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2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

最後の読み比べ 5 近代化という問題

 次に、それぞれの文章で何が「問題」なのかをみていく。その際、前項で確認した対比が、どのようにしてその「問題」を生んでいるかを確認する。


  • 「である」ことと「する」こと

 「する」化がもたらす「過近代」的問題とは、休日が却って忙しい日になっているとかいう問題も挙がってはいるが、大きな問題は文化=学問・芸術に好ましくない影響があることだ。この「影響」は、あまり具体例としては挙がっていない。研究者の評価が論文ので(ではなく)決まってしまうことくらいだ。
 だが文化が「する」論理=「大衆的な効果と卑近な『実用』の基準」で評価されることは明らかに文化の衰退を招きそうな予感はある。「である」価値の軽視は文化にとって重要な「蓄積」にも悪影響があるだろう。

  • 不均等な時間
 「均等な時間」=「する」時間の浸透によって、「労働時間の作り出す経済価値がすべて」になると、そこに生きる人々のそれまでの共同体や自然との「すべての関係が崩れ去ってしまう」。そうなると人々は「自分たちの存在の形がな」くなることになる。
 つまり「時間に管理される」ことは、自然と、そこに生きる人々にとって「暴力」なのである。
 「時間に管理される」と、「経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。」というくだりは、上の「『である』ことと『する』こと」の「休日」のくだりに完全に対応している。
 そして「時間に管理される」とは、授業でも確認した「疎外」の概念「自分たちの作りだしたものに逆に支配され、本来の人間らしさを失う」状態を言っているのだということも多くの者が気づいたはずだ。

  • この村が日本で一番
 上の「疎外」の問題が、この文章でも言及されている。
グローバル化という形で拡大していく市場経済は、人間自体に対して深刻な問題を投げかけているのである。だからこのような時代には、「自己実現」とか「自分探し」、「個の確立」といった疎外された意識が次々に出てくる。だれもが、自分の確実な存在を見つけ出せないのである。
 ローカル=「我らが世界」では、「自分を見つけ出すことができる」。それがグローバル化によって、すべてを経済価値で測る「する」論理が支配するようになると、「自分」が「自分」であるという「かけがえのない個体性」は見失われてしまう。
 そうした「疎外」状況だからこそ、逆に「自分探し」に駆り立てられる。

  • 南の貧困/北の貧困
 問題は単なる貧困ではない。貧困を生み出す前提となる「貨幣への疎外」が問題だと見田はいっている。
 「貨幣への疎外」が「する」化であることは前項で確認済み。
 「問題」はその時に「人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される」ことだ。
 これはそのまま上の内山の「自分たちの存在の形がなくなる」ことに等しい。
 「南の貧困/北の貧困」ではこれを「見えない幸福の次元」「測定できない幸福の次元」を失う、と表現している。「測定できない」つまり「する」原理=機能・効率で量ることができない「幸福」こそ、「である」価値をもったものである。

 ではこれらに共通する「問題」を抽象化して言ってみよう。
近代化に伴う「である」価値の喪失
 これならば4つの文章に適用できる。
 「近代化」はそれぞれ次のように変奏している。
  • 「である」→ 「する」化
  • 「不均等」→ 時間の合理化
  • 「この村」→ グローバル化
  • 「南の貧困」→ 市場経済化=「貨幣への疎外」

 そこで失われる「である」価値とは何か?
  • 「である」→ 文化
  • 「不均等」→ 自然・共同体
  • 「この村」→ 自然・共同体
  • 「南の貧困」→ 自然・共同体

 そして内山の文章では「自然・共同体」との関係の喪失は「自分の存在」を危うくするという視点が重視されている。喪失するのは「自己」である。「疎外」とはそのような状態を指している。
 「『である』ことと『する』こと」でもこの「自己」の問題に言及している。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。
 「する」化によって失われるのは「教養」であり、「教養」が失われることは「かけがえのない個体性」をもった「自分」が失われることだ。そしてここでも「自分」という存在は社会や自然との関係において「自覚」されている。
 文化・教養、自然・共同体、そして自己。
 ここに「市民社会化する家族」から「家族」を加えてもいい。
 これらはどれも「する」論理で切り棄ててはならない「それ自体」=「である」価値を持ったものである。
 近代化はそうした「である」価値をもった存在を危うくするのである。

最後の読み比べ 4 対比の変奏

 それぞれの文章の対比を並べ、それらがどんなふうに整合するかを見ていこう。

 全体を通観するためのラベルは「である/する」だ。これと軸を共有できる対比を挙げる際は、左辺に「である」、右辺に「する」を並べる。そして、なぜそれが「である」なのか、「する」なのかは、「である/する」の言い換えのバリエーションから適宜表現を選んで対応させる。


 まずは「不均等な時間」。

 既に前の記事で「上野村/隣村」「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」という対比を挙げてある。
 さらに誘導した「時間」を使った対比は何か?
 文中から表現を探す前に、そもそも題名の「不均等な時間」という言葉は、直接には文中にない。だが「ホンモノのおカネ」が「ニセガネ」を、「メカ少年」が「少年」を潜在的な対比として含み持っているように、「不均等な時間」は「均等な時間」と対比されることが前提されている。
 不均等な時間/均等な時間
 こういう、包括的でシンプルな表現がラベルには便利だ。
 この対比を本文中の表現を使って言い換えると?
 伝統的な時間/近代社会が作り出した時間
  自然の時間/合理的な時間
 循環する時間/時計の刻む時間
 いずれも、明確な対比として文中に置かれているわけではないが、様々な言い換えのバリエーションとして左右に振り分けておく。

 これらがなぜ「である/する」の対比と重なるのか?
 「伝統/近代」はそのまま「である/する」の対比であることは確認済み。
 また「合理的」も、「する」論理が「機能・効用・効率」重視であることからすれば当然言い換えとして認めていい。何にとって「合理的」かといえば経済価値を生むための「合理性」だが、経済といえば「する」論理が活かされるべき「部面」だったはずだ。
 これが「均等な時間」となぜ対応するかといえば、工場生産においては、時間を「均等な」ものとみなして管理することがコスト計算を可能にしたり、生産性の向上につなげたりすることができるようになるからだ。つまり「均等な時間」とは「機能・効率」=「する」論理なのである。

 一方の「不均等な時間」がなぜ「である」なのか?
 「不均等な時間」とは、時間の流れには濃淡や遅速があるということだ。そこで起こることや為すことはもともと一定していない。それが「自然な時間」の流れ方だ。
 「である」とは「地縁・血縁」にせよ「身分」にせよそのままの「自然」の状態を言っている。「自然」の時間は「不均等」であり、そうした時間はそれぞれの「かけがえのない個体性」をもった、交換不可能なものだ(この「交換可能/不可能」という対比は「この村」の方からの前借り)。

 次に「この村が日本で一番」の対比、「ローカル/グローバル」という対比がなぜ「である/する」なのか?
 「ローカル」は「この地域に生まれた自然や歴史、文化、コミューンとともに、自分もまた存在している」という意識である。「である」であることに疑問はない。
 それが「グローバル」化することはなぜ「する」化なのか?
 グローバル化とは「市場経済を舞台にして、すべてものを交換可能なものへと変えていく」ことだ。「経済」が「する」論理なのは確認済みとして「交換可能」であることはなぜ「する」論理に則っているのか?
 「する」論理とは、「機能」や「業績」を重視するということだ。逆にいえば、同じ「機能」「業績」を備えていれば、それが誰であるかを問わないということだ。
 「グローバル化」とは、世界中が「均等な」基準によって「交換可能」になることなのだ。
 「する」化=「グローバル化」=基準の均等化=時間の合理化=「交換可能」化は、人間をもまた交換可能にする。時給計算は人間の価値を時間によって均等に量るということだ。

 さていよいよ「南の貧困/北の貧困」だ。
 「貧困にならない/貧困になる」という対比は「金がある/金がない」という対比ではない。それは「貨幣からの疎外」を問題にしているのであって、それより問題なのは「貨幣へ疎外されていない/貨幣へ疎外されている」という対比である。
 これが「である/する」という対比とどう対応するのか?

 「貨幣への疎外」とは本文中で次のように説明されている。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
 ここに述べられている事態は、内山が述べている事態とまるで同じである。
たとえば
  • 上野村の人々にとっては、夕方の釣りも、春の山菜採りも、秋の茸狩りも、村人としての営みの流れの中にある。(…)ところが時計の刻む時間が価値を生む世界に身を置いた瞬間から、そのすべての関係が崩れ去ってしまうだろう。
  • 時計の時間が価値を生む社会への転換が、山村の暮らしや人々の意識のすべてを変えてしまうことを知っているからであろう。少なくともそこに自分たちの存在の形がないことを、村人たちは知っている。(「不均等」)
 まずはただちに両者に共通する「自然・共同体」が「である」価値を持ったものであることが確認できる。
 そこから「貨幣へ疎外される」ことがなぜ「する」化なのか?

 「貨幣への疎外」とは「貨幣」が豊かさの基準になることだ。そして内山が述べているのはそれを「時間」に置き換えただけだ。
 この置き換えが可能なのは、そのように置き換えられる「時間」とは「時計の時間が価値を生む」ような、そのまま貨幣への換算が可能な時間だからだ。商品の「コスト」計算や労働者の「賃金」計算は、時間を金額に換算することによって成り立つ。逆に言えば、そのように換算が可能な「時間」こそ「均等な時間」である。
 貨幣とは、その額面によって得られるものが決まっているということだから、つまり「機能・効用・効率」だ。何の? 「幸福と不幸の尺度」である。貨幣は「幸福」を手にできるという「機能」を持っている。どれほどの「幸福」が手にできるかという「効用」を表わしている。
 したがって「貨幣への疎外」もまた「する」化なのである。

 通観してみよう。

       である/する
かけがえのない個体性/機能・効用
    不均等な時間/均等な時間
     自然の時間/合理的な時間
        伝統/近代
      ローカル/グローバル
     交換不可能/交換可能
 見えない幸福の次元/貨幣へ疎外されている

 こうして通観してみると、4つの文章はすべて共通する対比軸に沿って対置された対比に基づいて論じられていることがわかる。
 ではこれらによって語られる「問題」とは何か?

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 3 「問題」

 それぞれの文章では何が「問題」とされているか?

 「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?

 そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。

 以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。


  • 「である」ことと「する」こと

 この文章における問題を端的に表わす一語は?

 「倒錯」の一語が想起されてほしい。

 「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?

 「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。

 「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?

 それが他の文章とどのように重なるのか?


  • 不均等な時間

 何が問題かはわかりにくい。

 だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。


  • この村が日本で一番

 こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。

 さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。


  • 南の貧困/北の貧困

 ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。

 だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。

 そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。

 「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。

 南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?


 これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?

 そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。


最後の読み比べ 2 対比

 まずはそれぞれの文章の主要な対比を明確にしよう。


  • 「である」ことと「する」こと

 全編対比によって論が進んでいる文章だ。とりあえずラベルは言うまでもなく「である/する」だが、言い換えのバリエーションも十数語は既に挙がっている。以下の対応に最適な語をここから選んだり、必要に応じて変形したりする。


  • 不均等な時間

 明らかな具体例として「上野村/隣村」という対比がある。これがどのような対比かも、比較的すぐにわかる。それを「伝統的な農業/農業経営・商品の生産としての農業」などと抽出するのにはもう一つ、ハードルがないわけではないが、できないことでもなかろう。

 だが文中に頻出する重要なキーワードは明らかに「時間」だ。これがどのような対比を形成するか?

 それは上の対比とどう対応しているか?


  • この村が日本で一番

 対比はわかりにくい。対比がわかりにくいことが内山節の文章のわかりにくさだ。それでも読み進めていくと「ローカル/グローバル」という対比が見つかる。

 これはどのような対比なのか?


  • 南の貧困/北の貧困

 対比は題名に示されているように「南/北」だろうか? もちろん違う。「南/北」は類比・並列であって、上の三つの文章の対比のように「対立」ではない。重ねることはできない。「本来的な必要/新しい必要」「必要/需要」などの既に授業で考察した対比も、結論から言えば、上の問題とは重ならない。もちろん「相対/絶対」でも「主観/客観」でもない。これらはそれぞれ別な問題を論ずる上で設定された対比である。

 今回の比較読みで問題にしたい対比は「貧困にならない/貧困になる」である。

 これは言われてみれば当然だろう。この文章全体の「問い」は「なぜ貧困は生ずるのか?」だったのだから。だが、盲点に入っている可能性が高い。本文中では目立つ形で対比的には表現されていないからだ。

 これはどのような対比なのか?


 これは「富裕/貧困」という対比ではない。

 「貧困」は「二重の疎外」によって起こる。どちらの「疎外」が問題なのか?

 もちろん「貨幣への疎外」だ。「富裕/貧困」という対比は「貨幣からの疎外」を問題としている。「への疎外」が起こっているか否かが対比されるべきなのだ。


 実は上の四つの文章の対比は左右の向きを揃えてある。

 それぞれの対比がどのように同じ「問題」を論ずるための対比なのかを考えることでとりあえず思考は進む。

最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。


2021年2月22日月曜日

南の貧困/北の貧困 10 福祉

 さて「福祉」がどうだと言っているのか?

この社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され排出された矛盾の、第二次的な「手当て」であり「救済」であるという構造は、この「福祉」という領域を、基本的に傷つけられやすいものとしている。

 「外部化され排出された矛盾」は前項から「貧困」のことを指している。「福祉」は「第二次的」な「手当て」だから「傷つけられやすい」という。

 「傷つけられやすい」も比喩である。「地平」「離陸」「翻訳」「パラメーター」などに共通して、わかりにくいと感じる理由の一つが比喩表現が使われているということだ(「精神的貴族主義」もそうだった)。

 この「傷つけられやすい」は直後の

危機の局面にはいつも、「削減」や「節約」や「肩代わり」や「自己負担」や「合理化」の対象として議題の俎上に載せられる

 のことだ。先に比喩がきて、後でその説明がくる。「排出物」と「外部化」もその順番だった。だからわかりにくい。

 だが見田的には、そうした比喩で「何だろう?」と、読者の注意を喚起しておいてから説明をする、というレトリックのつもりなのだろう。こうした論理についていければ、こうした表現もそれなりに美意識に訴えるのだ。


 さて、「福祉」は「二次的」だという。言い換えは?

 「消極的」だ。「福祉」は「消極的な定義しか受けていない」。

 したがって「傷つけられやすい」。つまり「二次的」で「消極的」なものだから、すぐに減らされてしまう、といっているにすぎない。


 だから結局「福祉」がどうだというのだ?

 そこまでの論旨とどう接続しているのか?


 ここは南の貧困について「政策として方向を過つ」で考察したことと結びつけよう。

 どのように?


 「貧困」が「二重の疎外」に起因するものであることを認識しないということは、「貨幣への疎外」を見ずに「貨幣からの疎外」だけを見るということだ。つまり「貧困」を単に金がない状態としてしか定義づけないということだ。

 そうした定義による「過」った政策とは、「貨幣からの疎外」に対する、対症療法的な「開発」や「支援」だと先に述べた。

 「福祉」は北の貧困における、この「対症療法的な」施策なのである。

 お金がない人にお金をあげよう、と言っているのだから。

 こうして、「貧困」が南でも北でも同じ構造において生じていること、そしてそれに対する政策に問題があることを指摘する論理は一貫している。


 読解の目標は常に、まずは自分一人で読めること、である。その先に、そこで論じられている問題について自分なりに意見を持つとか別の問題に応用する、というようなことが求められるかもしれないが、とりあえず授業であれテストであれその後の人生においてであれ、まずは一人で読めることが必須だ。

 だから「わかる」ために何を考えるべきかも自分で粘り強く考えるべきなのだ。

 そうはいっても、授業はせっかく皆が集まっているのだから、議論を通じて考えを交換するために、ある程度は理解度を揃えた方が良い。そのために考えるポイントを示したり、ヒントによって誘導したりする。あるいは問いを投げかけたりもする。

 だが本当は「問いを立てる」とか、対比的に考えるとかいったメソッドを活かして、それぞれに自分で納得できるまでじっくり考えるべきなのだ。

 考えさせたい。


 今年度の授業もあとわずか。

 最後は「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をつなぐ論理を見つけ、それを現代の我々の問題として捉え直す。

南の貧困/北の貧困 9 必要を需要に翻訳するパラメーター

 以上の論理展開を把握した上で152頁下段から153頁上段までを通読してみよう。最初にはちんぷんかんぷんに思えた論理が、こんなふうに込み入った文脈で表わされていることが、何とか読み取れるようになっているはずだ。

 そうすると、最初にはやはり難解だった次の一節も、その勢いで読みこなせる。

それはシステムの排出物である。つまりシステムの内部に生成されながら外部化されるものである。

 システムは「対応しない」=「関知しない」から、貧困は「外部化される」=「排出される」。

 これが「排出物である」という名詞化された比喩になっているからわかりにくいのだ。文脈と論理をたどっていけば、難しいことを言っているわけではないのに。

 システムは貧困を生むが、救済はしない。


 そこで登場するのが「福祉」だ。

 このキーワードも、文中に登場するまでに、まず「政策的『手当て』」という比喩で語られ、「失業保険制度」という具体例を経て、抽象化される。

  • 比喩  手当て
  • 具体例 保険制度
  • 抽象語 福祉

 こういう対応関係を把握することが必要なように、「現代の情報消費社会のシステムの、原理上の矛盾に対応する、「福祉」という補完システムによる手当て」といった表現が、スッと腑に落ちにくいのは確かだが、次のような表現上のつながりがあることは読み取らなければならない。

  • システムにとって原理的に関知するところではない
  • 現代の社会のシステムの原理上の欠落補充する
  • システムの、原理上の矛盾に対応する、「福祉」という補完システム
  • 社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され排出された矛盾の、第二次的な「手当て」
  • システムの矛盾補欠する

 「原理的」と「原理上」のつながりがわかれば「欠落」が「関知するところではない」の言い換えであることがわかり、さらに「矛盾」と言い換えられていることが「外部化され排出された矛盾」で確認される。

 つまり「福祉」はシステムが「関知しない」=「欠落・矛盾」=「貧困」に対する「補充・補完・補欠」なのだ。


 読み方、考え方のこつがわかれば、こうして読み進められる。

 次のような一節も。

必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することであるが、特別な資産を保有するのでない限り、労働する機会か能力の欠如は、この翻訳するパラメーターの欠如にほかならないからである。

 見田宗介には、本当にいい加減にしてほしい。こんな言い回しをする必要がどこにあるのか。だがまあできてしまうとやりたくなるんだろう。美意識を共有すれば快感なのかもしれないが、ここまで伝わりにくくていいのか?


 とりあえず「必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することである」を解釈しよう。先の対比の考察では「市場の需要に相関」より「人間の必要に対応」の方が重要だったから、「需要」の方を考えなかったが、今度は看過できない。

 「市場として存在する需要」とは何だったのか?


 「人間にとっての必要」とは、個人個人がそれを欲しているところの「必要」だ。その集合が「市場として存在する需要」なのか?

 そうではない。皆が欲しがっている、だけでは「需要」ではない。

 皆の「必要」が「市場」を形成するということは、そこに売買が成立するということだ。

 つまり欲しい物を買える人がある程度の規模で存在しているという状態が「市場としての需要」がある、ということだ。

 「必要を需要に翻訳するパラメーターは貨幣を所有することである」は、逆に言えば「お金がなければ必要を需要に翻訳できない」と言っているのだから、つまり、「お金があれば物が買える(お金がなければ物が買えない)」と言っているに過ぎない。


 「労働する機会か能力の欠如は、この翻訳するパラメーターの欠如にほかならない」は「働いていなければお金を持っていない」だ。ただし「特別な資産を保有しているのでない限り」だ。働かなくても金を持っている少数の例外に一応言及しているのだ。


 続けて言うと「物を買うにはお金がいるが、働いていない人はお金を持っていない」だ。

 これが、「からである」なのだから、以下の理由になっているということだ。

「労働する機会のない人々」と「労働する能力のない人々」という実際上の(福祉の)対象規定は、現代の社会のシステムの原理上の欠落を補充するものとして、完璧に論理的である。

 どういう「論理」か?

 「原理上の欠落」は先述の「システムは人々が金を持っていなくても関知しない」だ。つまりシステムは「貧困」に「対応しない」ということだ。

 対応するのは「福祉」であり、その対象は働いていない人だ、と言っているのだ。当然だ。働いていない人はお金を持っていない人である。だから彼らにお金を与えることが「福祉」なのだ。「完璧に論理的である」というのは当たり前のことだと言っているだけだ。


 結局、この段落(153頁下段)全体は、

  • 「福祉」の対象は「働いていない人」だ。
  • 物を買うには金が必要だが、「働いていない人」には金がないからだ。

 と言っているのである。

 言っていることは、あまりに当たり前のことだ。そう思って読み返してみてほしい。あまりに呆気なく、それだけのことを言っているに過ぎないことに驚くだろう。

 驚いてほしい。


南の貧困/北の貧困 8 対応/相関

 「必要/需要」という対比によって明らかにしようとしているのは何か?


 この文章は、大きく言えば「貧困はなぜ起こるのか?」について述べている。だから「本来的な必要/新しい必要」という対比によって明らかにしたいことも、そのまま展開していけばそこに辿り着く。そのための一つの前提を導くための対比である。それは確認したのだった。

 同様に「必要/需要」も、やがて貧困が起こる機制(=仕組み)に辿り着く。

 そのための論理の筋道を見つけることがここでの目標だ。


 そして「言いたいこと」の最後は「だから貧困が起こる」であるはずだ。その事を忘れず、そこまでの論理展開をたどらなければならない。

  どうすればいいか?

 まず、問題の二文を、「システムは」を主語とする「~ではなく、」型の一文に言い換えてみよう。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

            ↓

現代の情報消費社会のシステムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。


 これは単なる構文の変換操作だが、こうした操作を、潜在的にであれ、論理操作において自然に行えることが、解釈の助けになる。

 「対応していない」はその後の文脈で何と言い換えられているか?

 「関知しない」である。

 システムは「需要」に「相関」する。だが「必要」には「関知しない」のである。


 「だから?」と問いながら小さな結論を確認していくことで論理展開を進めていく考察方法もある。

 一方で、結論から迎えにいくこともできる。論理は、両方から接点を探っていくのが有効だ。

 「だから貧困が起こる」という結論にいたる直前の論理展開と思われるのは、本文のどこか?

 「~関知するところではないという落差の中に『北の貧困』は構成されている。」というくだりだ。

 「関知しない」は「落差」を生み、それが「北の貧困」を生んでいるのだ。


 「落差」とは何と何の「差」?

 こう聞くと、「本来的な必要/新しい必要」だとか「必要/需要」だとか考えたくなるのは授業の展開上尤もではあるが、論理的ではない。「金持ちと貧乏」という珍妙な答えも各クラスで出てきた。貧乏は既に「貧困」なのであって、金持ちと貧乏の落差によって貧困になるのではない。金持ちとの落差によって貧乏なのだとしたら、それは「相対的」ということだ。

 何と何の間に「落差」があると「貧困」になるか?

 小学生でもわかる、と言うと皆、素直に考える。

 「必要なお金」と「持っているお金」の「落差」である。

 次の一節は、それを言っているのだ。

システムがそれ自体の運動の中で、ますます複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない必要を生成し設定しながら、必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではないという落差

 前半は「必要なお金」の水準が高いことを言っている。これは前の「本来的な必要/新しい必要」の対比から得られた結論だ。

 「ながら」は並行の助詞ではなく逆接の接続助詞。「必要は高い水準に設定されるけれども」の意味。

 そして後半「必要に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではない」は「持っているお金」がどうだと言っているのか?


 対比されている対立項目を結論に結びつけるには、先ほどの一文の語順を変えると良い。

現代の情報消費社会システムは、人間の「必要」に対応するのではなく、市場の「需要」にしか相関していない。

 よりも

現代の情報消費社会システムは、市場の「需要」に相関するだけで、人間の「必要」に対応していない。

 という方がわかりやすい。

 この「対応していない」が「対応は関知していない」に言い換えられるわけだ。

 これは「保障しない」くらいのニュアンスだと考えればいい。

 人間の「必要」を保障しない…。

 「保障」は「保証・補償」との同音異義が問題になりやすいが、基本的には「障害から保護する=困らないように守る」という意味だ。つまり、必要を満たすだけの「持っているお金」を供給することなど「保障しない=関知しない=対応しない」のである。


 システムは「必要」を満たすため高いお金が要るよう「地平」をつり上げる。だがそのお金の供給は保障してくれない。

 これはまさしく「貨幣への疎外」の上に「貨幣からの疎外」があるということだ。

 「北の貧困」もまた「二重の疎外」に拠るのである。

 

2021年2月18日木曜日

南の貧困/北の貧困 7 必要/需要

 情報消費社会における「必要」の地平は、差異化によって「常に更新されてゆく」。北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だった。

 だが「『贅沢』のすすめ」の「浪費/消費」の対比に対応する対比を「南の貧困/北の貧困」から探した折に、「本来的な必要/新しい必要」ではなく、その隣の行の「必要/需要」を挙げた者も多かった。

 ではこの対比は何を意味しているのか?


 付せられた形容が手がかりにはなる。

 「人間に(とっての)必要/マーケットとして存在する需要」だ。

 だがその言葉の意味を説明していくだけでは、その意味が「わかった」とは思えないはずだ。「人間にとっての必要」と「マーケットとしての需要」という表現は、それなりに「わかる」。わからないほど難解な表現ではない。だが両者を対比的に並べることによって何を言いたいのかを捉えないと、この部分が「わかった」とは思えないのだ。

 対比を用いるのは、何かを明確にしたいからだ。だから「必要/需要」という対比が何を明らかにするための対比なのかを考える。

 だがにわかにはその意図は読めない。


 これは「本来的な必要/新しい必要」の変奏だろうか?

 あるいは「主観・相対/客観・絶対」の?


 「主観・相対/客観・絶対」という対比は「新しい必要」の「地平」の高さが「客観・絶対」的であることをいうための対比だ。「本来的な必要」が「主観・相対」的なわけでもないから、上の二つの対比軸は全く別の位相にある。

 「必要/需要」という対比はまたさらに別の対比軸に沿って配置されている。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

 上の文では「本来的な必要/新しい必要」という対比は「であれ」で接続する「並列」だ。だがそこまでの論は、やはりこれを「対立」と見なすことで進んできたのだ。

 そのうえで、この一節は、語順を変えて「既に見たように現代の情報消費社会は、本来的な必要であれ新しい必要であれ、人間にとっての『必要』に対応するシステムではない。マーケットとして存在する『需要』にしか相関することがない。」と並べ替えてしまえば明らかなように、「本来的な必要/新しい必要」が「人間にとっての必要」とまとめられているのである。その上で、それと「需要」が対比されているのである。


 そしてさらに「必要/需要」は「ではない」で挟まれているのだから、明らかな「対立」的対比項目だ。

 では「必要/需要」という対比によって何を明らかにしたいか?


2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 6 常に更新されてゆく水準

 「幾重にも間接化された充足」について考察するために、國分功一郎「『贅沢』のすすめ」を援用して、何が間に挟まっているのかを考察した。

 我々と「物」との間を、「メディア」を通して「他者」の欲望が乱反射した「観念や意味」=「情報」が隔てている。

 「幾重にも間接化された」のイメージとしてこれが適切だと考えられるのは、見田がこの前後の文脈の中で「情報消費社会」という言葉を再三使っているからだ。「貨幣」が間に入るというのは南の国でもそうだし、「流通経路」の重層化による「間接化」が問題だとしたら、おそらく「資本主義社会」「市場経済社会」という言葉を使っているはずだ。「必要から離陸した欲望を相関項とする」という表現も、「物」が我々の手に届くまでの物理的な「間接化」のことよりも、「メディア」による「情報」の付加を意味していると考えられる。


 さて、これで何が明らかになったのか?

 「幾重にも間接化されている」からどうだというのか?

 このブログではそれを疑問として明示したが、自分で文章を読んでそれを意識するのはなかなかに難しい。

 どんな問いだったか?


 「北の貧困」の考察を始めるところで掲げた疑問は「なぜ北の国の必要の地平=水準は高いのか?(10倍あっても足りないのか?)」だ。答えは出ただろうか?

 つまり「幾重にも間接化され」ているから「高い」のだ。間に入るものが少ない方が安いであろうことは道理だ。

 「貨幣」が間に入ることについては南の国々でももはや「貨幣への疎外」によって同様の状態になっている。それより「10倍」であることの理由を今は問うているのだ。

 もちろん「資本主義社会・市場経済社会」も地平=水準を高く「つり上げ」るには違いない。「流通経路」が「重層化」すれば、それだけ中間搾取がはたらいて、コスト分が価格に反映する。そもそも「資本主義」は利益を生み出すために地平=水準を「常に新しく更新」する。

 では「情報消費社会」において、なぜ地平=水準は「常に新しく更新されてゆく」のか?


 「消費」は「観念や意味」を消費しているのだ、というのが國分功一郎の定義だ。

 ここに丸山圭三郎「ロゴスと言葉」を応用しよう(「懐かしい」とか「忘れた」言うな。今年度のことだ)。

 「意味」とは何か?

 「ロゴスと言葉」において、言葉の意味とは、まずは「カテゴリー」のことだと説明されていた。だがそれではまだここに応用できない。

 「カテゴリー」は何によって生ずるか?

 「分節化」による。近づいた。では「分節化」とは何か?

 「ロゴスと言葉」の結論は、言葉の意味とはカテゴリーであり、カテゴリーとはそれとそれ以外のものを分節すること、つまり差異化によって生ずる、というものである(「Water/non-water」という差異化)。

 つまり「差違」が「意味」を生むのだ。

 「情報」とは「差違」である。デジタル情報とはonとoff、1と0の違いだ。

 このことは國分功一郎が述べている何の例と対応しているか?


 「モデルチェンジ」と「個性」だ。前のモデルとは違うこと、他人と違うこと、いずれも、差違が享受すべき意味=価値を生んでいるのである。

 とすれば、「必要の地平」は「常に更新されてゆく」しかない。更新という差異化こそが「意味」を作り出すからだ。差異化されないものは単なる「物」でしかない。それは「本来的な必要」の対象だ。


 こうして、「幾重にも間接化された」必要の地平=水準は「常に更新されてゆく」。だから北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だ。


南の貧困/北の貧困 5 浪費/消費

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比が「浪費/消費」であることは明白だ。

 一方「南の貧困/北の貧困」においてこれに対応する対比は「本来的な必要/新しい必要」である。

 この対比も、一旦それについて考え始めると自明のように思えてしまうが、自分で探そうとすると案外に見つからない者も多かった。

 「本来的」も「新しい」も、文中に何度も使われながら、明らかに並んで登場するのは153頁の「本来的な必要であれ新しい必要であれ」という箇所だけだ。

 この書き方は「並列」ではあるが「対立」ではない。「対比」は多くの場合「対立」だが、頻度は少ないものの「類比」や「並列」の場合もある。


 これら二つの対比はどのような意味で対応しているのか?


 授業で「浪費/消費」の違いは何かと問うと、「限界がある/ない」の違いだと答える者がどのクラスでも多かったが、それは副次的な結果だ。まず國分功一郎はどのような意味で「浪費/消費」という使い分けをしているかを捉えなければならない。

 どのような意味で「浪費/消費」を使っているか?


 「浪費/消費」を分けるのは「物/観念や意味」という対比である。

 「浪費」=「物」の享受はやがて満足をもたらすから「限界がある」が、「消費」=「観念や意味」の享受は満足をもたらさず「延々と繰り返される」=「限界がない」。

 これを「本来的な必要/新しい必要」という対比と重ねてみる。

 「本来的な必要」とは「物」への欲望だ。食べたい・着たい…。

 「新しい必要」とは「観念や意味」への欲望だ。それは「必要から離陸した欲望」だ。だから「延々と繰り返される」=「限界がない」=「常に新しく更新される」。


 そこではどのような意味で「幾重にも間接化され」ているのか?

 ひとまずは「観念や意味」が間に挟まっている、とも言える。

 さらに我々が「消費」する「観念や意味」はどのようにして生まれるのか?

 ここは、先に「流通経路」について想像したように、具体的に想像できることが文章の解釈に必要だ。抽象的な言い回しは、それに該当する具体例を思い浮かべられなければ「わかった」と思えない。


 國分功一郎が「消費」を説明するために挙げているのは「グルメブーム」の中で食事をするという例だ。

 ここで「観念や意味」を生んでいるのは?

 「宣伝」である。これをさらに抽象化して言うと?

 口コミやSNS、インターネット、テレビや雑誌などのマスメディアなどである。これらを総称して「メディア」と呼ぼう。「メディア」とは「媒体」という意味だ。つまり媒介する=間に挟まっているものである。

 単なる「物」はメディアを通じて「観念や意味」を身にまとう。我々が必要とする=欲望するのは、そのような「物」である。


 「貨幣」が挟まるとことと「観念」が挟まることを並列してみるように、「流通経路」と同じ程度の抽象度として「メディア」という概念を想起することはきわめて重要である。

 上に、具体例を思い浮かべられることが「わかった」と思えるために必要だと書いたが、さらに具体例を想起したうえで、そこから抽象的な把握をすることが「わかる」ということである。抽象化のためには具体例がいくつも想起されていなければならない。

 具体と抽象の往還ができれば「わかった」と思える。


 さらに、「メディアを通して間接化される」という事態をさらに抽象化してみよう。

 メディアの向こうにいるのは「他者」である。誰かがそれを美味しいと言っていたのだ。誰かが「いいね」をクリックしていたのだ。誰かがそれを推していたのだ。

 メディアによって付加される「観念や意味」は常に「他者の欲望」である。欲しいのは私に必要な物ではなく、誰かが必要としている物だ。誰かが欲しがっているから、それは私にとって欲しい物になるのである。

 我々の「必要」は「他者」によって「間接化」されている。


 我々の「必要」は、狩猟採集的「直接的充足」から見ると、これでもかというほど「間接化」されている。

 「貨幣」「流通経路」「観念や意味」「メディア」「他者」…。


2021年2月16日火曜日

南の貧困/北の貧困 4 幾重にも間接化された充足

 厄介な「部分」を、まずはゴリゴリと解釈していこう。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。


 上の前半は北の国における「貨幣への疎外」だ。そのまま「貨幣への疎外を通して」と読み替えることができる。「依存する」「強いる」は「疎外」の「支配される」「本来のあり方を失った」感じを表わしている。

 問題は後半「本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に」だ。ここがすんなりと腑に落ちると感ずる読者は多くないはずだ。


 まず「様式」や「の上に」が鬱陶しいが、後回しにする。

 「充足」という名詞も、上記の「疎外」同様に解釈の妨げになるので、「必要は幾重にも間接化されて充足する」と、動詞化して考える。

 「間接化」は「直接」を対比的に想定する。「直接充足される」こととの対比で「間接的に充足される」という事態を想像しよう。

 「必要」が「直接充足される」状態?

 例えば狩猟採集生活。

 狩猟採集によって食べ物を手にすることに比べ、間に何が挟まるというのか?

 まずはいうまでもなく貨幣だ。お金を出さなければ「充足」されない。

 だがまだ「幾重にも」がわからない。


 想像してみよう。山の中の木から林檎をもいで食べる。これが「直接的な充足」だとする。それに対して、現代の消費社会で実際に我々がそれを口にするまでにどのような経路が想定されるか?

 まず、我々は八百屋であれスーパーであれ、小売業者から林檎を買う。その前に配送業者が店舗に品物を運んでくる。農協からかもしれないし仲買業者からかもしれないし、巨大商社かもしれない。農家から我々の手元に林檎が届くまでに、既に様々な売り買いを経ているし、その間には配送業者も介在している。

 さらに林檎を育てるためには、様々な農機具や農薬・肥料などが必要となる。

 我々が林檎を食べるまでには、「幾重にも」生産流通システムが介在して「間接化され」ているのである。

 工業製品はさらに複雑だ。原料→部品→製品→商品と、「幾重にも間接化されて」初めて我々の手に届く。


 これで「物価が高い」理由は説明されただろうか?

 間違ってはいない。だがそれが「常に新しく更新されてゆく」理由についてはまだ不十分である。

 どう考えたらいいか?


 ここで國分功一郎の出番だ。

 冬休みの宿題では、「『贅沢』のすすめ」と「南の貧困/北の貧困」の何頁が関連するか? と問うたが、実はこれは152頁でも153頁でも良い。この辺り一帯を考えるのに参考になるのである。

 対応を見るためには共通の語を手がかりにするのが常套手段だが、もう一つ、今回は対比の考え方を用いる。

 「『贅沢』のすすめ」の最も重要な対比は何か?

 「南の貧困/北の貧困」のこの部分の対比は何か?


2021年2月15日月曜日

南の貧困/北の貧困 3 「必要」の新しい地平

 「南の貧困/北の貧困」の主旨はこれで捉えられた。「貨幣への疎外」にこそ本論の中心がある。

「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外をまず視界に照準しなければならない。

 これは国際関係・貧困・途上国支援などの問題を考える上できわめて重要な視点で、例えば小論文などを書く際にも有用な視点だ(平たく言えば「使える」)。


 応用してみよう。

けれども「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、このあたりまえのことを理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。

 ここでいう「過ち」とはどのようなものか? どのような「方向」へ「過つ」のか? 方向を過った「政策」とはどのようなものか?


 「二重の疎外」を「理論の基礎として立脚していない」というのだから、つまり最初に「貨幣への疎外」があることを視野に入れず、「貨幣からの疎外」に対する施策しか考えていないということだ。

 具体的には?

 金がないことが問題なのだと考えるから、手っ取り早いのは財政支援であり、長期的にみても発想しやすいのは開発である。たとえそれがSDG’s的な理念に則っていようとも、それは対症療法的な対策であり、却って「貨幣への疎外」を強めることになるかもしれない。「目に見えない幸福の次元を失う」悲劇は拡大する。


 じゃあどうすべきかは、言わば社会科(現代社会・政治経済)の分野で、国語科的には、まずは文脈をこのように把握することが必要だ。


 「全体」は捉えた。となれば次は「部分」である。

 「貧困」のコンセプトは「南」の国々でも「北」の国々でも同じように「二重の疎外」だという(152頁下段)。

 すると、北の国の人々も、お金を持っていなければ貧乏なのは当然として、その前に「貨幣の疎外=貨幣を必要とする生活に投げ込まれる」という事態が起きているということになる。

 当然だ。北の国の人々も、お金がなければ生きていけない。

 ただし南の国と違うのは次のような事態である。

東京やニューヨークでは、巴馬瑤族の一〇倍の所得があっても実際に「生きていけない」。これは隣人との比較や不平等一般の問題ではなく、絶対的な必要を充足することができないということである。つまりその生きている社会の中で「普通に生きる」ことができない。これは羨望とか顕示といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。

 いきなり言い回しが難しくなる。無用に難しい。

 だが少なくとも、「~ではなく」で示される対比が2回使われているのは意識すべきだ。

  1. 隣人との比較や不平等一般の問題/絶対的な必要を充足することができない
  2. 羨望とか顕示といった心理的な問題/社会のシステムによって強いられる客観性・構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性

 まず1は、後項の「絶対的」に対比されているのだから、前項の「隣人との比較・不平等の問題」とは「相対的」な問題ということになる。

 2でも後項で「客観性・絶対性」とあるから、前項「心理的な問題」は「主観性・相対性の問題」だと捉えられる。「羨望(うらやましいなあ)」も「顕示(どうだうらやましいだろう)」も「心理的」であり、それはすなわち「主観的」で、かつ他人との比較の問題だから「相対的」なのだ。

 心理的=主観的/客観的

     相対的/絶対的

 つまり、北の国で生きるための「必要」は、主観的・相対的にではなく、客観的・絶対的に高い「地平」に設定されているというのだ。

 この「地平」にまたも目が眩んでしまう。が、続く文章中に言い換えがある。

 何か?

 「水準」である。これがわかれば、つまり北の国で生きるには高い金が要る、と言っているに過ぎないことがわかる。

 それだけのことを言うのにああした言い回しをしてしまうのは、別に見田が意地悪であるとか衒学的だとかいうのではなく、恐らく天然なのだ。


 貧困は、まずこの「必要」の水準をシステムが決め(貨幣への疎外)、それに貨幣が足りない場合(貨幣からの疎外)に起こるのだから、北の国の貧困も、やはり「二重の疎外」によるのだという趣旨はわかる。

 問題は、なぜ北の国の「必要」の地平=水準は高いのか、だ。

 単に物価が高いということか?

 152頁下段からの「北の国」編では、この問題を解説した部分に、さらに一層の難解な言い回しが登場して、読者に目眩を起こさせる。

現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常」な成員の条件として強いることを通して、本来的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、必要の常に新しく更新されてゆく水準を設定してしまう。

 このような一節を読んで、すんなりと頭に入る人がいるという想定がどうかしている。見田宗介にしてみれば、半ばは美意識でもあろうし、やさしくわかりやすい文章を書くのが面倒だということでもあろうが。

 さてどうするか?

 ひたすら力押しでゴリゴリ考えていくという手もある。もちろんここだけを見ていないで、前後を参照しつつ、だ。

 だが、ここは國分功一郎の「『贅沢』のすすめ」を参考にして考えを駆動しよう。

 どうしたらいいか?


南の貧困/北の貧困 2 貨幣への疎外

 「貨幣への疎外」?

 おそらくこの表現は、にわかにはピンとこないはずだ。

 もちろんこれは「貨幣からの疎外」とセットで理解されなければならない。

 そしてこれらの表現は、単に文中から言い換えを探すことで、ひとまずは考察が先に進む。

 どこか?

貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。


 「二重の疎外」→「貨幣からの疎外・貨幣への疎外」と遡って辿れば「金銭を持たないこと」が「貨幣からの疎外」で、「金銭を必要とする生活の形式の中で」が「貨幣への疎外」だとわかる(実際には後の部分との整合性で「わかる」のだが)。


 とりあえずどういう意味かはわかる。それなのに「貨幣への疎外」という言葉に違和感を覚えるのはなぜか?

 「疎外」という言葉はサ変動詞だ。つまり「疎外する」か「疎外される」を名詞化している。そしてその前に接続する格助詞は「~を疎外する」か「~から疎外される」だ。

 だから「貨幣からの疎外」は「貨幣から疎外される」として解釈できる。

 だが「~への疎外」だと「貨幣へ疎外する」なのか「貨幣へ疎外される」のかがまずわからない。しかも何が何を「疎外」しているかもわからない。


 「疎外」という言葉は一般的には「仲間外れ」というような意味で使われる。「友達が話している話題に入っていけずに疎外感を感じた」などのように。

 とすると「貨幣からの疎外」は、貨幣から仲間外れにされているという、貨幣を擬人化した表現として理解することもできる。

 あるいは「関係が断たれる。縁遠くなる」くらいに捉えてもいい。貨幣との関係が断たれ、貨幣と縁遠くなるのだ。

 いずれにせよ、つまりは金のない状態である。


 一方「貨幣への疎外」は、直後で次のように言い換えられる。

貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(149頁)

 どの部分を「への」と読んだらいいのか?


 上の表現は、後に「GNPを必要とするシステムのうちに投げ込まれてしま(う)」とも言い換えられる(151頁)。

 「への疎外」は「投げ込まれる」と受身に言い換えられている。とすれば「疎外される」の方か?

 となれば主語は「人々は」だろう。

 では「疎外する」の主語は? 人々は何によって「疎外された」のか?

 「システムのうちに投げ込まれる」というのだから、システムの外にある「自然」や「共同体」からか?

 「自然」や「共同体」が人々を仲間外れにしたのか?

 なんだかピンとこない。


 ここは「疎外」という言葉の独特な使い方に馴染む必要がある。

 例えば例の『現代文単語』では「疎外」を「仲間外れにすること」としたうえで、「人間が本来あるべき姿を失った状態を意味する場合がある」と付け加えてある。広辞苑には「人間が自己の作りだしたもの(生産物・制度など)によって支配される状況」とある。

 これはヘーゲルやマルクスの思想において使われる意味合いだ。つまり独特のニュアンスを帯びた哲学用語なのである。

 「疎外」は「疎外する」という動詞で使うのだから、誰か疎外した主語があるように思われる。「投げ込まれる」にしても、誰かが「投げ込む」のだろうから、その主語は想定できるはずだ。

 だがその主語は、自分のいる場所から人々を「仲間外れ」にして、システムの中に「投げ込んだ」わけではない。

 そうではなく、人々がシステムの中に「投げ込まれ」て、そこで「疎外される」=「人間が本来あるべき姿を失う」のだ。だから「疎外する」の主語を想定するならば、「システムが」だ。

 「への」はこの「投げ込まれる」という移行を示し、「疎外」は移行によって起こる事態を指している。上の引用の「貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」あたりが、こうした意味での「疎外」のニュアンスを表現している。

 だから「貨幣への疎外」は「人々が貨幣を必要とするシステム投げ込まれてそこで疎外される」もしくは「人々が疎外されるようなシステム投げ込まれる」といった意味合いなのである。


 「疎外」のこのような意味合いについては、「倫理」や「政経」、「現代社会」でも触れられるはずなので、意識しておくといい。もちろん「現代文」で評論を読むときにも、その「疎外」がこういった意味合いなのかどうかは注意しておく。


2021年2月9日火曜日

南の貧困/北の貧困 1 問いを立てる

 「南の貧困/北の貧困」の筆者・見田宗介は、日本を代表する社会学者。この文章が収められた『現代社会の理論』は、本校図書室の新書コーナーにある。

 現代社会の貧困について、本質的なモデルを提示していて、考える上で汎用性のある、とても「使える」文章だ。例えば社会学とか国際関係学などで貧困や開発や国際貢献がテーマとなる小論文に、この考え方を援用できる。


 だが正直、不必要に捻った言い回しが多く、読みにくい文章でもある。

 となれば手がかかるのは「部分」だ。

 そのためにはまず「全体」を把握しておく。


 そのために使えるメソッドは?

 「問いを立てる」である。

 というわけでこれが冬休みの課題だった。

 「『である』ことと『する』こと」に比べて、「南の貧困/北の貧困」では、これはそれほど難しくない。

 ところが、提出された課題を見ると、このメソッドの注意事項を、実行の際には忘れている人が多かった。自覚はあるだろうか?


 年度当初にブログでこのメソッドを紹介した際、「イエス/ノーで答えられる問いではなく、疑問詞を使った問いにする」という注意事項を掲げておいた。

 それなのに「『二重の疎外』という貧困のコンセプトは正しいか(適切か)?」というような形にした人が、意外なほど多かった(初期の提出者の半分がそうだった)。

 このように問いを立てると、ほとんどの場合、答えは「正しくない(不適切だ)」となってしまう。「正しいのか?」というのは、疑問と言うより反語なのだ。答えが決まっている。

 確かにこれが筆者の主張とか文章の主旨を適切に表わしていると感じられる場合もある。「南の貧困/北の貧困」もそうだ。

 だが今は文章把握のためのメソッドとしてこれをやっている。その場合、反語的な「~か?」は問いと答えのセットが持つ情報量が少ないのだ。

 例えば「『二重の疎外』という貧困のコンセプトはなぜ不適切か?」などと、疑問詞を使った問いの形の方が、思考の整理のために有益だ。


 それよりも、この文章ではシンプルに「貧困はなぜ起こるのか?」でいい。「貧困のコンセプトはどのようなものか?」でもいい。

 この問いに対する簡単な答えは「貨幣からの疎外貨幣への疎外という、二重の疎外に因る。」だ。

 さて、そのように「全体」を把握して、最初に考察に値する「部分」は何か?

 言うまでもなく「貨幣への疎外」である。