さらにこの生徒は「対比を探す」にも、応えてくれています。
【具体例】
ニセの二分判金⇔預かり手形
【形容・性質】
ホンモノに似ている⇔ホンモノには似ても似つかない
【抽象語】
ホンモノの形而上学⇔逆説
既に自分でも考えてあったみなさん、どうでしょう? 一致していますか?
この中で「抽象語」に挙げられた対比「ホンモノの形而上学/逆説」は、私には全く予想外でした。そして、初見では「要約」同様、この対比に強い違和感を感じました。そしてなおかつ、考えてみて、この生徒がこれを対比として挙げた理由が納得されてきました。
本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。
私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。
ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。
「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
/逆説の作用によって両替屋の預り手形はホンモノのおカネになった。
見事な対比です。
こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?
ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。
「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆説」と「逆接」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。
「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。
それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
以下次回。
本当はこの後は皆さん同士の対話を経てから続けたいところなのですが、この機を逃すのは惜しいので、もう少し続けて、私自身の考察を明らかにします。
私の想定していた「抽象語」の対比は「ニセガネ/ホンモノのおカネ」でした(そりゃそうだろ、とツッコんでほしいところです)。
これは「水の東西」の「自然/人工」に比べ抽象度は低いのですが、「具体例」の「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」よりは抽象的です。もともと「抽象語」「具体例」「形容・性質」という分類は前回述べたように厳密なものではありません。発想の手がかりに分類を示しているだけで、何がどれであってもかまいません。
この文章が「ニセガネ/ホンモノのおカネ」を対比した文章であることはすぐに読み取れます。そこでまずこれを「ラベル」として置き、この対比に他の対比を揃えようと考えていました。
そしてそこに「ホンモノの形而上学/逆説」という対比は、全く発想していませんでした。
「形而上学」と「逆説」は、言葉自体はまったく対義語でもなんでもありません。とはいえ文中の「対比」が、一般的な対義語であるとは限りません。筆者がその文中で対比的に使っている言葉を「対比」として取り上げるのです。この文中で「形而上学」と「逆説」が対比的であればいいのです。どうでしょう?
そう思って本文を読んでみると、次の一節が見つかります。
すなわち、ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説の作用こそ、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきたのである。だが、あのニセガネ作りたちを支配していたのは、この逆説とは逆の、ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」であった。(52~53頁)
ここでは「だが」「逆の」によって、「逆説」と「ホンモノの形而上学」が対比されているではありませんか!
「砂土原藩の二分判金/両替屋の預り手形」と向きを揃えるならばまさしく「ホンモノの形而上学/逆説」という対比が成り立っているわけです。「ニセガネ/ホンモノのおカネ」ともあわせて、この三つの対比を合成してみましょう。
「ホンモノの形而上学」に支配された砂土原藩の二分判金はあくまでニセガネでしかない。
/逆説の作用によって両替屋の預り手形はホンモノのおカネになった。
見事な対比です。
こうして対義語として通常並ぶことのない「形而上学」と「逆説」は対比的に使われていることがわかったのですが、私が最初に感じた違和感は、それはそれでやはり故あってのものなのです。どういうことでしょう?
ここからは「授業6」の考察に踏み込んでいかざるをえません。「形而上学」「逆説」とは何か、です。
「形而上学」と「逆説」には、それぞれの対義概念があります。
「形而上」の対義語は「形而下」です(ただし「形而下学」という言い方はほとんどしませんが)。
「逆説」には通常使われる直接の対義語がありません(「逆接」ならば、その対義語は「順接」です。「逆説」と「逆接」は別の言葉です)。ですが対義概念を考えることはできます。前述の『現代文単語』の「逆説」の説明文中から「逆説」の対義語を探してみましょう(授業なら「探して」と言って、探させるところですが、それができずにこちらでこの後言ってしまうしかないのが残念です。自分で探すこと自体が国語の学習なのであって、この後に述べる認識は既に価値が半減しているからです)。
「逆説」のここでの対義語は「通説(一般的な見解)」です(辞書によっては「逆説」の対義語に「真説」を挙げています)。
「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」がそれぞれの対義概念の組合わせです。
違和感のわけはこれです。「形而上学/形而下学」と「逆説/通説」というそれぞれの対比は、それぞれ違った対立要素によって「対比」されているのであって、「形而上学/逆説」という対比は、斜(はす)向かいのようにズレた、関係のないものを接続したような印象があるのです。
それでも、この文章において「形而上学/逆説」という対比が成り立つなら、つまり「形而上学=通説/形而下学=逆説」という対比も成り立つということになるのでしょうか。
と、ここまで考えてみて、私にも、なるほど確かにこの文章においては、このような論理が成り立っているのだ、とはじめて気づきました。
いやはや、なんのことやら、という感じでしょう?
やはりこれを説明するには「ホンモノの形而上学」とは何か、「逆説」とは何か、を説明しなければならず、これはこれで長い説明になります。
以下次回。
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