授業者が指定した、具体例を論拠として述べている部分の比較から生まれた、有益な議論を紹介する。
山鳥は次の事実を示して「表象が先」と述べる。
われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。
一方で鈴木は次の事実によって「言葉が先」と述べる。
実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。
この二つの記述それぞれに有効な反論が授業で提示された。
まず前者、山鳥に対して。
「同じ表象」「同じ海、同じ空」と山鳥は言うが、それが「同じ」であることはどうしてわかるのか。翻訳を通して、限りなく近い表象であることが両言語話者に了解されていくこともあるだろうが、その表象がずれている例はたちまち見つかる。したがってこの「同じ」は「比較的近い」「大体同じ」であることが言葉の使用を通して推測されるに過ぎない。それを「同じ表象」が「先に」存在しているかのように表現し、それを論拠にしているのは、実は結論ありきで「事実」を捏造しているのである。
次に後者、鈴木に対して。
言語によって言葉の示す「表象」がずれていることは、言葉が先であることの根拠にはならない。ある民族は、その風土、自然環境、生活習慣などから、対象を認識し、表現する上で、対象をある切り取り方で「表象」する。それが民族毎に違ったものになるのは自然なことだ。従ってそうして切り分けた「表象」に名前としての言葉を貼り付けるのだから、言葉の示す「表象」が言語毎にずれるのは当然である。言葉の示す範囲・幅がずれていることは、「言葉が先」である証拠にはならない。「表象が先」だからだ、と言っても一向にかまわない。
山鳥は違った言語が「同じ表象」を「持ちうる」ことを根拠に「表象が先」と言い、鈴木は言葉の示す表象がずれている例を根拠に「言葉が先」という。
だがどちらにも上記の様な反論ができてしまう(これらの反論を提起した者、鋭い!)。
両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、フェルディナン・ド・ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が共通しているのも、これらがソシュール言語論に定番の用語だからだ。
ソシュールについては内田樹の『寝ながら学べる構造主義』で紹介されており、春休みの宿題として皆が読んだはずなので、ここでは説明しない。
ソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」である。
「恣意性」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。
各言語による異なった名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。
ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対してどういう形態をもとりうる。これが言語のもつ「恣意性」だ。
これだけ聞くと、どちらかといえば「表象が先」であるような印象になる。
だが実は「言語の恣意性」は上のような説明でのみ理解すべきではなく、「水/Water」の例のように、対象の切り分け方の「恣意性」のことでもある。どうとでも切り分けていいのだから表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。つまり「言語が先」なのだ。
山鳥は前者の「恣意性」を「表象が先」の根拠とし、鈴木は後者の「恣意性」を「言葉が先」の実例として用いているわけだ。
だが二つの「恣意性」は別々の物ではない。それらは同じ原理から派生している。
それは「言語は現象と独立した独自の構造をつくっている」という原理である。
独立しているから、現象に対してどのような形態をもとりうる(各言語で違った名称になる)し、現象をどのように切り分けることもできる(各言語で意味の幅が異なる)。
これがソシュールの言う「言語の恣意性」である。「独立している」=自由=恣意的なのである。
そうした「言語の恣意性」を唱えた元祖、ソシュールは、この、どちらが先か問題について何と言っているか?
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