さらに、山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」を読み比べる。
ここにもまた「差異化」「ラベル」「範疇化(=カテゴリー化)」などの用語が登場する。内容的にも「ものとことば」「ロゴスと言葉」のあちこちを連想させる部分は多い。
だがこの文章を読み比べる時に浮上する最大の問題は、共通点よりは相違点である。
どの一節を読み比べることでどのような相違点が指摘できるか?
ヒトはなぜことばを使えるか
まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。(14~16行)
まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。(20~21行)
ものとことば
ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている(32~33行)
わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。(40行)。
上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。
山鳥 心が先で言葉が後
鈴木 言葉がものをあらしめる
「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」を同じものだと認めていいか?
そちらも比較のために共通する言葉に言い換えてみよう。
鈴木の言う「もの」とは、物理的な存在ではなく、その存在を「もの」として認識するかどうかという問題である。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉に対応している。
山鳥 表象が先にできて言葉が後から貼り付けられる
鈴木 言葉が先にあって表象が後から存在できるようになる
では丸山はどういう立場か?
丸山が鈴木と同趣旨のことを述べている部分については前回指摘した。ただ、全面的に鈴木と同じ主張をしているかというと、それには留保が必要である。
同じ名づけと言っても、カテゴリー自体を生み出す命名作用(世界の分節)のような一次的機能と、生まれた犬に「ポチ」と名づける二次的命名作用(ラベルの貼付)としての機能の二つがあるのである。(99頁7行~)
鈴木孝夫が述べているはたらきは上の「一次的機能」にあたり、山鳥が述べているのが「二次的作用」にあたる。丸山は両方があると言う。
だが「ロゴスと言葉」ではこの「一次的機能」について主として述べているので、鈴木孝夫との共通性が強く感じられるのは間違いない。
3人の文章だけ読んで多数決でもあるまいから、相反する主張がなぜ生じたのか、またそれらの主張についてどう考えるべきか、考察を深めたい。
それぞれの論の根拠は何か?
どのような論理で自らの主張を正当化しているか?
その論理に整合性はあるか?
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