ではこの文章はどのような「対比」で論が立っているか。
それぞれに思い浮かべた「対比」があるはずである。だがここにもう一つの問いを付け加えてからグループワークだ。
- 先の問い「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」に、すでに二つの「対比」要素が潜在している、それぞれ何か?
様子を見ていると、各班で誰かが気づくようだ。
「ある/ない」と「腕以外(鼻・眼…)/腕」である。
「ある/ない」の対比はこの文章全体を貫く対比だ。以前書いた「ラベル(見出し)」となる対比である。
「ミロのヴィーナス」は全体が大きく三つに分けられている。このうち、いわゆる大段落でいえば、一つ目の段落は「ある/ない」の対比に基づいて論じられている。「ない」ことがミロのヴィーナスの魅力の源泉なのだ、という主旨はここで既に結論まで述べられてしまう。
そして「腕以外/腕」の対比に基づいているのが三段落だ。欠落しているのが腕であることの意味が論じられる。
では二段落はどのような対比によって立論されているか?
これはなかなか難しく、面白い問いである。
二段落はミロのヴィーナスの復元案に対する筆者の見解が展開されている段落だ。この考察はどのような対比によって立論されてるか?
文中には対比要素が、それとわかるようには並んで出てこない。対比の片方があるから、それが何と対比されるかを考える、というのがヒント。
この問題提起をするところまでが1回目の授業だ。クラスによって多少のばらつきはあるものの、おおよその進度は揃えた。
以下は続く2回目の授業だ。
実は二段落にも、あからさまな対比表現や対義語がないわけではない。まずはそれを挙げるよう指示する。次の二つの対比を文中から指摘できる。
- 量(の変化)/質(の変化)
- 限定されてあるところのなんらかの有/おびただしい夢をはらんでいる無
対比項目を関連させる便宜のため、対比の記述では左に否定的項目、右に肯定的項目を置く(黒板では縦書きなので上下に並べる)。
後者は明白に全体の対比「ある/ない」の対比。既に「空白の意味」との対応を指摘する展開でも取り上げられていた表現だ。
「量/質」の対比は「量の変化ではなくて、質の変化である」という文型によって示されている。「AではなくB」という文型は「A/B」という対比を表わす典型的な文型だから、常に注意しておく。Aを対比として取り上げることでBを明確にしようとしているのだ。
だが「量/質」の対比がどのようなものかを納得するのは難しい。「部分」の解釈に踏み込む必要がある。
そもそも次の一節は考察に値する「部分」として取り上げたいところでもあった。
ここで問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものが既に異なってしまっている時、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?取り上げるべき「部分」は一、三段落にもいっぱいあるので、ここは二段落の対比を捉えるために、この「部分」だけここで取り上げて考察してしまう。
- 「量の変化」「質の変化」とはそれぞれ何か?
いったんはグループワークにしてみると、この「部分」の説明の難しさが実感できるはずだ。
そもそも、「変化」とは何か? 何に伴う「変化」なのか?
ほんの確認程度である。
だが解釈は二通りある。一つは復元に伴う「変化」、つまり「ない→ある」が「量/質」それぞれにもたらす変化のことである。もう一つはそもそもの欠落によって生じた「ある→ない」の変化のことである。文脈上はどちらとも確定しがたく、筆者もどちらかを限定して指しているとも思われない。「ある/ない」を比較してその差を「変化」と言っているだけだとすれば、別に方向は問題ではないからだ。
以下は説明の便宜上、復元に伴う「ない→ある」の変化の場合で説明する。
腕の復元はどのような「量/質の変化」をもたらすか?
何の「量」、何の「質」なのか?
石膏か大理石の重「量」? 体積?
だがこれでは「質」には対応しない。いや、とりあえず「量」がこうであることだけを認めることはできないか? それもだめだ。復元案は「量の変化」を良しとする立場である。それは重量や体積の増加を良しとしているわけではない。
「量の変化/質の変化」に「表現における」という形容がついていることと、「有」に「それがどんなにすばらしいものであろうとも」という形容がついていることがヒントだ。
「表現における量」とあるから「表現の量」? だがそんな怪しげな日本語のまま放置せずに、明確にするため言い換えよう。
- 「表現における『 』の量/質」の『 』に入る語は何か?
「情報」「美しさ」「感動」などが挙がればよい(平均してどのクラスもこれらが挙がる)。これらの言葉を代入して「量の変化/質の変化」を説明する。
復元は、表現における「情報」「美しさ」「感動」の「量の変化」をもたらす。復元前には「量」的には0なのだから、基本的には増加である。それは「素晴らしい」場合には肯定的要素の増加だ。
だが同時に「質」にも変容をもたらす。筆者的にはこちらが「問題」だというのだから、平たく言えば「無」から「有」に変化することで、「情報」「美しさ」「感動」は「量」的に増え(「すばらしい」場合には)、「質」的に低下するのである。
「量」は多寡(多いか少ないか)で言えるので簡単だ。問題は「質」の変化である。「質の低下」をどのように形容するか?
「有」の「情報」は、そこにあるその腕が持っている情報である。
一方「無」が「情報」を持っているとは奇妙な表現だが、筆者の言う「多様な可能性の夢」「おびただしい夢」とはつまり、自分の中に探り当てられ、そこから湧き出てきた「情報」である。あるいはそうした情報を引き出す情報の空虚としての「情報」である(逆説的な表現!)。そして当然「有」になれば、そうした「質」の「情報」は失われるのである。
こうした「質」に対比的な形容を加えてみよう。例えば、「ある」ことの「情報」「美しさ」は固定的であり、「ない」ことの「情報」「美しさ」は自由である。
文中から形容を探すなら、「ない」ことの「美しさ」は「神秘的」だが、「ある」ことのそれは現世的(?)である。
D組のK君からは、「ある」ことの「美しさ」は見る側が「受動的」に受け止めるものだが、「ない」ことの「美しさ」は見る側が「能動的」に見出すものだ、という表現が提案された。見事な対比である。
こうした「情報」「美しさ」「感動」の性質の差が「表現の次元」と表現されている。「量」よりも「質」の方が高次元だというのである(平たく言えば)。
「量の変化ではなくて、質の変化である」とか「表現の次元」とかいう尤もらしい言い方で、しかし言っていることは読者にもなんとなく伝わる、という一節を、分析して述べれば上記のようになる。
もちろんこんな表現は詩人らしい含みのある言い回しだなあとでも思って読み流せば良いのだ。一読者としては。
だが国語の学習だと思ってこんなふうに考えていくと、思いの外すっきりと腑に落ちるような感じがするのも悪くないはずだ。
さて、回り道をしたが、もともと二段落から読み取りたい対比はこれではない。だが同時に「量の変化/質の変化」は直截的に「ある/ない」に対応しているとも言い難く、むしろこれから捉えようとする対比に連なっているのだった。
上の二つのようにあからさまではない対比要素を探す。もう一方が文中にないが、おそらく対比の一方ではないかと思われる表現を挙げる。
文中から対比要素として挙げるべき語は「抽象語」「具体例」「形容」である、といった復習もしておく。
ここからは皆が挙げてくる対比要素によってクラス毎に展開が変わる。
こうした「質」に対比的な形容を加えてみよう。例えば、「ある」ことの「情報」「美しさ」は固定的であり、「ない」ことの「情報」「美しさ」は自由である。
文中から形容を探すなら、「ない」ことの「美しさ」は「神秘的」だが、「ある」ことのそれは現世的(?)である。
D組のK君からは、「ある」ことの「美しさ」は見る側が「受動的」に受け止めるものだが、「ない」ことの「美しさ」は見る側が「能動的」に見出すものだ、という表現が提案された。見事な対比である。
こうした「情報」「美しさ」「感動」の性質の差が「表現の次元」と表現されている。「量」よりも「質」の方が高次元だというのである(平たく言えば)。
「量の変化ではなくて、質の変化である」とか「表現の次元」とかいう尤もらしい言い方で、しかし言っていることは読者にもなんとなく伝わる、という一節を、分析して述べれば上記のようになる。
もちろんこんな表現は詩人らしい含みのある言い回しだなあとでも思って読み流せば良いのだ。一読者としては。
だが国語の学習だと思ってこんなふうに考えていくと、思いの外すっきりと腑に落ちるような感じがするのも悪くないはずだ。
さて、回り道をしたが、もともと二段落から読み取りたい対比はこれではない。だが同時に「量の変化/質の変化」は直截的に「ある/ない」に対応しているとも言い難く、むしろこれから捉えようとする対比に連なっているのだった。
上の二つのようにあからさまではない対比要素を探す。もう一方が文中にないが、おそらく対比の一方ではないかと思われる表現を挙げる。
文中から対比要素として挙げるべき語は「抽象語」「具体例」「形容」である、といった復習もしておく。
ここからは皆が挙げてくる対比要素によってクラス毎に展開が変わる。
考えあぐねるようなら、文中の具体的な言葉ではなく、二段落がどういう考え方・主張・姿勢・立場の対立かを考えよう。言葉を文中に探すよりも、全体を大づかみにする思考だ。
二段落の対比とは基本的に「復元を企図する立場/復元を拒否する立場」の対立である。これは一段落には出てきていない対立要素だ。
復元すれば腕は「ある」ことになるのだから、これも大きく言えば「ある/ない」の対比に連なるとはいえる。また、復元は「量の変化」を良しとすることであり、復元を拒否することは「質の変化」を拒否することだ。両辺が何に注目しているかでいえば、「量/質」もまたこの対比に連なる。
こうした立場の違いが、二段落ではどのようなものとして論じられているか?
例えば次の語が文中から挙げられる。
これらの対比を補おう。「?」にはどんな表現が補完できるか?
「真の原形/?」は「限定されてあるところのなんらかの有/おびただしい夢をはらんでいる無」の言い換えだ。
こうした「ある=原形」を復元する試みが、例えば「客観的」「実証的」に行われるのが復元作業である。
「客観」の対義語として「主観」を想起することは容易。
「実証的」の対義語ははっきりしない。「理論的」「思弁的」などの語が対義的に用いられる場合がある。「形而下的な現象に基づく」に対する「形而上的な思弁に基づく」の意味である。だがここでの「実証的」を「客観的」に合わせて解釈するならば、対義語は「主観的」の意味合いに近い、「感覚的」「直感的」くらいでいい。文脈上は「実証的に、また想像的に」とあるのを対比として捉えてもいい。その場合「想像的」も候補とする。
復元案は「真の原形」を「客観的」「実証的」によみがえらせようとする試みである。それが「どんなにすばらしいものであろうとも」これを拒否するのが筆者の立場だ。
とすれば筆者は「おびただしい夢」をいかに見るか。すなわち「主観的」「感覚的」「想像的」にである。
そしてそうした立場を表わすのが「芸術」である。
「まさに、芸術というものの名において(真の原形を否定したいと思う)」という一節はこれもまた考察したい「部分」ではある。これもこの「対比」の流れで考察してしまう。
上の展開で既に「芸術」が挙がっていれば良い。だが対比要素としてまだ挙がっていなければ、「主観的」「感覚的」に「おびただしい夢」を見ることを支持する立場を表わす言葉を文中から挙げよ、と訊けば、「芸術」が挙がる。
こうした立場の違いが、二段落ではどのようなものとして論じられているか?
例えば次の語が文中から挙げられる。
- 真の原形/?
- 客観的/?
- 実証的/?
- ?/芸術
これらの対比を補おう。「?」にはどんな表現が補完できるか?
「真の原形/?」は「限定されてあるところのなんらかの有/おびただしい夢をはらんでいる無」の言い換えだ。
こうした「ある=原形」を復元する試みが、例えば「客観的」「実証的」に行われるのが復元作業である。
「客観」の対義語として「主観」を想起することは容易。
「実証的」の対義語ははっきりしない。「理論的」「思弁的」などの語が対義的に用いられる場合がある。「形而下的な現象に基づく」に対する「形而上的な思弁に基づく」の意味である。だがここでの「実証的」を「客観的」に合わせて解釈するならば、対義語は「主観的」の意味合いに近い、「感覚的」「直感的」くらいでいい。文脈上は「実証的に、また想像的に」とあるのを対比として捉えてもいい。その場合「想像的」も候補とする。
復元案は「真の原形」を「客観的」「実証的」によみがえらせようとする試みである。それが「どんなにすばらしいものであろうとも」これを拒否するのが筆者の立場だ。
とすれば筆者は「おびただしい夢」をいかに見るか。すなわち「主観的」「感覚的」「想像的」にである。
そしてそうした立場を表わすのが「芸術」である。
「まさに、芸術というものの名において(真の原形を否定したいと思う)」という一節はこれもまた考察したい「部分」ではある。これもこの「対比」の流れで考察してしまう。
上の展開で既に「芸術」が挙がっていれば良い。だが対比要素としてまだ挙がっていなければ、「主観的」「感覚的」に「おびただしい夢」を見ることを支持する立場を表わす言葉を文中から挙げよ、と訊けば、「芸術」が挙がる。
それに対して問う。
なかなか挙がらない場合は「 ~学」「~術」とヒントを出せばそのうち考えつく(「歴史学」「科学」なども挙がる。悪くない。復元チームにはそういうメンバーももちろんいよう。炭素同位体による年代測定も行われるかもしれない。芸術家だってメンバーにはいてもいい)。
先の対比を、上の考察にしたがって補完してみよう。
左辺を対照として、筆者が右辺の立場の支持を表明するのが二段落だ。
同一軸上に連なる対比要素を挙げたら、最終的に左辺、また右辺で通して見直すことが重要だ。これらの対比要素をひとつながりの文として書き下すのである。
- 「芸術」は何の対比か?
なかなか挙がらない場合は「 ~学」「~術」とヒントを出せばそのうち考えつく(「歴史学」「科学」なども挙がる。悪くない。復元チームにはそういうメンバーももちろんいよう。炭素同位体による年代測定も行われるかもしれない。芸術家だってメンバーにはいてもいい)。
先の対比を、上の考察にしたがって補完してみよう。
- ある/ない
- 復元を企図する/復元を拒否する
- 真の原形/おびただしい夢
- 量/質
- 客観的/主観的
- 実証的/感覚的・想像的
- 考古学・学術/芸術
左辺を対照として、筆者が右辺の立場の支持を表明するのが二段落だ。
同一軸上に連なる対比要素を挙げたら、最終的に左辺、また右辺で通して見直すことが重要だ。これらの対比要素をひとつながりの文として書き下すのである。
客観的・実証的に原形を復元しようとする考古学的手続きは「量」の増加を良しとする立場であり、一方筆者は、主観的な想像によって夢を見ることができるヴィーナスの美しさの「質」の変容を、芸術の立場から拒否する。
こうした書き下しは難易度が高い。だがこうして通観したときの腑に落ちる感触は是非味わってほしい。
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