「部分」の解釈としてもう一カ所。
ロゴスとしての〈名=言葉〉があって初めて世界は分節され、実質的なもろもろの差異が構造的同一性で括られることによって存在を開始するのであるから、ロゴスが生み出したカテゴリーこそが、一見自存的実体と思われていた〈指向対象〉だと言わねばならない。
前半後半ともに容易には腑に落ちない表現が含まれているうえに、前半と後半の論理的つながりも俄には理解しがたい。
「構造的同一性で括られる」とは、それらのもろもろのモノのもつ「構造」が同一のものを、それぞれの差異を捨象して一つの仲間としてまとめることだ、と解釈したくなる。
例えば、「机」という概念で示されるもろもろのモノには、四本の足で支えられる平面があって、その上で何かの作業をする…といった「構造」的な同一性があることによって、材質や大きさや付属物に違いがあっても、一つのカテゴリーに括られるのだ、というふうに。
だがそうではない。
「同一性」は「構造的」に決定される「同一性」だ、と言っているのだ。
何の「構造」?
対象となっているモノの構造ではない。言語のもつ構造である。
対象となるモノの構造が同一ならば、それをひとつのカテゴリーに括る、と言っているわけではなく、言語という構造の中で同一のカテゴリーに括られることで、初めてモノは存在を開始する、と言っているのだ。
この「構造」を喩えたのが「網」という比喩である。
網目の一枡は、隣接する他の枡目と区切られることによって一つの枡目となる。枡目同士は相互の緊張によって支えられている。こうした枡目の一つ一つが「言葉」(単語)なのであって、それは「網」という構造をつくっている。それが言語体系だ。
「構造的同一性で括られる」とは、現実的には様々な差異のある「もろもろ」がそうした構造の中にある一つの枡目に入れられることによって初めて「存在を開始する」と言っているのである。
そのそれぞれの枡目こそ「カテゴリー」であり、それが言葉の指し示す「指向対象」=言葉の「意味」だ。
現実の「机」は「テーブル」や「椅子」と区別される「机」の枡目の中に括られた時に初めて「指向対象」として「存在を開始する」のであって、それ以前に「自存的」に在ったわけではない(もちろん物理的には存在していても)。
こうした一節も、言語論の基本的な考え方がわかっていないと、この文章の解釈だけでは適否を判断できない。
他にも腑に落ちない箇所があれば、いつでも質問に応じたい。納得がいくまで考えよう。
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