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2020年5月10日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 13 -「ホンモノの形而上学」

 次は「ホンモノの形而上学」です。
 これも、「…とは何か?」と訊かれれば「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという(考え)」と答えられます。
 これは本文そのままなので「正しい」に決まっているのであり、それが何のことかわからないので、あらためて「…とは何か?」と問うているわけです。

 さてこれも「対比」の考え方を使いましょう。「形而上学(的)/形而下(的)」です。
 「形而上学」は、ある辞書では「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、絶対存在を純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。」と書かれています。もちろんこんな説明で「わかる」わけがありません。これは既に「わかっている」人が、自分の認識を言語化しているのです。「わかっている」というのは、「使えている」意味です。
 別の辞書では「思惟や直感によって世界の根本原理について研究しようとする学問。」と書かれています。若干すっきりしましたが、それでもまだモヤモヤしています。
 「形而上学」は、普通は「哲学」を指しています。じゃあ「哲学」って何だ?
 そこで「対比」です。
 「形而下」は「形をそなえたもの。物質的なもの。」という意味です。前にも「形而下学」という言い方はほとんどしない、と言いましたが、あえて「哲学」に対応させようとするなら物理学・生物学あたりの「自然科学」が「形而下学」ということになります。
 ということで「形而上学=哲学/形而下学=自然科学」なのですが、ニセガネ作りたちが哲学に支配されていた、などといっても何のことやらよくわかりません。
 とりあえず「形而上/形而下」「本質・原理・形のないもの/物質・物体・形をもったもの」というような対比を表しているのだといえます。
 しかしこれはおかしな話です。ニセガネ作りたちこそ「金銀」という「物質・物体」「形」に囚われているのであり、彼らの考え方はむしろ「形而下」的なのではないでしょうか?
 なのに、岩井克人は彼らは「ホンモノの形而上学」に支配されていた、と言っています。いったいどういうこと?

 このわかりにくさははっきり言って、岩井克人が悪い。気取った言い方をしようとしていたずらに読者を混乱に陥れている。

 一方、そうは言っても、まあこういう「形而上学」という言葉の使い方もあるよな、とも思います。読者はとりあえずどういうことを言いたいのかはわからなければいけない。わかった方がいいのです。
 そこでニュアンス、です。
 前回の記事では、そもそも「形而上学」は肯定的なニュアンスなのか、否定的なのか、とききました。
 もちろん言うまでもなく否定的なニュアンスです。それに囚われていたニセガネ作りが、結局「ホンモノのおカネ」を作ることに失敗しているのですから。
 といって「形而上学」が元々否定的なニュアンスをもった言葉だというわけではありません。「形而下」が肯定的なのでもありません。
 それどころか「形而下」が否定的に使われる場合もあります。物欲や肉欲にとらわれているような状態を「まったく、形而下的なんだから~」と言って揶揄することがあります(まあ高校生にはないでしょうが)。そういう場合は「形而上/形而下」は「高尚/低俗」のニュアンスであり、「形而上的」の方が上等なのです。
 ではどういう場合に「形而上学」が否定的なニュアンスで使われるのでしょう?

 否定的なニュアンスでの「形而上学的」とは、「地に足のつかない」「机上の空論」「頭でっかち」というような意味合いです。対比的に「形而下的」は肯定的な意味合いとして「現実的」というニュアンスを表わしていることになります。
 ニセガネ作りたちはどのような「空論」にとらわれていたのでしょう? ニセガネ作りたちはむしろ金銀といった物質に目を向けていたのであり、むしろ「形而下的」だったんじゃ?

 ところでこの問題は「形而上学」という言葉だけを考えても「わかる」ようにはなりません。問題はあくまで「ホンモノの形而上学」です。
 もう一つの問いは、「ホンモノ」が片仮名で書かれているのはなぜか? でした。
 漢字や平仮名で「本物・ほんもの」と表記せずに「ホンモノ」と書くのは、無色透明な意味での「本物・ほんもの」とは違った意味合いを込めたいからです。「本物・ほんもの」という言葉を一旦保留にして、そもそも「本物・ほんもの」とは何か? という根本的な問いを投げかけたいからです。「ホンモノ」の片仮名表記とは、日常通用している言葉として、とりあえず使っておくけどさあ、という身振りの表明です。
 さてでは岩井克人は結局「ホンモノ」をどのようなものだと考えているのでしょう? (ああ、授業ならばここで間を取って全員に考えさせられるのに! 文章では考えることもなしにすぐ先を読み進めることができてしまうのです!)

 このことがわかるのは、これまでにも言及したことのある次の記述です。
ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである。
 ここから「ホンモノ」という言葉の意味だけを抽出しましょう。
 つまり、「ホンモノ」とは「代わり」に対する「ホンモノ」という意味でしかない、と筆者は言うのです。
 「本物」という言葉が常にそうしたものだと言っているのはありません。「本物の金」「本物のダイヤモンド」はあります。しかし「ホンモノのおカネ」という場合、つまり「おカネ」についての「ホンモノ」というのは、「代わり」に対するものでしかない、と言っているのです(とはいえ「本物の百円玉」「本物の一万円札」はあります。対象が特定されれば、それについての「本物/偽物」の区別はできます)。
 このことを
「ホンモノ」というのは ? 的なものではなく ? 的なものだ
と表現してみましょう。「?」にあてはまる対義語を考えてください(やはりここも考えさせたい)。

 グループ討論の中で出てきた対義語をいくつか挙げます。
  • 「ホンモノ」というのは実体的なものではなく概念的なものだ 
  • 「ホンモノ」というのは恒久的なものではなく一時的なものだ
  • 「ホンモノ」というのは絶対的なものではなく相対的なものだ
どれもよろしい。
 まあ「『代わり』に対する『ホンモノ』でしかない」という言い方から素直に思い浮かぶのは「相対的」ですね。

 さてこれを「形而上学」と結びつけましょう。
 先ほど「形而下的」は「現実的」というニュアンスだと言いました。では「現実的」の対義語は何でしょう?
 これもグループ討論の中ではいろいろと挙げられました。「現実/空想」「現実/仮想」、もちろんあります。「現実/幻想」「現実/虚構」、いいセンいってます。
 こちらが期待した語彙はとうとう出ませんでした。無理もありません。高校生の語彙ではないのです。
 私が想定していたのは「現実/観念」という対義語です。
 つまり「形而下的=現実的/形而上学的=観念的」です。「観念」とは「頭でっかちな空論」というような意味です。否定的なニュアンスで使う場合には。

 さて合成しましょう。
 「ホンモノの形而上学」とは
相対的なものでしかない「ホンモノ」を、あたかも絶対的実体として存在するかのように信じている、観念的な思い込み。
といったところでしょうか。太字部分には上のいくつかの言い換えが適用可です。
一時的なものでしかない「ホンモノ」を、虚構であることに気づかずに、あたかも恒久的現実存在であるかのように思い込むこと。
「形而上学」という言葉は、先にも述べたように「高尚な」という意味合いでは肯定的にも使えます。ですが、ここでのニュアンスは、難しい言葉で言えば、ニセガネ作りたちに対する揶揄、もう少し平らな言葉で言うなら皮肉、といったところでしょうか。

 ここまで考えれば、去年確認されたかもしれない「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」という説明が、今こそ「わかる」になるはずです。
 逆に言えば、この短い説明だけではおそらく「わかる」わけではないのです。前回にならっていえば「わかる」ことが目的ではない、という以上に「答え」が与えられて「わかる」わけではない、といったところでしょうか。

2020年4月30日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 11 -グループワーク実施

 学校全体でTeamsが動き出すまで、もうしばらくかかりそうです。
 そこで、あるクラスで試験的に、Teamsとは別のオンライン通話で、前回の「問題の整理」にしたがって、話し合いをしてもらいました。
 基本4人ずつの10班によるグループワークです。話し合いの後、その成果(必ずしも「結論」というほどまとまらなくても)をレポートとしてそれぞれ班ごとに送ってもらいました。

 レポートには、部分的に面白い見解や「うまい」表現もあったのですが、全体としては問題に対する考察が十分に深まっているとは言えませんでした。これはやむをえないことです。今回の話し合いはあえて時間を短くするよう制限しましたし、授業のようなこちらからの微妙な誘導ができないからです。

 それでも、こうした話し合いは授業にとってやはり重要な意味をもつと、あらためて思いました。
 そうした契機がなければ、こんなブログの長い文章など、読むことすら面倒でしょう。そしてその問題について考えることも。
 そして「考える」ことこそが、国語の学習のほとんどなのです。
 この後の記事を読む上でも、この問題について考えた今回の経験がなければ、どれほどの関心を持って読めるか、あまりにも心許ない。このクラス以外の人たちにとって。 
 それでも、そうした機会を待って現状で止まっているより、問題を先に進めます。

 考察すべき問題を確認します。まず一点目。

①文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」とは何のことか説明する。

 この問いにストレートに答えてはいけません。前々回この問いは「雑な問い方」だと言ったはずです。「単なる『何のことか』よりも適切な問い」をまず考えなさい、というのが前回までのアドバイスです。
 また、どちらも、文中から該当箇所を挙げることはできるが、それだけでは「わからない」ので、「わかる」ための説明を考えなさい、というのが指示です。
 もちろんこれらの指示に応えるのは難しい。問いそのものを工夫しているレポートはありませんでしたし、「説明」も、結局本文といくらも変わらない表現にとどまっているレポートが多い。
 繰り返し言いますが、それらの「答え」は正解です。本文からの抜き出しが適切なら。
 にもかかわらず、それでは「わからない」と感じているのではないでしょうか?
 やはり「わかる」ために明らかにしなければならないポイントを捉える必要があるのです。

 予告どおり、今回はそこまで話を進めます。
 説明が「わかりやすい」と感じられるようになるためには、「そのこと」を説明するだけでなく、「そのことでないこと」と併せて説明するのが効果的です。「対比」の考え方です。「対比」の考え方は、自分が「わかる」ためにも有効ですが、相手に「わかってもらう」ためにも有効です。
 つまり「逆説」を説明するためには「通説」が何なのかを明らかにするのです。
 「問い」として言い直すなら「この『逆説』とはどのような『通説』に対して『逆』なのか?」です。
 対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせるのが肝心です。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすることが、「そのこと」を認識しやすくします。
 さて「逆説」はもう明らかですね。ではこの場合「通説」とはどのようなものでしょう?

 「形而上学」も同じように考えます。「形而下」とは何のことか、と考えるのです。
 ただしこちらはこれだけではまだ「わかる」べきことが明らかにはなりません。
 授業ならば「『形而上学』という言葉を、筆者はどのようなニュアンスで使っているか?」と問います。
 「ニュアンス」?
 微妙な言葉です。ですが筆者がそれをどのような「ニュアンス」で使っているか、こそが「形而上学」の「わからなさ」です。
 そもそも肯定的? 否定的? どうして「形而上学」という言葉がそのような意味で使われるのでしょう? 筆者はこの言葉にどのような「ニュアンス」をこめているのでしょう?

 そしてもう一つ重要な問題は、題名にはじまって本文中一貫して「ホンモノ」という言葉がカタカナで表記されていることの意味です。ここにはどんなニュアンスがこめられているのでしょう?
 実は「形而上学」はそれだけを説明しても不十分で、「ホンモノの形而上学」と言わないとそのニュアンスが説明できないのです。
 筆者はなぜ、「本物」という言葉をカタカナで「ホンモノ」と表記するのでしょうか? それを含めて「ホンモノの形而上学」を「形而下」と比較しながら説明してください。

 ところで、レポートの中で「形而上学」を「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」と説明している班が複数ありました。察するに、おそらく昨年度の授業で確認された「公式」解答ということでしょうか。
 これは確かに間違ってはいません。ですが、単なる本文そのままの「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという認識」より何かが「わかりやすく」なっているでしょうか? どうしてこれが「形而上学」という言葉で表現されているかは、依然として「わからない」のではないでしょうか?
 「ホンモノの形而上学」が本文の何を指しているか、が問題なのではなく、やはりこの表現のニュアンスが読み取れることが、ここでは読者に問われているのです。

 ②全体を捉える「問い」と「答え」の組み合わせを考える。

 まず「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」では駄目だと最初に言いました。
 「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」は、それよりは良いのですが、上述の通りまだ不十分です。
 この二つは、その「答え」が本文中からほとんどそのまま抜き出せて、それでも「わかる」という感覚がおとずれるとは言い難いからです。
 ポイントは二つだと私は考えています。
 まず一つは上記にも挙げた「ホンモノ」のニュアンスです。「ホンモノ」とは何か?
 もう一つは?
 これは、もう一度考えてみてください。「問い」の形はシンプルです。そしてこの「問い」こそ、全体を把握する「問い」です。
 そして、上記二つの「問い」に対する「答え」を考えてください。
 「答え」は、繰り返し言っている通り、本文そのままでは駄目です。解釈を通して、自分が納得できる「答え」を形にしてください。

 さて、上記クラスには、もう一度、こうした誘導にしたがって話し合いをしてもらおうと思います。
 他のクラスでもそうした取り組みが自主的に行われることを期待します。
 何よりそもそも、始めてしまえば楽しいに違いないのです。

2020年4月26日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 10 -問題の整理

 休校中の課題の提示から2週間が経ちました。
 各科目の課題の中には、GW明けの学校再開を想定した課題もあります。一方、学習の方向性だけを示した課題もあります。本ブログ「現代文」の課題もそうです。要約を週に2本、という課題なので、ここまでで4、5本の要約をしていれば、とりあえずは指示どおりです。さらに「学習の手引き」について考えてあれば、「現代文」という科目の学習としては十分です。
 おそらく予定のGW明けの学校再開は難しいでしょう。感染者増加のペースは落ちていないので、緊急事態宣言を解除する理由がありません(解除するなら、活動自粛には実は感染拡大を防止する効果がない、という意見が専門家会議でまとまるしかないでしょう。が、それはここまでの方針を誤りであったと認めることになるので、難しい)。
 引き続き休校が続くとして、その間、課題は同じように続けてください。

 一方、このブログでは授業が行われていたら、という想定で、授業で取り上げたかもしれない教材文を題材に、読解のためのメソッドを紹介しています。
 繰り返し書いているように、メソッドは、知っていると役に立つというようなものではなく、使うことで、身につけることでしか役には立ちません。
 そしてさらに、可能ならば、ここで問題を提示することで、みなさんが授業を受けたときのように「考える」ことができないか、とも期待してきました。
 まあしかしこれについては悲観的にならざるをえません。おそらくみなさんは、数学の問題を解くようには、現代文の問題について一人で考えるという経験をしたことがないだろうと思われるからです。何かを一人で考え、考えが深まっていくという経験を。
 「考える」ためには、やはりある程度の強制力があり(例えば学校に集められて、授業を受けさせられる、といったような)、そこには目の前に他者がいて、対話をする、というような契機が必要なのです。
 一人で考えるという「経験」を数知れずしてきた私でも、前回までのように、対話という契機があると、いきなり、一人ではできなかったような考察に導かれます。前回までの考察では、自分なりにはこの文章はこう読めば良いだろうと見当をつけていた読みとは違う読みに目を見開かされました。「認識の変容」というやつです。
 こういうことが起こるから授業は面白い。

 さて、「ホンモノのおカネの作り方」について「考える」ために、問題を整理します。

  1. 文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」を説明する。
  2. 文章全体の「問い」を「~か?」という形で表し、その「答え」をまとめる。

 1については、もちろん語義ではなく、文中での意味を説明するのです。そしてもちろん、「逆説」も「形而上学」も、文中ではどういっているかを指摘することはできます。

  • 逆説ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説
  • ホンモノの形而上学ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」

 文中から上記部分を指摘するだけでは「わかった」と感じられるようにはならないからこそ問題なのであって、上記記述の意味をこそ説明すべきなのです。
 ここでは「説明」するための方向性について、単なる「何のことか」よりも適切な問いがあるのですが、前回予告を先延ばしして、さらに次回。

 2「文章全体の『問い』」については前回「授業8」で言ったように、以下のように「問い」と「答え」が出揃うことは共通認識として、それでも「わからない」感覚をどう納得させたらいいのか、を考えてください。

  • 問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
  • 答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 つまり、上記とは違う「問い」と「答え」の組み合わせを考えてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 9 -対話3「対比を探す」

 前回に続いて対話の試み。
 さらにこの生徒は「対比を探す」にも、応えてくれています。

【具体例】
  ニセの二分判金⇔預かり手形
【形容・性質】
  ホンモノに似ている⇔ホンモノには似ても似つかない
【抽象語】
  ホンモノの形而上学⇔逆説

 既に自分でも考えてあったみなさん、どうでしょう? 一致していますか?
 この中で「抽象語」に挙げられた対比「ホンモノの形而上学/逆説」は、私には全く予想外でした。そして、初見では「要約」同様、この対比に強い違和感を感じました。そしてなおかつ、考えてみて、この生徒がこれを対比として挙げた理由が納得されてきました。

 本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。

 私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
 これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
 この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
 そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
 「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
 そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。

すなわち、ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説の作用こそ、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきたのである。だが、あのニセガネ作りたちを支配していたのは、この逆説とは逆の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。(52~53頁)

 ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
 「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。

 「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
 /逆説の作用によって両替屋の預り手形ホンモノのおカネになった。

 見事な対比です。
 こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?

 ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。

 「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
 「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
 「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆」と「逆」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
 「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。

 「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
 違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。

 それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
 と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
 いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
 やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
 以下次回。

2020年4月23日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 6 -部分的な表現を考える1

部分的な表現を考える1


 「ホンモノのおカネの作り方」を題材に、web上で授業(のようなもの)を展開する試みを続けています。
 ここまで「要約」「問いを立てる」「対比を探す」というお題を課していますが、それぞれ実行しているでしょうか。
 「要約」はともかく、後の二つは、ここで今、解答&解説のようなことをしても、残念ながらそれほど学習のためにはなりません。これらのメソッドは学習者(みなさん)が実行することによってのみ意味あるものとなるのであり、その動機付けと有効性の確認のためには対話が必要だからです。
 この対話のためのツールについては、現在、学校全体で検討中です。オンライン会議のためのツールは、現在複数のサービスがありますので、それらのどれかを使うことになると思われます。既にみなさんが日常的に使っているツールとしてはLINEのグループ通話なども活用できるでしょう。
 動向は追って連絡されるはずです。その全体方針を見てから、この講座での展開方法を考えていきます。

 さて、「問いを立てる」「対比を探す」のいずれも、思考の方向性を定め、思考を整理するために役立つ方法ではありますが、これだけで十分というわけではありません。
 全体的にはわかってきたが、細かいところでわからない感じがしている部分もある、ということもあります。そして「ホンモノのおカネの作り方」の場合、「要約」しても「問いを立て」ても、結局そのわからない部分がそのままの形で露出してしまうだけなので、論理の構造がわかったからといって、腑に落ちないという感じは解消できないのです。
 ただ、攻める方向は複数あった方がいいのは確かです。いくつかの方向から複数の方法を試しながら考えていくことで、それらの成果が互いに助け合って働きます。

 上記「わからない部分」は、この文章の場合明らかです。
 「逆説」「形而上学」です。これらの言葉が出てくる箇所で、理解がいちいち引っかかるはずですし、それが要約したときにもそのまま露出するので、その適切さの判断がしにくいはずです。
 ちなみに、最初の「問いを立てる」というメソッドにおいて、「『~という逆説』とは何か?」「『ホンモノの形而上学』とは何か?」という「問いを立て」た人もいるかもしれません。
 これらの問いは間違ってはいませんが、理解のための有効性としては十分ではありません。問いが部分的であることと、その答えは本文中から簡単に見つかり、なおかつそれでもわからないからです。
 ですが、これがこの文章を読解する上で考えるべき焦点の一つ(二つ)であることは間違いありません。
 引き続き、考えるべきことの指示として、この二つを取り上げます。
 ここでいう「逆説」と「形而上学」とは何のことか、説明してみてください。

 そもそも言葉として馴染みがないですよね? まずは語義を辞書や手元にある『読解を深める 現代文単語』(表紙が全体として青緑の)で調べてみましょう。その語義を本文に戻して、その文脈上では何を言っているかを考えてください。
 ただし、「逆説」と「形而上学」とは何のことか? というのは雑な問い方です。授業では意図的に、まずは雑な問い方をします。問題の方向性だけを示して、それを考えるためにはさらに何を考えたらいいのかをみなさん自身に考えてもらうためです。
 問われたことを答えることよりも、重要なことは、自分で問いを立てることです(学習上も、人生においても!)。「正しく問いを立てる」ことができたら問題の大半は解決への道の半ば以上が過ぎている、とさえ言われます。
 「逆説」と「形而上学」のわかりにくさは、単に語義がわからないということではありません。語義がわかった上で、それでもわかりにくいのはなぜか、何をわかりたいのかを考えてください。
 この、さらに方向を明確にした「問い」は次回提示します。その前にまずは自分で考えてみてください。