2020年9月20日日曜日

ロゴスと言葉 6 -批判的検討

  鈴木孝夫は自らの立場を〈一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。〉と表現し、〈ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている〉と言う。

 一方、山鳥重は〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉〈まず心があり、ことばがそれを追うのである。〉と言う。

 「言葉=名前」が先か、「ものの認識=観念=表象=心」が先かを巡って、鈴木と山鳥は一見正反対の主張をしているように見える。なぜこんな、あからさまな食い違いが生ずるのだろうか。

 言語学者である鈴木が「言葉が先」と言い、精神・脳神経学者である山鳥が「心が先」と言っているんだな、と考えれば、なんだか図式的にはまりすぎていて、ある意味で腑には落ちるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問が残る。


 議論をかみ合わせることはとても難しいと、どのクラスの議論をきいていても感ずる。

 鈴木は「ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだ」という。

 それに対し山鳥派が、そんな馬鹿な、受け入れられない、というのは実感に照らして無理もないことだ。言葉がなくても犬と猫の区別はできるだろう、どうみても。

 一方鈴木派はそれを受け容れているのである。なるほどそうだと思っているから「言葉が先」理論を支持しているのだから。

 だがこれでは水掛け論である。互いが、自分の感覚に基づいて主張し合っているだけである。といって根拠を言おうと思うと、単にその説を繰り返してしまうばかり。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や反論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。


 例えば、山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後で、必ずタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。自分で作るのか。

 山鳥派はどう答えるだろう?


 一方山鳥派はこう問う。

 「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 授業者の想定している結論は、鈴木説、山鳥説、どちらでもない。

 ただ、どちらかというと山鳥の記述に甘さが目立つ、とは思う。

 上記の様に「表象が先で言葉が後」と言ってしまうと、まるですべての名前=言葉は、それぞれの人間がそれぞれの場面でいちいち作り出したものだとでもいっていることになってしまう。

 だがそれでは言葉が他人同士を媒介するコミュニケーションの道具にはなりえない。言葉とは個人のものではなく、共同体のものである。言葉とは何より、すべての人間にとって基本的に所与の(しょよ=与えられる所の)ものである。我々はこの世に生まれて、既に存在する「言葉」達に次々と出会っていくのである。そういう意味でまさしく「言葉」は「先」にあるのである。


 例えば丸山の「デンシャ」のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。

 山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」という表象を作って、それを「人間」と名付け、「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を作って「人形」と名付けたということになる。さらに「デンシャ」という言葉より前に「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ったということになる。

 これはあまりに高度な哲学的思考である。幼い子供の脳裏に、高度な抽象化思考によってそんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無茶だ。

 しかもそうした表象が生じたところに、折良く「デンシャ」という言葉がもたらされたというのである。

 これが言葉を獲得する際に起こることの一般的なモデルだなどと、どうして信じられるだろうか?

 それよりもこう考えるのが現実的なはずだ。

 まず「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されたのである。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通した「ソレ」という感覚的イメージに結びついていく。そうした感覚的イメージこそが「表象」だ。

 さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化される。

 少女の身に起こったことを想像するならば、こうした描写が自然ではないだろうか?

 山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。


 一方で鈴木が次のように言うのも怪しげである。

日本人にとって、水や湯や氷がそれぞれ独立した、いわば別個のものであるのは、「水」「湯」「氷」のような、互いに区分が明確で、それぞれが独立した存在であることばの持つ構造を、現象の世界にわたしたちが投影しているからなのである。ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。


 前半は「言葉が先」と言っているようだが、後半で「価値があると認めた」というのは山鳥の言う「心のはたらき」ではないか?

 とすれば先に「切り離」された「表象」が先にできたのではないか?

 前半と後半では論理が逆転しているような感じだ。


 つまりどちらの記述にも「ツッコミどころ」がある。

 ではどう考えたらいいのだろう?

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