「ロゴスと言葉」という文章は、ソシュールの言語論に基づく様々な言語論―たとえば「ものとことば」や内田樹の文章―の中でもとりわけ読みにくい。
とはいえ全体的な論旨の把握や、他の言語論との比較の中で、最初はわからなかった箇所も、それなりに読めるようになってきたはずである。
が、依然としてすんなりとは腑に落ちない箇所もあるだろう。
最初に予告した「細部を読む」を最終段階で迎えるにあたって、取り上げたい箇所はいくつもある。最終的な応用課題として、今までの考察を元に、厄介な表現を説明できるようになっているか、チャレンジしてみたいところではある。
とりわけ厄介なのは以下の一節である。
彼女は次第に象徴の森という名の文化のシミュラークルに入っていく。繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。
まず「象徴の森という名の文化のシミュラークル」を説明してみよう。
どういうことを言っているかはもうそれなりにわかっているはずだ。
問題は、どう説明するか、である。
この表現を分析するには、「象徴」「文化」「シミュラークル」それぞれに込められた意味合いを捉えるとともに、「象徴の森」という比喩や「名の文化の」の二つの「の」のニュアンスを捉える必要もある(所有格の「の」には様々な意味・用法がある)。形容句の係り受けの構造もあやふやだ。まったくもって厄介な問題が凝縮した表現だ。
「象徴」はこのブログでも頻出。というか、すべての文章の読解で「象徴」について考えてきた。「金」「少年」「手」「虎」「雪」…。
「象徴」とはそれをそれという具体物として捉えず、抽象概念として捉える認識のことだ。「手」は「世界との媒介の手段」、「虎」は「強さ/孤独/制御できないもの」、「雪」は「聖なるもの」…。
言葉はすべて、特定の具体物を指すのではなく、概念を表している。「机」という言葉は目の前の学習机を指しているのではなく、「机」という概念を表している。一つの机を指して「机」と言ったとしても、その机は「机」という概念の一つの具体的現れとして捉えられている。
ということは、言葉で世界を捉えるとは、概念として世界を捉えるということである。
我々が言語を通して見ている世界にはそのような「象徴」が溢れている。それが「森」という比喩で表されている。我々はそうした「象徴」に囲まれている。
「シミュラークル」は「シュミラークル」ではない。英語の「シミュレーション=模倣」の方が馴染みがあるだろうか(これも「シュミレーション」ではない)。
教科書の註ではわかりにくいが、とりあえず「コピー」のことだと考えておこう。「本物ではない」という意味だ。
我々は「象徴」に囲まれている。つまり我々が見ているのは個々の具体物ではなく、概念なのである。言葉を使ううちに、少女は現実の具体物=オリジナルではなく、概念=コピーの「森」の中に入っていく。
「文化」は第3回「ものとことば」比較の中で考察した。
本文の趣旨を捉えるためには対比の考え方が有効であり、それはそのまま説明のためにも有効である。
「象徴」「シミュラークル」も対比で捉えて以下に列挙する。
動物/人間
感覚・運動/言語
現実/虚構
具体物/象徴
自然/非自然
本能/文化
オリジナル/コピー
/シミュラークル
子供は言葉を使うことで左のような世界観から右のような世界観の中に「入っていく」のである。
対比項目を列挙したら、それを繋げて考える。
それぞれの項目をどのような順番で繋げてもいい。例えば左辺の項目を繋げて「動物は現実世界のオリジナルの具体物を感覚で捉える。それは本能に根ざした自然な捉え方だ。」というように。
右辺を繋げてみよう。
人間は言葉を通して、世界をそのままでなく、コピーされた象徴として捉える。それは生物にとっての自然ではなく、人間が作り上げてきた文化的なシミュラークルに生きているということだ…。
この対比がわかれば、次の一節も理解できる。
この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての〈モノ〉ではなく、文化の中でのみ意味をもつ〈コト〉として存在し始めたと言えるだろう。(102頁)
「ゲシュタルト」が鬱陶しいがそこに惑わされずに、これも「ではなく」型の文型で対比を表わしていることを見てとる。左辺を否定的に提示し、右辺を主張しているのである。
するとこれも、上の対比軸上に並べられる。
〈モノ〉とは「人間としての種」=動物が捉える具体物であり、〈コト〉は「人間」が言語によって捉える概念的表象である。
「シミュラークル」には、註によると「オリジナルが失われた」というニュアンスがあるという(『現代文単語』には残念ながらこの重要なニュアンスが説明されていない)。
ボードリヤールが広めた「シミュラークル」という概念の重要性は、一般的に皆が信じている「オリジナル/コピー」という対立を無効化するところにある。我々が生きている世界は「コピー」だが、といって「オリジナル」がどこかに存在するわけではないのだ。
丸山がここで「シミュラークル」という言葉を使うのは、左辺のような「オリジナル」な世界すら実は想像の産物でしかなく、我々は右辺のようにしか世界を捉えられないということを強調しているのである。
また、この考え方は前回説明した「言語の恣意性」にも重なってくる。
「言語の恣意性」とは「言語は現象と独立した構造をつくっている」ということだった。そしてここでいう「現象と独立した構造」とはそのまま「象徴の森という名の文化のシミュラークル」に他ならない。
シミュラークルは現実世界と独立してるがゆえに恣意的である。コピーはオリジナルの手を離れて自由なのである。
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