「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出さねばならない。
まずは実際に、下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。
①「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
④「六分の恐怖と四分の好奇心」
⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
⑥「(悪を懲らしめる)勇気」
⑦「安らかな得意と満足」
⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
⑨「冷然と」
⑩「(盗人になる)勇気」
⑪「嘲るように」「咬みつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)
②や③は描写や形容から浮かび上がる心理を、適宜言い換えてある。
また⑥の「勇気」は該当箇所の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものだ。
この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか?
④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが素直に納得される心理だ。
問題は⑤の「憎悪」からである。この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。
解釈を言葉にするのは容易ではない。だが取り組む意義はある。授業者の見通しによれば、この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるからだ。
この部分の考察にあたって「なぜ憎悪が湧いてきたか」と考えるのは難しい。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいるからだ。自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。単に「わからない」という結論が出てしまってそれきりになる。
「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析せよ、とは言いたいのだが、「分析」というのが何を考えることなのかは明らかではない。
こう考えてみよう。
読者が感ずるこの不自然さはどこから生じているか?
皆、おかしいとは感じているはずだが、どこがおかしいのか?
分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。これができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件だ。「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げるよう求めているのだ。
そしてこの「憎悪」の不自然さは、いくつもの要因から成り立っている。ただ一つの理由によるのではない。複数の要因を列挙する必要がある。
「憎悪」の「おかしさ」として各クラスで挙がったのは次の諸点。
・激しすぎる。過剰。
・対象がなぜか一般化する。
・自分が被害者でもないのに憤っている。
・自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
・老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。
・「勿論」が二度使われているが、何が読者に了解されるべきなのかわからない。
さらにこうした特徴は、相反する方向性をもっている。
対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれない。そうした納得がない。
だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。
こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。
下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。
といって完全に「わからない」というだけではない。「わからない」と納得していいのだ、といった形で「わかる」ことができるわけでもない。下人の「憎悪」を、読者はそれなりに推測して、そこに一定の納得をするからだ。
下人が老婆の行為を「悪」と決めつけるのはどのような理屈によるのだと読者は考えるか?
死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか?
とりあえず読者はどう理解しているのか?
「盗みだから」ではない。本文には「下人には、勿論、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。
あるいは「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった」とあるから、「雨の夜に」「羅生門の上で」が悪いことの根拠なのか?
だがこれがなぜ悪いことだと判断できる根拠になり得るのか、読者にはわからない。
ではとりあえず読者としてはどのように理解しているのか?
おそらく読者はここで下人が老婆を「悪」と決めつけるのは、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じているのだろう、というように納得している。
だがそれで素直に腑に落ちはしない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。
だからこそ、ここには「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを充分承知の上でそのことを読者に明言してみせる。
従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
つまり下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒涜」といった理屈にさえ依拠していないのである。
挙げ句に「雨の夜に」「羅生門の上で」などというわけのわからない根拠を殊更に挙げてみせる。
つまりここでの下人の「憎悪」は、全く理解することができないものとしてのみ描かれているのではなく、半ばは納得の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定されているのである。
読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。
この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。
ここまで考えておけば、あらためて「なぜ下人の心には憎悪が湧いてきたか?」と問うてもいい。
この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか?
この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか?
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