「部分」の解釈から入ったが、実はここでこの問題に決着をつけない。何度も繰り返すように、「部分」の解釈の妥当性は「全体」の解釈と相補的だからだ。
一度「全体」解釈へ歩を進める。
論の骨子を掴むためのメソッドは対比構造を明らかにするのが定番。
いつものように、対比を構成する「具体例・比喩」「抽象語・概念語」「形容」をマークしていく。いくつか文中に挙がったら「ラベル」としてどの言葉がいいかを共有する。
「場所と経験」の大きな対立構造を読み取ることは、それほど難しいことではない。文中に明示されているからだ。まず「幻想的な空間/感性的な空間」が対比され、続いて「均質な空間」が対比される。
つまり、この文章は珍しい三項対立になっているのである。
これは「情報流」の「プレモダン/モダン/ポストモダン」の三層対比とは違う。これは時間軸上で直線に並ぶ。だが「幻想的/感性的/均質な」はそれぞれが二項対立を作りうる拮抗した三項だ。
そこでいつもの直線一本で対比軸を書くのではなく、Y字に三つの領域を区切って、そこに文中の語を配置していく。
挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。
例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。
すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのである。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。
あるいは「知識」も目を引くらしく、皆がとりあげたがる語句だ。
だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつのであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのである。
ここでも対比的なのは「真の/もっともらしい」という形容である。
さて、上記「人間」「経験」「知識」が文中に登場するのは終わりの三段落だ。この部分の読解は、前半ほど容易ではない。
まず、この三段落が同じ論理展開の反復になっていることに気づくだろうか?
こうした把握には、段落を一掴みにする感覚が必要だ。一掴みにした感触が、次の段落、その次の段落とよく似ている。
これができたら、三つの段落が相互に参照可能になる。
「我々は多くのことを知らされ~」の段落では「均質」と「感性」の対比であることが見て取れる。とりあえずそのままその二つの語が文中に登場しているからだ。
この対比を「私は『人間』について~」の段落にあてはめると、「理念」が「均質」に、「生きた他者」が「感性」に属することで対比を成すことになる。
こうした読解は、前の段落の「均質/感性」という対比が明確に意識されていないと難しい。「生きた他者」も「理念」も、この言葉自体の意味合いが「均質」や「感性」といった言葉と結びつく妥当性はない。文脈の対比構造から「生きた他者」と「理念」がそれぞれ「感性」と「均質」に配置されることがわかるのだ。
同じように「我々は日々多くのことを経験しているが~」の段落では「意味づけ」が「均質」に、「見たものだけを見たということ」が「感性」に属する。これも、三つの段落の論理展開が同じであると見なすからこそ可能な読解である。
さて、文中にマークした語句を、先ほどのY字で区切られた領域にそれぞれ配置していく。これができれば、この文章の全体の構造が一望できる。
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