以上のような授業者の結論は、先にも言ったように、ここまで述べてきたような問題設定に基づく論理の積み重ねによるものではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が表しているものを何とか言葉にしようと考えているときに不意に、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはそのせいだったのだと気づいたのだった。それが「観念としての悪」「幻想としての悪」という表現として形になった時、「行為の必然性」に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が拓けた。
だから「なぜ勇気が出なかったのか?」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題だ。
だがみんながそれを意図的に考えるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにする必要がある。「なぜ引剥ぎをしたのか?」が解き明かすべき謎であることは考えてみればすぐに皆に共有される問題でもある。最終的な到達地点がどこなのかを見据えた上で、そこにいたる道筋をみんなで辿る。
授業とはそうしたものだ。結論の提示や、その理解が重要なのではなく、そこに到る道筋を、周りの皆と、ひたすらテキスト情報を検討し、論理を構築することで辿る過程こそが学習なのである。
二点つけ加える。
「羅生門」の読解においてはこれまでも、下人の頬の「面皰」が解釈の対象とされてきた。このことはいくつかのクラスで問題点として提案された。
この「面皰」は、いうまでもなく象徴だ。面皰という具体物は、何らかの抽象概念を表わしているとしか読めない。
これをどのような象徴であると解釈するかは、「羅生門」という小説をどのような小説であると解釈するかということと整合的でなければならない。
「エゴイズム」論によれば、面皰が象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人は良心を棄てて、悪にはしったのだ。
そして先の結論によれば、面皰はそのまま「空疎な観念」(=幻想)の象徴だということになる。
頬に面皰をもつ下人は「空疎な観念」に支配された人間であり、その象徴たる「面皰」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。
また「面皰」を「若さ・未熟さ」の象徴であると見なす解釈も古くからある。これは「エゴイズム」論とセットだったから、つまり、古い道徳を棄ててエゴイズムを受け入れることこそが人間の成長だといっているのである。
だが「空疎な観念」こそ「若さ・未熟さ」の特徴だ。現実を正しく認識せずに幻想の中で希望を抱いたり絶望したり憤ったり悲しんだりすることこそ若者の特権だ。
その意味で、面皰から手を離すことは、やはりある種の成長を意味しているのである。
現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」はどう受け取ったらいいのか?
その不確定な未来にひらかれた余韻を味わう以上に、徒らな解釈をすべきだとは必ずしも思わない。
ただ、「下人の行方」に待ち受ける「黒洞々たる夜があるばかり」の闇もまた、幻想の潰えた後の苦い現実認識を示しているのだろうか。
引剥ぎという「行為の必然性」は、それを容認する「老婆の論理」によって保証されるわけでも、「極限状況」の深刻化によって保証されるのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。
引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。
このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。
これはいわば、空疎な観念による幻想から覚めて卑小な現実を認識する話、である。
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