それぞれの文章では何が「問題」とされているか?
「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?
そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。
以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。
- 「である」ことと「する」こと
この文章における問題を端的に表わす一語は?
「倒錯」の一語が想起されてほしい。
「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?
「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。
「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?
それが他の文章とどのように重なるのか?
- 不均等な時間
何が問題かはわかりにくい。
だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。
- この村が日本で一番
こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。
さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。
- 南の貧困/北の貧困
ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。
だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。
そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。
「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。
南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?
これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?
そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。
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