- 機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえる
- 恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐はふしぎに厳粛な響きを持っている
これも分析し、説明を試みよう。問いは次の通り。
- 「機械とは手の延長であるという比喩」はなぜ「美しい」のか?
- 「恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた述懐」はなぜ「厳粛な」のか?
そもそも「美しい」とか「厳粛」とか言われて、共感できているわけではないからだ。ここでは読者が自らの内省によって「美しさ」や「厳粛」の理由を探ることはできない。
したがってここでも、この文脈で筆者が「美しい」「厳粛」ということの論理(すじみち)を読み取るしかない。
ここで追うべき論理とは何か?
上の二カ所を含む一文は「だから」で始まっている。「だから」「美しい」「厳粛な響きを持っている」ということは、つまり「美しい」「厳粛な」ことは、前の部分が根拠となっているということである。
前の部分とは、前回の考察対象である、手が「世界・他人・自分」との「交渉」を「媒介」する「手段・方式」だ、という内容である。
そしてそこには「実体と象徴の合致」があるというのだった。
このことを真摯に受け止めれば「美しい」「厳粛な」ことは自ずと腑に落ちるはずである。
だがここでも、腑に落ちればおしまい、ではない。適切な言葉を探して、他人の共感を得なければならない。
そのためにたどるべき論理がもう一つある。
この一文に続くのは「どちらの場合も、きわめて自然で、人間的である。」という一文である。
つまり「美しい」「厳粛な」という形容のニュアンスには「自然」「人間的」だという意味合いが含まれているということである。
さらにここに対比を用いる。
すなわち「美しい/美しくない」「厳粛な/厳粛でない」の右辺に「不自然」「非人間的」を補助的に重ねて見るのである。
- 美しい/美しくない
- 厳粛な/厳粛でない
- 自然/不自然
- 人間的/非人間的
「機械とは手の延長である」という表現を見て、マジックハンドや高枝切り鋏のようなものをイメージするのは、間違ってはいないが貧困な発想である。シャベルカーのようなもの? まだまだである。スマホまで拡張しよう。
「機械とは」という主語をいきなり考えると行き詰まってしまう。まず「手とは」を考え、機械をその延長だと考える。
ここに前回の「手は世界・他人・自分との交渉・媒介の手段・方式である。」というまとめが使える。そしてこれが「実体」であるばかりでなく「象徴」でもあるのだ。
つまり機械を、単に世界・他人・自分に対して物理的な作用を与えるモノとして「実体」的にのみ見るならばそれは「冷たい」、文字通り「機械的」なモノでしかない。
だがそれを世界・他人・自分に働きかけようとする人間の意志の「象徴」であると見るならば、そこには世界の中で生きようとする「美しい」生命の輝きが感じられてこないだろうか?
「美しくない」をどんな言葉で形容するか。さしあたってそのまま「機械的」と言い、「冷たい」と言い換えた。「硬い」「油臭い」だっていいかもしれない。
手の延長であると考えるとき、機械は「機械的・冷たい」=「不自然・非人間的」なのではなく「美しい」のである。
「恋人の手を初めて握る幸福」を「厳粛ではない」=「非人間的」表現で形容するなら?
「やわらかい」「すべすべしている」「あたたかい」などが、「実体」としての感触の形容に留まっているのならそれは「厳粛」に対比される「厳粛ではない」である。
さらに「厳粛」ではない言い換えを考えよう。「軽薄な」「生々しい」「いやらしい」…、さらに「非人間的」なニュアンスで言うならば「動物的」と言ってもいい。
それを、「実体」を超えて相手との絆の「象徴」としてみたときに「厳粛」という形容がふさわしい行為に感じられるのである。
一見したところ考える道筋の見えない「詩的」な表現にも、実は論理が隠れている。
大きな論理の流れをたどり、問題の部分を含む因果関係を把握した後、問題の部分では「対比」を論理の手がかりとして、そのニュアンスを適切に示す表現を発想する。
こうした手続きによって、一見、曖昧で捉え所の無い表現を理解したり説明したりすることができるようになるのである。
今回は「人間的」の対比「非人間的」に「機械的」と「動物的」が図らずも登場したのだが、対比について最初に説明した回の例←がここで再登場したのは思いがけなかった。
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