2020年9月20日日曜日

ロゴスと言葉 8 -どちらが先か?

 言葉と表象、どちらが先か?


 「言葉が先」の鈴木孝夫は先に引用した箇所で次のように言っている。

ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。(75行目~)


 「切り離して扱う価値があると認めた」というのは、山鳥の言う「心のはたらき」がまずあるということだ。それは「切り離」された「表象」が先にできたということではないか?

 だが「表象が先」の山鳥はこう言っている。

心に生成する表象はそれ自体としては心そのものであり、心から切り離すことはできない。その表象に音韻(名前)が貼りつけられると、音韻と表象は一つの構造(言語記号)を作り、心から切り離せるものとなる。(8行目~)


 表象は「心から切り離すことはできない」、名前がついて始めて「心から切り離せる」というのは、「表象が先」にあるわけではないということだ。山鳥自身がそう言っているのである。

 もちろん「心のはたらき」くらいなら、先にあるだろう。だがそれが言語と対応した「表象」になるためには「音韻と表象は一つの構造を作」る必要があるのだ。


 「言葉が先」と主張しているはずの鈴木が、まるで「表象が先」であるかのように言い、「表象が先」と主張しているはずの山鳥が「表象」は「先」にはない、と言っているかのようだ。


 つまりどちらが先だと言おうとしても、それに反するような記述が自分の文中にまぎれこんでしまう。


 では言語論の元祖、ソシュールは何と言っているか?

 「同時だ」と言っているのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉は単なる無意味な発声や模様である。二つが結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する新たな言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。

 言葉と表象は同時にしか存在し始められない。メルロ・ポンティが次のように言うのはそのことである。

事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである。


 だがまだ納得できない人もいるだろう。

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 こうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのである。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのである。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。「まだ名前を持たないもの」という言葉をつけるまでは「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのである(もちろん物理的実体はある。認識の中に「表象」として存在していないという意味だ)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。

 「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 素朴に言えば、そんなバカな、と感ずる。犬と猫の違いは見れば分かる。言葉より先にその違いを認識できないはずはない、と。

 だがそうではない。我々は既に言葉によってカテゴリー化された「象徴の森のシミュラークル」に生きているから、それ以前の認識の状態を想像することが難しい。言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはアレコレの個体差があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きいのである。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のようなズルい仮名の想定も含めて、名付けが必要なのである。


 言葉と表象は同時にしか成立しない。

 そしてまた、どちらもが単独で先に「ある」のも確かである。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥がいうように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導するのである。

 だが一方で、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレが生じるからこそ、新しい言葉が生まれるのである。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めているのである。それを山鳥は「心のはたらきが先」と言っているのだろう。

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