2020年9月10日木曜日

ロゴスと言葉 3 ものとことば

 問いを立て、要約した。
 これらは、文章の全体を把握しようとする頭の使い方である。
 これまでもやってきたように、読解は、全体の把握と細部の考察が補い合うように進む。では次は細部の考察か。
 この文章ではこれを最後に回す。その前にまずはいくつかの言語論を扱った文章を読んで、言語論の基本的な考え方を把握する。
 「わかりにくい」と感じられる細部の言い回しをいくらこねくり回しても、その文章の内部では自家中毒に陥るばかりで、結局ピンとこないことになりかねない。それよりも、同じ考え方に基づいた文章を読み比べて、同じ考え方が別の表現で述べられているそのバリエーションに触れてから、戻って、その厄介な箇所を考察する方が有効なのである。

 最初に読み比べるのは鈴木孝夫の「ものとことば」である。
 これは1学年で使っていた「国語総合」の教科書に収録されているので、はじめて読むわけではない(ただ、収録部分がズレてはいる)。
 同じ内容を述べていると思われる部分を探し、対応する表現を指摘する。

 最重要箇所は以下の2カ所。

ものとことば
それは、ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめているという見方である。(32~33行)
客観的に存在するものを人がことばによって表現するというよりは、ある特殊な見方、現実の切り方が集約されたものとしてのことばが、わたしたちに、そのような特徴、性質を備えた事物がそこに存在すると思わせると考えるほうが、妥当のようである。(77~79行)

 これと対応する内容を「ロゴスと言葉」から挙げる。

ロゴスと言葉
ロゴスとしての言葉は、すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼り付けるだけのものではなく、その正反対に、名づけることによって異なるものを一つのカテゴリーにとり集め、世界を有意味化する根源的な存在喚起力として捉えられていた(97~98頁)

 これらはいずれも、結論を述べている箇所であり、抽象度が揃っている。
 そして対応が認められる最大の要因は、三カ所とも、文の途中が逆接していることである。「ではなく」または「よりは」によって、その前後を逆接させており、前後それぞれぞれの内容が対応しているのである。
 逆接するということは、その前後が対比されているサインである。筆者が主張したい内容を言う前に、それと対比的な考え方を言っているのである。
 これらに共通する対比を、なるべくシンプルに表現してみよう。


  • ものが先/言葉が先
  • 先に存在するものに言葉をつける/言葉によってものが存在するようになる


 「ではなく」「よりは」などの対比を表わすサインに注目すれば、対比されている二項対立そのものが、二つの文章に共通していることがすんなり腑に落ちよう。

 さらに。

ものとことば
ものとことばは、互いに対応しながら人間をその細かい網目の中に押し込んでいる。(18行)
ロゴスと言葉
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。(101頁)

 ここでは「編目」「網の目」という言葉の共通性が目を引く。
 この二つの文が同じ内容であることを示すために、まずは両者が同じ文型になるように言い換えてみよう。
 述語の能動態と受動態をあわせる。
・ことばは人間を網目の中に押し込む。
・ことばは人間の本能図式に認識の網の目をかぶせる。
両者は同じことを言っていると感じられるだろうか?
 「認識の網の目をかぶせる」という比喩は、そうした「網の目」のフィルターを通して世界を見るような認識の中に人間を「押し込む」ことにほかならない。「網の目」を「かぶせられた(受動態)」人間の認識は「編目」の中に「押し込まれる(受動)」のである。

 さらに、次の一節は目を引きやすく、なおかつ重要である。
ものとことば
ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている。(53~54行)

ロゴスと言葉
世界のロゴス化とは、それまで分節されていなかったマグマのごとき生体験の連続体に区切りを入れて、これを観念なり事物なりのカテゴリーとして存在せしめることなのである。(98~99頁)

 どちらも「切れ目のない」「連続体」に「区切りを入れ」「分類する」という言葉の働きを述べている。
 この働きを何というか?
 差異化・分節である。

 これらの言い回しが二つの文章で似ているのは、つまり元ネタがあるからである。二人ともこの文中ではふれていないが、この元ネタは、この一連の言語論読解で後ほど登場することになる。

 次の文に語られている「虚構性」は重要な概念なので考えてみる。

ものとことば
言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、ものやことの集合であるかのような姿のもとに、人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っているのである。(54~56行)
 主語述語を確認すると「言語は虚構性を持っている」である。あるいは「言語による分節は虚構である」と言い換えてもいい。
こうした内容は「ロゴスと言葉」ではどのように語られているか。

ロゴスと言葉
言語習得によって身につける分節線は、そういう自然の生物的な区切りではなく、まことに非自然的な画定である。(100頁)

 前者の「虚構性」が後者の「非自然的」に対応している。
 ここにさらに、要約過程で「非自然」と「文化」が対応していることにも触れていたことを考えるならば、次のような対比が明らかになる。

    現実/虚構
 本能・感覚/言語
    自然/非自然
    生物/人間
  種がもつ/文化
自存的・実体/関係
    モノ/コト

 こうした対比図は、左辺と右辺それぞれをまとめて通観することが重要である。
 左辺的な認識モデルは「自然界にある実体としてのモノを生物が持つ本能的な感覚で捉える」というものである。
 これに対して、これらの文章が提示しているのは右辺的な認識モデルである。言語による認識は「非自然的で文化的で虚構的」なのである。

 これ以外にも各クラスではそれぞれ何カ所もの対応箇所が指摘された。
 「対応している」と言うためには解釈を要する箇所であり、解釈しているうちに「そういえば対応しているといえないこともない」などと論理がつながってくるのも、国語的訓練として有意義なことだ。
 さらに、こうした読み比べによって、言語論の基礎的な考え方に馴染むことが期待される。
 次の文章でもまた同じような考え方が登場するはずだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿