- 語り手はどこにいるか?
- 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?
まず、後者の問いについての考察の成果を聞く。こちらの問いの方が答えの自由度も高く、あれこれ言い易い。
どのクラスでも挙げられる「違い」は、まずみぞれの降り方の印象である。
「ふってくる」の方が、みぞれは軽く、速く、「沈んでくる」の方が相対的に重く、遅い。整理して言えばこんなところで一致するだろうか。
また、視線の向きについての言及も多い。
「ふってくる」の方が視線が上向きで、「沈んでくる」の方が下向き。
これには異論もある。視線の向きは「横向き」だとか、「沈んでくる」の方がむしろ「上向き」だという意見もある。
また「ふってくる」は視覚的で、「沈んでくる」は体感的な表現だという意見もある。
これらはみな、どうしてそういうことになるのか、を考えることが重要だ。
もう一つ、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈んでくる」の方が、妹を思う気持ちの悲壮感がこめられているのだ、と。
こうした解釈の妥当性の根拠は何か?
「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。だから、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いくのだ、と解釈できるのである。
確かに文学作品においてはしばしば、文中に描かれた情景を心情表現として読む必要がある。
上記の違いの中には、語り手のいる場所に基づいた違いもある。
「ふってくる」と「沈んでくる」における、視線の向きやみぞれの感触の違いは、語り手のいる場所の違いから生じていると考えられるのである。
二つの問いを並行して投げかけているのはこのためだ。
その場合、語り手はどこにいると想定されているか?
つまり「語り手はどこにいるか?」という問いの答えは、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、ということなのである。そのまま詩の終わりまで室内に戻った様子はない。
この想定が、「ふってくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。
「ふってくる/沈んでくる」の違いについて、前に言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。
4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外に少なく、「ふつてくる/沈んでくる」の違いは、主として語り手の視座の違いとして説明されている。
この想定が、「ふってくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。
「ふってくる/沈んでくる」の違いについて、前に言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。
「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)
「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)
(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)
「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房)
4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外に少なく、「ふつてくる/沈んでくる」の違いは、主として語り手の視座の違いとして説明されている。
そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。
「ふってくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。
これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」である。
だが本当にこの「答え」には、全員が賛成しているのか?
そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?
こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるのである。
「ふってくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。
これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」である。
だが本当にこの「答え」には、全員が賛成しているのか?
そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?
こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるのである。
語り手は本当に「そこ」にいるのか?
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