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2021年4月23日金曜日

羅生門 11 主題

 以上のような授業者の結論は、先にも言ったように、ここまで述べてきたような問題設定に基づく論理の積み重ねによるものではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が表しているものを何とか言葉にしようと考えているときに不意に、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはそのせいだったのだと気づいたのだった。それが「観念としての悪」「幻想としての悪」という表現として形になった時、「行為の必然性」に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が拓けた。

 だから「なぜ勇気が出なかったのか?」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題だ。

 だがみんながそれを意図的に考えるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにする必要がある。「なぜ引剥ぎをしたのか?」が解き明かすべき謎であることは考えてみればすぐに皆に共有される問題でもある。最終的な到達地点がどこなのかを見据えた上で、そこにいたる道筋をみんなで辿る。

 授業とはそうしたものだ。結論の提示や、その理解が重要なのではなく、そこに到る道筋を、周りの皆と、ひたすらテキスト情報を検討し、論理を構築することで辿る過程こそが学習なのである。


 二点つけ加える。

 「羅生門」の読解においてはこれまでも、下人の頬の「面皰」が解釈の対象とされてきた。このことはいくつかのクラスで問題点として提案された。

 この「面皰」は、いうまでもなく象徴だ。面皰という具体物は、何らかの抽象概念を表わしているとしか読めない。

 これをどのような象徴であると解釈するかは、「羅生門」という小説をどのような小説であると解釈するかということと整合的でなければならない。

 「エゴイズム」論によれば、面皰が象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人は良心を棄てて、悪にはしったのだ。

 そして先の結論によれば、面皰はそのまま「空疎な観念」(=幻想)の象徴だということになる。

 頬に面皰をもつ下人は「空疎な観念」に支配された人間であり、その象徴たる「面皰」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。

 また「面皰」を「若さ・未熟さ」の象徴であると見なす解釈も古くからある。これは「エゴイズム」論とセットだったから、つまり、古い道徳を棄ててエゴイズムを受け入れることこそが人間の成長だといっているのである。

 だが「空疎な観念」こそ「若さ・未熟さ」の特徴だ。現実を正しく認識せずに幻想の中で希望を抱いたり絶望したり憤ったり悲しんだりすることこそ若者の特権だ。

 その意味で、面皰から手を離すことは、やはりある種の成長を意味しているのである。


 現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」はどう受け取ったらいいのか?

 その不確定な未来にひらかれた余韻を味わう以上に、徒らな解釈をすべきだとは必ずしも思わない。

 ただ、「下人の行方」に待ち受ける「黒洞々たる夜があるばかり」の闇もまた、幻想の潰えた後の苦い現実認識を示しているのだろうか。


 引剥ぎという「行為の必然性」は、それを容認する「老婆の論理」によって保証されるわけでも、「極限状況」の深刻化によって保証されるのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。

 これはいわば、空疎な観念による幻想から覚めて卑小な現実を認識する話、である。


2020年9月24日木曜日

ロゴスと言葉 9 象徴の森という名の文化のシミュラークル

 「ロゴスと言葉」という文章は、ソシュールの言語論に基づく様々な言語論―たとえば「ものとことば」や内田樹の文章―の中でもとりわけ読みにくい。

 とはいえ全体的な論旨の把握や、他の言語論との比較の中で、最初はわからなかった箇所も、それなりに読めるようになってきたはずである。

 が、依然としてすんなりとは腑に落ちない箇所もあるだろう。

 最初に予告した「細部を読む」を最終段階で迎えるにあたって、取り上げたい箇所はいくつもある。最終的な応用課題として、今までの考察を元に、厄介な表現を説明できるようになっているか、チャレンジしてみたいところではある。


 とりわけ厄介なのは以下の一節である。

彼女は次第に象徴の森という名の文化のシミュラークルに入っていく。繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。


 まず「象徴の森という名の文化のシミュラークル」を説明してみよう。

 どういうことを言っているかはもうそれなりにわかっているはずだ。

 問題は、どう説明するか、である。


 この表現を分析するには、「象徴」「文化」「シミュラークル」それぞれに込められた意味合いを捉えるとともに、「象徴の森」という比喩や「名文化」の二つの「の」のニュアンスを捉える必要もある(所有格の「の」には様々な意味・用法がある)。形容句の係り受けの構造もあやふやだ。まったくもって厄介な問題が凝縮した表現だ。


 「象徴」はこのブログでも頻出。というか、すべての文章の読解で「象徴」について考えてきた。「金」「少年」「手」「虎」「雪」…。

 「象徴」とはそれをそれという具体物として捉えず、抽象概念として捉える認識のことだ。「手」は「世界との媒介の手段」、「虎」は「強さ/孤独/制御できないもの」、「雪」は「聖なるもの」…。

 言葉はすべて、特定の具体物を指すのではなく、概念を表している。「机」という言葉は目の前の学習机を指しているのではなく、「机」という概念を表している。一つの机を指して「机」と言ったとしても、その机は「机」という概念の一つの具体的現れとして捉えられている。

 ということは、言葉で世界を捉えるとは、概念として世界を捉えるということである。

 我々が言語を通して見ている世界にはそのような「象徴」が溢れている。それが「森」という比喩で表されている。我々はそうした「象徴」に囲まれている。


 「シミュラークル」は「シュミラークル」ではない。英語の「シミュレーション=模倣」の方が馴染みがあるだろうか(これも「シュミレーション」ではない)。

 教科書の註ではわかりにくいが、とりあえず「コピー」のことだと考えておこう。「本物ではない」という意味だ。

 我々は「象徴」に囲まれている。つまり我々が見ているのは個々の具体物ではなく、概念なのである。言葉を使ううちに、少女は現実の具体物=オリジナルではなく、概念=コピーの「森」の中に入っていく。


 「文化」は第3回「ものとことば」比較の中で考察した。

 本文の趣旨を捉えるためには対比の考え方が有効であり、それはそのまま説明のためにも有効である。

 「象徴」「シミュラークル」も対比で捉えて以下に列挙する。

    動物/人間

 感覚・運動/言語

    現実/虚構

   具体物/象徴

    自然/非自然

    本能/文化

 オリジナル/コピー

      /シミュラークル

 子供は言葉を使うことで左のような世界観から右のような世界観の中に「入っていく」のである。

 対比項目を列挙したら、それを繋げて考える。

 それぞれの項目をどのような順番で繋げてもいい。例えば左辺の項目を繋げて「動物現実世界のオリジナル具体物を感覚で捉える。それは本能に根ざした自然な捉え方だ。」というように。

 右辺を繋げてみよう。

 人間は言葉を通して、世界をそのままでなく、コピーされた象徴として捉える。それは生物にとっての自然ではなく、人間が作り上げてきた文化的シミュラークルに生きているということだ…。


 この対比がわかれば、次の一節も理解できる。

この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての〈モノ〉ではなく、文化の中でのみ意味をもつ〈コト〉として存在し始めたと言えるだろう。(102頁)

 「ゲシュタルト」が鬱陶しいがそこに惑わされずに、これも「ではなく」型の文型で対比を表わしていることを見てとる。左辺を否定的に提示し、右辺を主張しているのである。

 するとこれも、上の対比軸上に並べられる。

 〈モノ〉とは「人間としての種」=動物が捉える具体物であり、〈コト〉は「人間」が言語によって捉える概念的表象である。


 「シミュラークル」には、註によると「オリジナルが失われた」というニュアンスがあるという(『現代文単語』には残念ながらこの重要なニュアンスが説明されていない)。

 ボードリヤールが広めた「シミュラークル」という概念の重要性は、一般的に皆が信じている「オリジナル/コピー」という対立を無効化するところにある。我々が生きている世界は「コピー」だが、といって「オリジナル」がどこかに存在するわけではないのだ。

 丸山がここで「シミュラークル」という言葉を使うのは、左辺のような「オリジナル」な世界すら実は想像の産物でしかなく、我々は右辺のようにしか世界を捉えられないということを強調しているのである。


 また、この考え方は前回説明した「言語の恣意性」にも重なってくる。

 「言語の恣意性」とは「言語は現象と独立した構造をつくっている」ということだった。そしてここでいう「現象と独立した構造」とはそのまま「象徴の森という名の文化のシミュラークル」に他ならない。

 シミュラークルは現実世界と独立してるがゆえに恣意的である。コピーはオリジナルの手を離れて自由なのである。


2020年7月17日金曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、妹がみぞれを採ってきてくれと頼むにあたっての想定としては以上でいいと思う。だが注意すべきことは、あくまでこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らないということだ。
 また、仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図に気づいたこと自体のせいでもある(またしても入れ子状!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。
 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
この一節から、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとるのは自然である。
 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹にとって切実でありさえすれば、どんな依頼でもよいということになる。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからである。
 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。
 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのである。

 こうした指摘は、少数ながらいくつかのクラスで提出された。貴重な指摘である。

 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ。
 「死に水」「末期の水」とは、今しも死にゆく者の最期に飲ませる水のことだ。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭う。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だというから、仏式の葬儀の作法である。
 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」となっている。
 その雪は、どのようなイメージを帯びたものとして描かれているか。
 具体的に詩の中の表現を挙げよう。
  • 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん
  • わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの
  • この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ
  • あんなおそろしいみだれたそらから/ このうつくしい雪がきたのだ
  • 聖い資糧
これらの形容は、この「雪」にどんな印象を与えるか。
 そのまま詩中の語を使えば「うつくしい」である。
 だがそれとともに、「まつしろ」「そらからおちた」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。
 「雪」はいわば、聖なるものの「象徴」である。
 それが、妹の死を浄化するように感じられるのである。
 読者にも、そして兄にも。
 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。

 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことすらも、それが兄を救うための妹の気遣いであったと言っているのである。
 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた雪のイメージが兄になにがしかの救いをもたらしているという詩の論理は捉えておきたい。

2020年7月10日金曜日

山月記 6 結論に向けての再検討

 虎を「孤独」を象徴するものとしてみる、あるいは「強さ」の象徴としてみる。これらは李徴の性格を特徴付けるものとしても、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の表れとしても、可能であるとともに適切な想定だ。
 だがそれは「なぜ虎なのか?」を納得させるものではあるが「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。
 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題である。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業である。

 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。

 まず、虎の象徴性についての再検討だ。
 虎のイメージは「孤独」と「強さ」という二面だけで言い表せているだろうか?

 「猛獣」と表現される虎は、確かに「強さ」の象徴ではある。冒頭の「名を虎榜に連ね」の「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。つまり「科挙の合格者」=「優秀な者」を表わす比喩である。
 だから李徴が虎になることは、李徴にとって、かつての栄光に満ちた自分に戻ることを意味するのだ、という解釈もあり得る。つまり、実は李徴は虎になりたかったのだ(これは「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに対して、かつて或る生徒が答えた解釈だ。大いに感銘を受けたのだった)。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きがわからない。

 確かに虎は「強さ」の象徴ではある。虎という猛獣は、他人に恐怖を与え、他人から避けられたり他人を傷つけたりする存在だ。そして李徴はもともとそのような人物である。
 つまり彼は人間であった時から虎だったのだ、と言ってもいい。

 だがそう言ってしまうと「なった」ことの説明がつかない。
 では?

 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。
 だが「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」と見なすには不適当である。それは「比喩」だ。
 では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものである。
 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見るとき、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとってすら脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。
 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
 もちろんこれらの「性情」が李徴を虎にしたのだ。だから「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」ことができれば良かったのだ。
 だがそんなことができるのなら、はなから悲劇は起こらない。
 それよりも「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という精妙な性格造型に、不可避的に暴走を引き起こすメカニズムが設定されているのではないか?

 このメカニズムは「悪循環」という言葉の印象によく似ている。
 これを説明するために再帰的」という言葉を使おう。悪循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましからざる傾向が強まっていくことだ。
 「再帰的」とは何か?

 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
 だが、「自己言及的な繰り返し」がなぜ「悪循環」を生じさせるのか?

 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそうした意味を表わす。また結果も原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
 いよいよ考察は最終段階である。
 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?

2020年7月9日木曜日

山月記 4 「虎」の象徴性

 李徴はなぜ虎になったのか?
 この問いに明確に答えることが「山月記」読解の目標だ。
 まずは文中から探し当てた三つの候補について一次的な検討をした。
 さらに、結論に至る経路をさまざまに探ってみる。
 同時にそれは、結論を妥当であると見なすための条件でもある。

 まずは問いに含まれる二つの側面の一方「なぜ虎なのか?」である。
 これはつまり、「虎」が何を象徴しているか、という問いである。
 「象徴」は「ミロのヴィーナス」で既習である。具体物で何らかの抽象概念を表わしているのである。
 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、先の「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」の表れとしてみることができるか、を検討する。

 各クラス、グループワークで話し合わせると、それぞれのグループで多様な「象徴」の候補が出る。もちろん似たような概念・観念にグループ化されるような表現もあるが、とりあえず、バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の表現が提出される。

 虎をどのような象徴と見なすか?
 バリエーションは様々あるとはいえ、どこのクラスにも共通して挙がる表現も勿論ある。また、いくつかの言葉はおおよそ二つの系統に分類できる。
 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージである。虎は群れを作らないで単独行動する動物である。
 もう一つは「強さ」のイメージである。虎は百獣の王である。これはバリエーション豊かにさまざまな言葉で言い表せる。
 この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。
 「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが「虎の威を借る狐」の故事では虎を「百獣に長たり」と表現している。アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ。ついでに言えばライオンはサバンナで群れている。虎は一頭で茂みに身を潜めている。李徴の性質を示す形象として虎はまことにふさわしい。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。
 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージと「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。
 つまり「なぜ虎なのか?」は容易に納得できる。
 だが「なぜなったのか?」は充分に説明されていると言えるだろうか?
 これが「おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまった」と言うのだが、そのメカニズムは明らかだろうか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?
 とはいえこれも、上の仮説から答えることができないわけではない。
 「独り」がいけないのなら、もっと人と交われば良かったのだ。
 プライドの高さがいけないのなら、もっと謙虚になれば良かったのだ。
 確かにそれができれば李徴の不幸は解消するだろう。
 だがそんな身も蓋もない反省で李徴の悲劇は回避することができたのだろうか?
 それができなかったことでただちに「虎になる」という極端な事態に至ったのだと納得すべきなのだろうか?

2020年6月26日金曜日

ミロのヴィーナス6 -「美しく聞こえる」「厳粛な響き」

 いよいよ最終回だ。
  • 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
  • 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
 これらは、詩的で、ちょっといい感じの表現として、もはや読み流しても良い「部分」でもある。だが自らの心をごまかさず省みれば、やはりにわかには「わからない」一節であるはずだ。
 これも分析し、説明を試みよう。問いは次の通り。
  • 「機械とは手の延長であるという比喩」はなぜ「美しい」のか?
  • 「恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた述懐」はなぜ「厳粛な」のか?
 この問いに答えるのは、きわめて難しい。
 そもそも「美しい」とか「厳粛」とか言われて、共感できているわけではないからだ。ここでは読者が自らの内省によって「美しさ」や「厳粛」の理由を探ることはできない
 したがってここでも、この文脈で筆者が「美しい」「厳粛」ということの論理(すじみち)を読み取るしかない。

 ここで追うべき論理とは何か?
 上の二カ所を含む一文は「だから」で始まっている。「だから」「美しい」「厳粛な響きを持っている」ということは、つまり「美しい」「厳粛な」ことは、前の部分が根拠となっているということである。
 前の部分とは、前回の考察対象である、手が「世界・他人・自分」との「交渉」を「媒介」する「手段・方式」だ、という内容である。
 そしてそこには「実体と象徴の合致」があるというのだった。
 このことを真摯に受け止めれば「美しい」「厳粛な」ことは自ずと腑に落ちるはずである。

 だがここでも、腑に落ちればおしまい、ではない。適切な言葉を探して、他人の共感を得なければならない。
 そのためにたどるべき論理がもう一つある。
 この一文に続くのは「どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。」という一文である。
 つまり「美しい」「厳粛な」という形容のニュアンスには「自然」「人間的」だという意味合いが含まれているということである。
 さらにここに対比を用いる。
 すなわち「美しい/美しくない」「厳粛な/厳粛でない」の右辺に「不自然」「非人間的」を補助的に重ねて見るのである。
  • 美しい/美しくない
  • 厳粛な/厳粛でない
  •  自然/不自然
  • 人間的/非人間的
 ここまで準備して、さて、手が象徴的意味をもっていると、なぜ「美しい」「厳粛な」のか?

 「機械とは手の延長である」という表現を見て、マジックハンドや高枝切り鋏のようなものをイメージするのは、間違ってはいないが貧困な発想である。シャベルカーのようなもの? まだまだである。スマホまで拡張しよう。
 「機械とは」という主語をいきなり考えると行き詰まってしまう。まず「手とは」を考え、機械をその延長だと考える。
 ここに前回の「手は世界・他人・自分との交渉・媒介の手段・方式である。」というまとめが使える。そしてこれが「実体」であるばかりでなく「象徴」でもあるのだ。
 つまり機械を、単に世界・他人・自分に対して物理的な作用を与えるモノとして「実体」的にのみ見るならばそれは「冷たい」、文字通り「機械的」なモノでしかない。
 だがそれを世界・他人・自分に働きかけようとする人間の意志の「象徴」であると見るならば、そこには世界の中で生きようとする「美しい」生命の輝きが感じられてこないだろうか?

 「美しくない」をどんな言葉で形容するか。さしあたってそのまま「機械的」と言い、「冷たい」と言い換えた。「硬い」「油臭い」だっていいかもしれない。
 手の延長であると考えるとき、機械は「機械的・冷たい」=「不自然・非人間的」なのではなく「美しい」のである。

 「恋人の手を初めて握る幸福」を「厳粛ではない」=「非人間的」表現で形容するなら?
 「やわらかい」「すべすべしている」「あたたかい」などが、「実体」としての感触の形容に留まっているのならそれは「厳粛」に対比される「厳粛ではない」である。
 さらに「厳粛」ではない言い換えを考えよう。「軽薄な」「生々しい」「いやらしい」…、さらに「非人間的」なニュアンスで言うならば「動物的」と言ってもいい。

 それを、「実体」を超えて相手との絆の「象徴」としてみたときに「厳粛」という形容がふさわしい行為に感じられるのである。

 一見したところ考える道筋の見えない「詩的」な表現にも、実は論理が隠れている。
 大きな論理の流れをたどり、問題の部分を含む因果関係を把握した後、問題の部分では「対比」を論理の手がかりとして、そのニュアンスを適切に示す表現を発想する。
 こうした手続きによって、一見、曖昧で捉え所の無い表現を理解したり説明したりすることができるようになるのである。
 今回は「人間的」の対比「非人間的」に「機械的」と「動物的」が図らずも登場したのだが、対比について最初に説明した回の例←がここで再登場したのは思いがけなかった。

ミロのヴィーナス5 -「実体と象徴の合致」

 二段落の「量と質」「芸術の名において」は2回目の授業で解決したからいいとして、さて三段落。
 教科書ではちょうど1頁に収められた最後の形式段落は、含みが多く、わかったようなわからないような表現が連続して、説明の課題として面白い箇所が多い。詩人である清岡卓行の面目躍如たる文章である。
 段落全文引用する。
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? ぼくはここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっときりつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。そして、例えばこれらのことばに対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
 どこが最も「わからない」か?

 思考が浅ければそこら中が「わからない」と感じられてしまう。真剣にならないと「どこ」かを挙げることはできない。自分のわからなさを自覚するにも集中した思考が必要だ。
 「アイロニー」なども気になるが突っ込まない。だが脚註で「皮肉」と訳されているのは、ここでは不適切だ。この文脈では「逆説」という訳語をあてるべきである。「逆説」と訳していいことがわかればここまでの考察の通りである。
 また「トルソの美学」は考えて解釈できる部分ではないので、触れるにとどめる(註)。
 取り上げるに値するところはいくつもあるが、次の三つに絞る。
  • 実体と象徴のある程度の合致
  • 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
  • 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
 「人間存在における象徴的な意味」も気になりはするが、「実体と象徴とのある程度の合致」の考察の中で自然と解決するはずだ。

 まず「実体と象徴のある程度の合致」は、この前後の文脈を整理するところから始める。
 文脈の整理には主述の確認が重要である。これはメソッドの一つとして立てても良いほどに重要な認識だ。文脈が混乱して感じられたら、まず主語と述語を確認せよ…。
 ここではこれを応用して、1文内の主述と言わず、この表現を含む前後4文(上記下線部)をひとまとめに考え、主部と述部を見定める。
 主語は? 「手」である。
 述部は? 「交渉の手段である」と「関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである」が言い換えられて並列されている。
 「交渉」と「(関係を)媒介する」、「手段」と「方式」の近似性は見易い。
 何との「交渉・媒介」か? 必要な修飾語を確認する。
 「世界との、他人との、あるいは自己との」である。
 一文にまとめてみる。
手は世界・他人・自己との交渉・媒介の手段・方式である。
 こうしたテーゼに、問題部分が挿入されている。これが「実体」でもあり「象徴」でもある、というのである。
 どういうことか?

 ここで言っていることが腑に落ちるためには、どういう事態を指しているかが思い浮かんでいる必要がある。
 そこでまず例を挙げる。それが「実体」だ。
 「世界」「他人」「自己」との「交渉」について、三つそれぞれの例を挙げたい。「象徴」はそれらを一つにまとめる。

 例が挙がりやすいのは「他人」との「交渉」である。
 対象が人間であるような、手の行う行為を表わす動詞は、そのまま例となる。
 握手する・抱き寄せる・殴る…。

 「世界と交渉する」もしくは「世界との関係を媒介する」の具体例は厄介だ。
 例えば「電子メールを送る」などという例を挙げる者が多い。
 これは何との交渉を手が媒介しているのか?

 「世界」がこの文脈でグローバルな、ワールドワイドな「世界」を意味していると考えるのはピント外れだ(がそのような意味で考えてしまった者は呆れるほど多い)。そんなふうに考えたら、世界中のそれぞれの身近な「世界」で一生を終える「世界」中のほとんどの人の手は、一生涯「世界」との交渉など経験しないことになる。
 そうではない。手は万人にとって「世界」との「交渉の手段」なのだ。そういう意味で「世界」を捉えなければならない。
 手が交渉の手段であるような「世界」とは、我々を取り巻く外界全てである。目の前、手の届くここが既に「世界」である。
 それと「交渉する」とは、そこに物理的な力を加えて何らかの変更を起こしたり(動かす・形を変える)、何らかの情報を得たりする(感触や温度を知る)ということだ。それを「媒介」する「手段・方式」が手だというのである。
 触る・押す・突き放す・引き寄せる・倒す・起す・叩く・撫でる…。

 つまり「電子メール」の例は、それを送るために操作している機械(パソコン・スマホ)との「交渉」なのだ。機械が「世界」なのだ。メールの送られる「相手(=他人)」との「交渉」はメールがしているのであって、手がしているわけではない。

 「自分」はやっかいだ。何のことを言っているのか、解釈の余地が広い。
 むろん上の「世界」や「他人」に対するのと同じ「交渉」を自分に対してもするかもしれない。自分の身体を撫でさすったり、叩いたりもする。髪をなでつけ、服を着、髭を剃ったり化粧をしたり…。
 また、「世界」や「他人」との「交渉」は、そのまま「自分」というものを作り上げていくことだとも言える。哲学的に言えば、「自己」とは外界の認知に対する反射として形成されるのである。「世界」を知ることによって、「他人」と関わることによってのみ「自分」という意識は形成されていくのだ。

 そして「手」は上に挙げたような「交渉」「関係の媒介」を行う主たる「手段」である。上の動詞は全て「手」が行う「実体」的行為である。

 あるクラスで「世界」との「交渉」の例として「演奏する」「絵を描く」「文章を書く」という例が挙がった。これらは「世界」を「世界的ピアニスト」などと使う時の「世界」だと解釈として挙げた例なので、その意味では誤っているのだが、上のように「外界」という意味で解釈しても、適用できる例ではある。楽器や筆との「交渉」に手が使われているのである。
 また、「演奏」は「他人」に聴かせるのだろうから、その意味では「握手」などと同じ「他人との関係を媒介する」の例だと言うべきだが、これはまたすぐれて「自分」との「交渉」の例かも知れない。
 芸術は自分の内なるものを外に表現する活動である。とすれば、手を使って「外界」と「交渉」することこそが、「自分」の内なるものを自分自身の前に曝け出すことになるのである。自分の無意識と意識を手が「媒介」しているのである。

 さてこうした「実体」に対して「象徴」とは?
 上に挙げた行為は全て、ある物理力の行使であるとともに、それをしようとする人間の精神の現れでもある。ペンを持ち上げようと思ってペンを摘まんだり握ったり持ち上げたりするのは、それをしようとする人間の意志の発現である。人間のあずかり知らぬところで発生した単なる自然現象ではない。
 つまり手によって行われる行為は、人間が「世界」と「他人」と「自分」と関わろうとする意志・精神を「象徴」しているのである。
 例えば「握手」は、相手の手に対する物理的な接触であり圧迫だが、同時に相手との友好関係「象徴」的に表わしてもいる。この、実体でもあり同時に象徴でもある両義性を指して「合致」と言っているのだと考えられるし、これらが全ての場面で完全に合致しているわけではないから、「ある程度の合致」なのだろう。
 また、こうした両義性は考えてみれば当然だから「もちろんある」のだろうが、いずれにせよすっきりと読者の腑に落ちる表現とは思われず、厄介な表現だ。
 筆者の思考にとってはどれも必然的で自然な表現なのだろうが。

註 「トルソの美学」
 美術に明るくないと「トルソ」がピンとこない。教科書脚註で「首や手のない胴体だけの塑像」などと説明されているだけだ。これを見て、考えて、わかったりはしない。
 授業者の現在の理解では「トルソの美学」は「量塊」としての胴体に美を見出しているのであり、腕や首はむしろ無くても良いという捉え方である。一方筆者は「無い腕」にこそ美を見出している。「有る胴体」か「無い腕」か、という注目点によって「トルソの美学」と筆者の考察は違う方向に向かっているのである。

2020年5月28日木曜日

少年という名のメカ 6 -この小説をどう読むか

 3回のプレ講座が終了しました。
 3回とも、とても楽しく、充実した時間でした。そしてとても疲れました。
 疲れたのはいつもと勝手が違うことに緊張があったせいで、慣れれば普段の授業と変わらなくなるのでしょう。おそらく。
 そして、楽しさや充実感は、これまでの普段の授業でいつも感じてきたことです。
 この楽しさや充実感を感ずるには、「当事者になる」必要があります。授業者である私はもちろん、カメラやマイクをオンにして対話に加わってくれた人は、そうした「当事者」としての充実感を得たはずだと信じています。
 今後の教室での授業では、単純に受講者全体の人数が減り、全員の姿が互いに見えていて、少人数でのグループワークが行われ、と、みんながそれぞれ「当事者」になる条件が増えます。
 その時さらに充実するかどうかは、みんなのそれぞれの参加への姿勢次第です。

 さて、前半組の講座では第2回で「解決」してしまった問題について、まず確認しましょう。
 この小説は、「反『少年』」たる「メカ少年」の設定によって、逆に「少年」という存在を浮き彫りにしていると考えられます。
 またこの小説は、既存の様々なメディアで提供される、ファンタジーやSF的な「物語」の特徴を備えています。その、いかにも、といった手触りはあまりにあからさまです。
 そういった「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているのでしょうか?
 S君・Mさんはこれを 「物語」における「主人公」 と表現しました。
 それを受けてYさん・H君は、この小説は、「物語」における「主人公」というのは、実際にいたら、周囲の人にとってはとても迷惑な存在だという皮肉を言っている小説だ、と解釈しきってみせました。
 つまりこの小説は、「メカ少年」という設定によって逆説的に「少年」というものの存在を浮き彫りにすることを通して、「物語」における「主人公」というものについて逆説的に語っていると言えます。
 逆説的?
 紛らわしい。「メカ少年」を描くことが「少年」を描いていることになるのだ、という事態がまず「逆説的」です。そしてもう一つ、重要なことはここで描き出される「少年」が「逆説的」な存在なのです。
 どういう意味で?
 「逆説」を説明するにはまず「通説」です。「主人公」は肯定的に捉えられるべき存在だ、というのが「通説」です。自由だったり特別だったり勇敢だったりして、人々から愛されたり憧れられたり感謝されたりする存在としての「主人公」像に対して、ここで描かれる「少年」は、その身勝手さが人々に迷惑をかけ、傷つけます。「通説」に反する、そのような「主人公」像が、それもまた真実でありそうだと思わせるところが「逆説」的なのです(以上、「逆説」についての復習)。

 さて、最初にこの講座のテーマとして掲げたのは、この小説をどう読んだら良いのか? でした。
 この問いの問題意識がそもそもわかりにくいはずです。といってこれをどういう問題なのかと説明するのは得策ではありません。実際に読んでみて、それがどのような読み方なのか、と振り返る方がいいはずだ、と考えました。

 最初に考察したのは、序盤の会話の分析を通して、小説中の情報を読者がどのように受け取っているか、その思考や感情の流れを、スローモーションのように振り返ってシミュレートしてみることでした(第1回講座)。
 もちろん実際にみんながそのように考えたり感じたりしていたわけではありません。あくまでシミュレーションですから、言われてみればそんなふうに考えたり感じたりすることはありえる、と思えればいいのです。

 次に、我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、末尾の一文によって変更されることで構築される、新たな「世界観」の可能性について考察しました。
 少年という名のメカの目的を知り、特許制度や経済活動の存在する世界の広がりに思いを馳せ、メカの作り手や買い手を想像する…。
 しかし実はこのような考察は、おそらく上に掲げた授業の目的にはたどり着きません(思いがけない形でたどり着くかもしれませんが、少なくともこちらはそれを想定していません)。これはあえてみんなの思考をミスリード(誤誘導)したのです。
 このような読解は、なぜ「この小説をどのように読んだら良いか?」にたどり着かない(だろうと想定される)のでしょうか?

 比較対象に、一昨年の授業で生徒が語った解釈を紹介しました。
 コンピュータ・プログラムが稼働し続けていると、不要なデータやバグが蓄積されていくことがあります。あるいはウイルスと呼ばれるソフトがプログラムの一部を書き換えてその機能に不都合を与えたりします。それに対して修正プログラムとかワクチン・プログラムなどと呼ばれるプログラムを走らせることで、バグをリセットすることがあります。
 この小説で描かれているのは、そうしたコンピュータの内部で展開しているプログラムの振る舞いを擬人化・具象化して描いているのだ、というのです。「少年」によって傷ついた心が「バグ」で、メカ少年がワクチン・プログラムです。
 面白い思いつきです。

 また、第2回講座で前半組から出された解釈を前回紹介しました。
 人々の心のケアも、テクノロジーの進歩によって解決しようとし、かつそれを商品」化する、我々の社会が「象徴」されているのだ、という捉え方です。

 そして上に示した解釈です。

 さらに、もう一つの読み方の可能性についても示唆しました。
 「反少年」としてのメカ少年によって明らかにされる「少年」は、確かに「『物語』の主人公」的な姿に見えます。ファンタジーの主人公「あるある」です。
 それだけでしょうか?
「無邪気に振る舞い、わしらを散々幸せな気持ちにさせておきながら、ある日…目の前から消えちまう。…その後はとんと音沙汰なしだ。絵葉書一つ寄越したためしがない。」「唇の端にスープをつけたままにして、わたしの母性にアピール(する)」「服を泥だらけにしたり、ボタンを弾き飛ばしたり(する)」「肉体的にも、精神的にも成長(する)」…。
これらの描写も単に「ファンタジー物語の主人公」としての「少年」を描いたものなのでしょうか?
 S君・Tさんがすぐに気づいたように、これらの描写から浮かび上がる「少年」は「親の目から見た子供」です。ここに表現されるのは、自分に向ける親の愛情に満ちた眼差しにも、そして子供が手を離れてしまう親の淋しさにも無頓着な子供の姿です。
 また、少女は「少年」について次のように語ります。
彼じゃなくて、彼のサポートについたわたしの方が怪我をするの。わたしが少年を守るはめになるの。…わたしが怪我をするたび、ものすごく謝ってくるんだけど、それだけなの。根本的に変わらないし、もうなんか疲れちゃった。
ここで語られる「彼」は、Yさんが言うように、まるで「女性から見た男性」のように見えないでしょうか。恋人である男の身勝手さに振り回されながらも離れられない女。
 老夫婦の語る「少年」は幼い子供で、少女の語る「少年」はむしろ「青年」と言っていい年齢にも感じられます。
 ここにはどちらも、相手に対する愛情と、それ故に相手の自由奔放さに傷ついてしまう心情が描かれています。つまり「少年」に対する「大嫌い」は「大好き」の裏返し、「可愛さあまって憎さ百倍」なのです。
 これは、たとえ読者が親世代でなくとも、恋愛経験が乏しくとも、ありそうだと感じられるように意図的に描いていると言えないでしょうか。

 整理します。

1.我々が小説を読みながら予期している「世界観」が、「特許出願中。」という末尾の一文によって変更されることで新たに構築される「世界観」の可能性について考察を深める。

2.「あるコンピュータ・プログラムが稼働し続けることによって蓄積されていくバグをリセットするワクチン・プログラムを、稼働中のプログラムの中に走らせている」という世界を擬人化・具象化して描いている、と解釈する。

3.全てがテクノロジーの進歩によって機械化されていく「現実」が象徴されている、と解釈する。

4.「物語」の主人公というのは、本当にいたら周囲の人々にとっては意外と迷惑なものだ、という逆説を皮肉として描いている、と解釈する。

5.老夫婦の語る「少年」は「親にとっての子供」を象徴し、少女の語る「少年」は「女性にとっての恋人の男性」を象徴していると考え、その愛憎半ばする心情を描いている、と解釈する。

 これら5つの読み方は、どのようにこの小説を読んでいることになるのでしょうか?

 ここからはそれぞれの講座で、この5つをどのように分類したり分析したりすることが可能か話し合ってもらいました。この話し合いはどちらもとても有益でした。
 ここはやはりグループワークで、全員が自分の分析について語るべき問題です。
 ここには特に固定的な「正解」があるわけではありません。もちろんその分析の妥当性は検討されるべきです。しかしさまざまな観点からさまざまな分析が可能です。
 もちろん1~5の中から正解を選ぶ必要もありません。どれも認めた上で、それらの違い、関係を考えるのです。

 例えば「作者の意図」について考えるかどうかで分類できるのでは? というアイデアがどちらの講座でも出ました。
 確かに「作者」を視野に入れることで、作品から距離をおいて、その小説世界を俯瞰することが可能になります。物語の世界に入り込んでしまえば、その外側にいる作者の姿は見えなくなってしまいます。
 そのような傾向が最も顕著なのは1でしょう。
 1の方向に考察を進めるのはミスリードだと上で述べたのは、1は、あくまで物語の「世界」の内にとどまって、そこを探索するような考察だからです。そのような探索は、第2回講座でやったように、それなりに楽しくなることもあります。また、小中学校の国語の時間にありがちな「この時の登場人物の気持ちを考えてみましょう」的な授業は、基本的にこの層に視点を限定しています。
 とはいえ、1~5のどれもが、それぞれに作者の意図を同時に捉えることも可能ではあります。1のような読み方でも、そのように世界を構築し、そのように物語を展開し、そのように人物を描く作者の意図を考えることはありえます。小中学校の国語の時間でも「気持ち」発問とともに、「作者は何を言いたかったでしょうか」などとよく訊かれたはずです。

 とりあえず1に比べて2~5が、作品の物語の層から離れて、小説を俯瞰しようとする視点に立っている、というのは確かです。
 その上で2~5をさらに分類するなら、紹介した2,3と、講座中で意図的に展開した4,5のような読み方の違いはあると言えます。
 2,3の解釈は、作品世界全体の構造を、別の何かと重ね合わせることができるのでは、という仮説です。どちらも授業者自身の解釈ではないので検討が不十分ですが、本当にそうだと言うためには、作品の細部や構造自体から、ある特徴を抽出し、それが、重ね合わせようとする対象の特徴と意図的な一致を図っているかどうかを検討する必要があります。
 それを丁寧に行うまでは、これはあくまで思いつきです。面白い、そうかもしれない、とは思うものの、腑に落ちる、という感覚には至りません。まだ。
 一方、4,5の解釈は、小説の細部の特徴から、意図的に方向付けられた小説の「感触」を確認し、それをある作者の意図として想定できないか、と考えています。
 読者が感じるはずの手触りを表現し、確かにそういう感じがする、という読者間の合意のもとに、それが合理性を持つような作者の意図を想定してみよう、と考えているのです。

 小説と何を重ねるか、という点から、別の分類をしてみましょう。
 3と5は、小説内世界と、我々の住む「現実」が重ねられています。
 2と4は、小説内世界と、それぞれ別のバーチャルな世界が重ねられています。
 2のコンピュータ・プログラムの振る舞いは、もちろん現実の物理現象ではありますが、それは我々にとってのリアルではなく、やはりバーチャルな世界でもあります。
 4は、様々なメディアで我々に伝えられる「物語」と小説が重ねられています。しかも、その二つを同じ層で並べているのではなく、「物語」の上の層から俯瞰する視点に小説は立っています。
 その意味で、4の解釈に立つのなら、この小説はメタ「物語」だと言えます。「物語」のパロディなのです。
 そのとき、そうした諸々の「物語」を作っている作者達や、そうした「物語」を享受している我々自身が相対化されます。

 まだまだ分析は可能でしょう。別の分類もありえます。
 とりあえず今回の3回の講座で考察できたのはここまでです。

 後から思いついたことを少々付け加えます。
 H君の言った、この小説の中心はやはり「少年」ではなく、メカ少年が人々を癒やすことの方にあるのではないかと思う、という言葉が引っかかっていたのですが、そこから思いついたことがあります。
 この小説は、過剰なサービスは、そのうちに人を疲れさせるようになり、その時、むしろ何もサービスしないことが癒やしになる、という逆説を表しているのではないか、という思いつきはどうでしょう。「レンタルなんもしない人」が話題になっていることなどをふと連想しました。
 さらに言えば、サービスに疲れた人に対して、さらに何もしないことをもサービスとして提供するという堂々巡りを皮肉っているとか、そうした商魂たくましい様子を戯画化している、などとも言えます。
 そしてこのような社会批判としてみるならば、この論理はこの先授業で読む予定の「南の貧困/北の貧困」とも重なってくる可能性さえあります(まあ今の時点では何のことかわからないでしょうけれど)。
 この解釈は上の3の解釈と同系統の、小説世界を我々の現実と重ねる解釈の一つです。
 この解釈を通番で解釈6とすると、みんなが自由に発言する機会が充分に確保されていたら、いったいいくつの解釈がみんなの目の前に並べられていただろうと考えると、愉しくもなり惜しくもなります。

 「少年という名のメカ」という作品を題材に、その作品世界に分け入りつつ、小説を読むという行為、「小説の読み方」自体をも考察対象にしてきました。
 ブログ開設初期に、教材の読解は、学力向上のためのトレーニングではあるが、それだけではない、ある種の掛け替えのない「体験」なのだ、と書きました。
 特定の文章の解釈を結果として「知る」ことなど、学力向上のためのトレーニングにさえなりません。
 読解は主体的な「行為」です。それだけが実技科目としての国語の学力向上に益するのです。
 だがさらにそれが、一人ではなかなか遭遇することのできないひとつの「体験」として参加者それぞれに感じられることを期待して3回の講座を進めてきました。
 授業者自身には、間違いなく毎回がそれぞれの1回性の出来事の「体験」でした(既に一昨年から長い時間を考察に費やしてきたにもかかわらず!!)。
 そしてこれはどうしたって一人ではできないことなのです。

2020年5月27日水曜日

少年という名のメカ 5 -対比・大きな問い

 「小説」を「物語」としてではなく「小説」として読むためには、メタな視点が必要です。
 そこで、予告の通り、「対比」と「問い」を上げてもらいました。

 「対比」については、たちまち複数の同じ回答が上がってしまったのですが、それはその通り、そうです、こちらの想定通りです。
対比 メカ少年/少年
  この対比から導き出される「問い」もまた、やはり想定通りに上がりました。
問い 「少年」とは何か?
この「対比」と「問い」の関係は、「ホンモノのおカネの作り方」と相似形です。
対比  メカ少年/少年
問い  「少年」とはどのようなものか?
       
対比  ニセガネ/ホンモノのおカネ
問い  「ホンモノのおカネ」とはどのようなものか?
「ホンモノのおカネの作り方」では、ニセガネ作りたちの失敗を通して、「ホンモノのおカネ」とは何かを考えているのだ、と整理できたのでした。同じように「少年という名のメカ」では、メカ少年の存在を通して「少年」という存在を浮き彫りにしているのだ、と考えることができるのです。
 メカ少年は、いわば「反『少年』」です。「アンチ『少年』」です。
 メカ少年の振る舞いは「…したりはしなかった。」と否定形で語られます。それはすなわち、逆にそれをする者としての「少年」の姿を彷彿させるのです。
 「少年」は主(あるじ)によって、おかみさんによって、少女によって、物語の語り手によって、様々に語られます。それはいわゆる「あるある」の楽しさに満ちています。「あるある」ネタは漫才などのギャグのパターンとしても最も有力な様式の一つです。この、いちいち思い当たる羅列がこの小説の面白さのひとつです。

 このように浮かび上がる「少年」とは一体なんでしょうか?

 …と問いかけたところ、後半でS君が「これは『少年』ではなく『少年らしさ』を表しているのではないか」と言ってくれました。前半でもM君が最初から「問い」を「少年らしいとは何なのか?」と表現しています。
 確かに問題は「少年らしさ」です。「少年」はどうやら個体ではなく、「あるある」というのはそもそも複数の個体の共通属性です。それらに見られる典型・ステレオタイプが問題なのです。

 こういうとき、小説の読解においては、こうした「らしさ」としての「少年」をどのような言葉で捉えるでしょうか? という問いに対してはA君が「象徴」という言葉を上げてくれました。Yさんも「『少年』と『メカ』はそれぞれ何を象徴しているのか?」という言葉で「問い」を表現していました。
 そうです。問題は「『少年』とは何の象徴か?」と表現されます。

 少々脇道に逸れると、授業者は「メカ少年」は「反」であることによって「少年」を浮かび上がらせるだけだと捉えていたのですが、「メカ」の象徴性についても問うているYさんの問いに、別のYさんの見解を接続させると、この設定は「この世界で様々なものが自然から機械に移行していく様子と通ずる」と捉えることができます。
 なるほど。人々の心のケアも、機械化された商品、テクノロジーの進歩によって解決しようとする、我々の世界が「象徴」されているのだ、という捉え方は、この小説の「読み方」として、ひとつ腑に落ちる解釈です。

 閑話休題。「少年」です。
 象徴とは、それをそのものではなく、別の何かであると見なす、という約束のことです。「何か」は基本的に抽象概念です。
 ある文脈において、鳩は鳥ではなく「平和」を、天皇はある個人ではなく「日本国」を表していると見なす、という約束が了解されているとき、鳩や天皇は「象徴」です。
 「少年」は何の象徴でしょうか?

 先ほどの「特許出願中。」についての考察において、たびたび、そこまでの「世界観」は「物語」的だ、という語られ方がされてきました。
 これは読者誰もがすぐに感ずることです(感ずることを言葉にして表現できるということが重要なのですが)。
 どのような「物語」と言えばいいのでしょうか?
 メディアの種類で言えば、ゲーム(RPG)、アニメ、小説(ラノベ)、マンガ…。
 ジャンルで言えばファンタジー、SF…。
 様々な設定や描写が、老夫婦や少女のいる世界が、これらのメディアによって語られるこれらのジャンルの「物語」であることを示しています。村の入口にある家にいて、「…じゃ。」という口調で語る、パイプを咥えた老人はどうみてもゲームにおける「村人」です。「エプロンで手をふきふき出てきたおかみさん」「悲しそうな目をした少女」などという形容もステロタイプです。「戦闘機らしき乗り物」などという形容は、その設定の大雑把さを皮肉っているようにも見えます。

 そのように作られる「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているでしょうか?

 さて、後半組では、話はここで終了だったのですが、前半組ではこの問いに対してS君の的確な答えが提示され、それを受けてYさんがあまりに見事にこの小説を解釈しきってしまいました。
 まさかそのタイミングでそのようにこの問題が「解決」してしまうとは思わなかったので、びっくりしました。

 明日、プレ講座も残り1回、後半組ではこの「解決」とその先へ向けて、前半組でももう一つの「解決」へ向けて考察を進めたいと思います。