年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。
一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。
鷲田清一の名に覚えがなければならない。
可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。
鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。
ところでどこで?
昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。
さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。
これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。
逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。
だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。
ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。
となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。
そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。
条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。
シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。
こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。
大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。
主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。
皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。
厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。
授業者の想定していた文も紹介する。
現代の人々はつながりを求めている。
ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。
たとえばここから対比や問いを立てることもできないわけではない。
「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。
だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。
では問いは?
上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。
だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。
当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。
あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。
とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。
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