2020年7月17日金曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、妹がみぞれを採ってきてくれと頼むにあたっての想定としては以上でいいと思う。だが注意すべきことは、あくまでこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らないということだ。
 また、仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図に気づいたこと自体のせいでもある(またしても入れ子状!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。
 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
この一節から、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとるのは自然である。
 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹にとって切実でありさえすれば、どんな依頼でもよいということになる。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからである。
 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。
 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのである。

 こうした指摘は、少数ながらいくつかのクラスで提出された。貴重な指摘である。

 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ。
 「死に水」「末期の水」とは、今しも死にゆく者の最期に飲ませる水のことだ。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭う。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だというから、仏式の葬儀の作法である。
 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」となっている。
 その雪は、どのようなイメージを帯びたものとして描かれているか。
 具体的に詩の中の表現を挙げよう。
  • 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん
  • わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの
  • この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ
  • あんなおそろしいみだれたそらから/ このうつくしい雪がきたのだ
  • 聖い資糧
これらの形容は、この「雪」にどんな印象を与えるか。
 そのまま詩中の語を使えば「うつくしい」である。
 だがそれとともに、「まつしろ」「そらからおちた」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。
 「雪」はいわば、聖なるものの「象徴」である。
 それが、妹の死を浄化するように感じられるのである。
 読者にも、そして兄にも。
 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。

 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことすらも、それが兄を救うための妹の気遣いであったと言っているのである。
 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた雪のイメージが兄になにがしかの救いをもたらしているという詩の論理は捉えておきたい。

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