2020年6月26日金曜日

ミロのヴィーナス5 -「実体と象徴の合致」

 二段落の「量と質」「芸術の名において」は2回目の授業で解決したからいいとして、さて三段落。
 教科書ではちょうど1頁に収められた最後の形式段落は、含みが多く、わかったようなわからないような表現が連続して、説明の課題として面白い箇所が多い。詩人である清岡卓行の面目躍如たる文章である。
 段落全文引用する。
 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? ぼくはここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっときりつめて言えば、手というものの、人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。そして、例えばこれらのことばに対して、美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、ふしぎなアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
 どこが最も「わからない」か?

 思考が浅ければそこら中が「わからない」と感じられてしまう。真剣にならないと「どこ」かを挙げることはできない。自分のわからなさを自覚するにも集中した思考が必要だ。
 「アイロニー」なども気になるが突っ込まない。だが脚註で「皮肉」と訳されているのは、ここでは不適切だ。この文脈では「逆説」という訳語をあてるべきである。「逆説」と訳していいことがわかればここまでの考察の通りである。
 また「トルソの美学」は考えて解釈できる部分ではないので、触れるにとどめる(註)。
 取り上げるに値するところはいくつもあるが、次の三つに絞る。
  • 実体と象徴のある程度の合致
  • 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
  • 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
 「人間存在における象徴的な意味」も気になりはするが、「実体と象徴とのある程度の合致」の考察の中で自然と解決するはずだ。

 まず「実体と象徴のある程度の合致」は、この前後の文脈を整理するところから始める。
 文脈の整理には主述の確認が重要である。これはメソッドの一つとして立てても良いほどに重要な認識だ。文脈が混乱して感じられたら、まず主語と述語を確認せよ…。
 ここではこれを応用して、1文内の主述と言わず、この表現を含む前後4文(上記下線部)をひとまとめに考え、主部と述部を見定める。
 主語は? 「手」である。
 述部は? 「交渉の手段である」と「関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである」が言い換えられて並列されている。
 「交渉」と「(関係を)媒介する」、「手段」と「方式」の近似性は見易い。
 何との「交渉・媒介」か? 必要な修飾語を確認する。
 「世界との、他人との、あるいは自己との」である。
 一文にまとめてみる。
手は世界・他人・自己との交渉・媒介の手段・方式である。
 こうしたテーゼに、問題部分が挿入されている。これが「実体」でもあり「象徴」でもある、というのである。
 どういうことか?

 ここで言っていることが腑に落ちるためには、どういう事態を指しているかが思い浮かんでいる必要がある。
 そこでまず例を挙げる。それが「実体」だ。
 「世界」「他人」「自己」との「交渉」について、三つそれぞれの例を挙げたい。「象徴」はそれらを一つにまとめる。

 例が挙がりやすいのは「他人」との「交渉」である。
 対象が人間であるような、手の行う行為を表わす動詞は、そのまま例となる。
 握手する・抱き寄せる・殴る…。

 「世界と交渉する」もしくは「世界との関係を媒介する」の具体例は厄介だ。
 例えば「電子メールを送る」などという例を挙げる者が多い。
 これは何との交渉を手が媒介しているのか?

 「世界」がこの文脈でグローバルな、ワールドワイドな「世界」を意味していると考えるのはピント外れだ(がそのような意味で考えてしまった者は呆れるほど多い)。そんなふうに考えたら、世界中のそれぞれの身近な「世界」で一生を終える「世界」中のほとんどの人の手は、一生涯「世界」との交渉など経験しないことになる。
 そうではない。手は万人にとって「世界」との「交渉の手段」なのだ。そういう意味で「世界」を捉えなければならない。
 手が交渉の手段であるような「世界」とは、我々を取り巻く外界全てである。目の前、手の届くここが既に「世界」である。
 それと「交渉する」とは、そこに物理的な力を加えて何らかの変更を起こしたり(動かす・形を変える)、何らかの情報を得たりする(感触や温度を知る)ということだ。それを「媒介」する「手段・方式」が手だというのである。
 触る・押す・突き放す・引き寄せる・倒す・起す・叩く・撫でる…。

 つまり「電子メール」の例は、それを送るために操作している機械(パソコン・スマホ)との「交渉」なのだ。機械が「世界」なのだ。メールの送られる「相手(=他人)」との「交渉」はメールがしているのであって、手がしているわけではない。

 「自分」はやっかいだ。何のことを言っているのか、解釈の余地が広い。
 むろん上の「世界」や「他人」に対するのと同じ「交渉」を自分に対してもするかもしれない。自分の身体を撫でさすったり、叩いたりもする。髪をなでつけ、服を着、髭を剃ったり化粧をしたり…。
 また、「世界」や「他人」との「交渉」は、そのまま「自分」というものを作り上げていくことだとも言える。哲学的に言えば、「自己」とは外界の認知に対する反射として形成されるのである。「世界」を知ることによって、「他人」と関わることによってのみ「自分」という意識は形成されていくのだ。

 そして「手」は上に挙げたような「交渉」「関係の媒介」を行う主たる「手段」である。上の動詞は全て「手」が行う「実体」的行為である。

 あるクラスで「世界」との「交渉」の例として「演奏する」「絵を描く」「文章を書く」という例が挙がった。これらは「世界」を「世界的ピアニスト」などと使う時の「世界」だと解釈として挙げた例なので、その意味では誤っているのだが、上のように「外界」という意味で解釈しても、適用できる例ではある。楽器や筆との「交渉」に手が使われているのである。
 また、「演奏」は「他人」に聴かせるのだろうから、その意味では「握手」などと同じ「他人との関係を媒介する」の例だと言うべきだが、これはまたすぐれて「自分」との「交渉」の例かも知れない。
 芸術は自分の内なるものを外に表現する活動である。とすれば、手を使って「外界」と「交渉」することこそが、「自分」の内なるものを自分自身の前に曝け出すことになるのである。自分の無意識と意識を手が「媒介」しているのである。

 さてこうした「実体」に対して「象徴」とは?
 上に挙げた行為は全て、ある物理力の行使であるとともに、それをしようとする人間の精神の現れでもある。ペンを持ち上げようと思ってペンを摘まんだり握ったり持ち上げたりするのは、それをしようとする人間の意志の発現である。人間のあずかり知らぬところで発生した単なる自然現象ではない。
 つまり手によって行われる行為は、人間が「世界」と「他人」と「自分」と関わろうとする意志・精神を「象徴」しているのである。
 例えば「握手」は、相手の手に対する物理的な接触であり圧迫だが、同時に相手との友好関係「象徴」的に表わしてもいる。この、実体でもあり同時に象徴でもある両義性を指して「合致」と言っているのだと考えられるし、これらが全ての場面で完全に合致しているわけではないから、「ある程度の合致」なのだろう。
 また、こうした両義性は考えてみれば当然だから「もちろんある」のだろうが、いずれにせよすっきりと読者の腑に落ちる表現とは思われず、厄介な表現だ。
 筆者の思考にとってはどれも必然的で自然な表現なのだろうが。

註 「トルソの美学」
 美術に明るくないと「トルソ」がピンとこない。教科書脚註で「首や手のない胴体だけの塑像」などと説明されているだけだ。これを見て、考えて、わかったりはしない。
 授業者の現在の理解では「トルソの美学」は「量塊」としての胴体に美を見出しているのであり、腕や首はむしろ無くても良いという捉え方である。一方筆者は「無い腕」にこそ美を見出している。「有る胴体」か「無い腕」か、という注目点によって「トルソの美学」と筆者の考察は違う方向に向かっているのである。

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