言語論をめぐる複数の文章を読み比べている。
丸山圭三郎、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章である。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。
だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。
明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのである。たとえ一次的な判定・判断であるにせよ、ひとまずは白黒つけようと考えてみるべきなのだ。
一方で、白黒つける必要はない、という意見も出た。二人の言っていることは見かけのように相反するわけではないのだ。現に共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木・丸山と重なってくるような印象もある。
そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違が見られるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。
また、二人の述べている「言葉の働き」は、違ったフェーズ(位相)を対象としているのであって、矛盾することなく同居するのだ、という解釈も提出された。丸山はそれを「一次的機能」「二次的作用」としてどちらも認めていたではないか。
だがそれでも、どちらを本質と見なすかにおいてはやはり見解の相違は否定できないのではないか?
さて、両者の主張を検討しよう。
だがどちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。みんなの話を聞いていても、山鳥支持を唱えようとして、単に山鳥説を説明するだけにしかなっていない、といった場合が多い。それはそうだが、それが彼の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。
白黒つけるためには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の主張を等分に見比べる必要がある。
たとえば次の部分。
ヒトはなぜことばを使えるか
われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。
ものとことば
ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。
同じことを言っているように見える。
ではこれらと、下の記述を比較するとどのようなことが言えるのか。
ものとことば
英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。
ロゴスと言葉
具体的にいえば、日本語を母国語とする人々に、「犬」と「狸」が別の「動物」であるような意識を生ぜしめたり(フランス語ではいずれもchienと呼ぶ)…すること、さらにはメタ的レベルにたつ「動物」とか「昆虫」というクラス名で、それぞれ「犬」と「狸」、「蝶々」と「蛾」を同一カテゴリーにまとめることを可能にするものは、言葉の力以外のなにものでもない。
上の二つと下の二つをそれぞれ可能な限りシンプルに言い換えて、両者がどのようなことを言うための例かを明らかにする。
- 前者は、同じ「モノ」を言語ごとに違った言葉で表わしている。
- 後者は、言語ごとに意味の切り分けの幅が違うことを示す。
まだ比較しにくい。共通する言葉を使って大胆に言い換えてみよう。
名前が違っても同じモノを指している
/名前が違ったら違うモノである
この二つの事例はそれぞれ、前回に確認した以下の山鳥/鈴木の主張を、どのように根拠づけているのだろうか?
表象が先で言葉が後/言葉が先で表象が後
このように、比較のための基準を揃えてはじめてその是非が検討できる。
同じように山鳥の紹介する次男のエピソードと丸山の電車内の少女のエピソードを比較して、どのようなことが言えるか?
すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。自然科学はもちろん、社会学や経済学などの人文科学も同様である。
仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則によって、天体の運行を説明する。相対性理論によって宇宙の成り立ちを説明する。それが人々を納得させたとき、その仮説が定説となる。
つまり、山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみるのである。
また鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。
どちらかが不自然だということはあるか? どちらに説得力があるか?
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