは納得しがたい事実だ。バッタを食べるのは気が進まなかったが、Aならば、優しい実験者のために我慢したのだという納得ができる。一方Bの場合、そんな嫌な人のために、嫌なことを我慢したのだいうことになり、認知的不整合は相対的に大きくなる。そこで「我慢」したわけではないのだ、バッタは思ったよりまずくはなかったのだと、バッタの味の印象の方を修正して、認知的整合の回復を図るのである。したがって、Bの方がバッタの味の印象が向上する

 これで250字。


 設問②は①よりも解答の自由度が高いが、それでも書き手の独自性が問われるわけではない。本文の的確な理解と、明晰な論述が問われている点では①同様に、ある種の「正解」の方向性は決まっている。

 「合理化」を説明するのだが、当然「合理的」との対比を明確にすることが有効な手段であることを意識すべき。

 「原因と結果とが転倒している」を明らかにするように、という条件が難しく感じられたかもしれないが、実はそこを使わずに「合理的」と「合理化」の違いを説明しようとすると、同語反復的な、もやもやした説明になってしまう。合理的というのは理に適っている状態で、合理化というのは理に適った状態にしようとすることだ、などという。そりゃあそうだが、だから何だ?的な。

 最大のポイントは「原因」と「結果」がそれぞれ前の文中の何を指しているかを見極めることだ。

 原因→結果

 意志→行為

 上記の対応が「合理的」な状態。

 だが実際は逆の

 結果←原因

 意志←行為

 であるのを転倒させて、上の「合理的」な状態であると思い込む。そのような転倒を「合理化」と言っているのである。

 ここでも図示が有効。

 さらに設問は「合理化」とは何かを説明せよ、と言っているので、記述が、それを明らかにする方向に収斂しているかどうかも評価する。

 また条件として「実験などの具体例を用いずに」とあることにも注意。


 解答例1 (307字)

 ここでいう「合理的」とは、理性に基づいた「意志決定」が為され、それに基づいて「行為」を遂行している状態である。つまり「意志」が「原因」であり、「行為」が「結果」である

 だが実は、我々は外部からの影響によってまず「行為」し、それを理由づけるもっともらしい「合理的」な「意志決定」の過程を後から捏造しているのだ。とりわけその行為に何か矛盾が生じた場合、矛盾を解消しようと、意志決定過程についての認識に無意識に修正を加えてしまう。つまり「行為」こそ「原因」であり、「意志」はその「結果」なのである。だが、自律の感覚を保つため、因果関係を上記のように逆転して認識する。そのような転倒を、ここでは「合理化」といっている。

 

 解答例2 (239字)

 我々は合理的な「意志決定」に基づいて「行為」を為していると思い込んでいる。つまり「意志」が「原因」であり、「行為」が「結果」である。これが本文でいう「合理的」な行動モデルである。

 だが実は人間はまず何かをしてしまい、その理由を後から考える。つまり「行為」が「原因」で、その「結果」として「意志」による決定の過程が後から捏造されているのである。したがってここでいう「合理化」とは、記憶の中で「意志」による決定過程を修正して「合理的」に見えるように因果関係を転倒させることである。



 授業1回でやるには難しすぎる設問だ。時間が足りないだけでなく設問そのものが難しい。

 ただ、間に10分間の相談時間を設けたことで、「正解」を共有することはできるから、そこから後の各自の論述力が問われるように、と課題設定した。

 この10分間をいかに有効に使うか。問われるのは読解力や論述力、論理的思考力だけでなく、口頭での情報交換力、いわゆるコミュニケーション能力でもある。


 また、他人の論述を評価するという行為は、自分の論述を客観視することにもつながる、貴重な機会だったと思う。