「その二つ」とは「家の周囲数百メートル」の円の①「内と外」か、②「外と外」か? ③どちらでもないのか?
人数比はクラスによるが、皆の意見はそれぞれにバラける。
こういうわかりやすい対立点があると授業が盛り上がって面白い。
解釈の妥当性の根拠を巡って議論を繰り広げてほしいのだが、その前に、まずはそれぞれ、互いの解釈がそれなりに成立することを納得してほしい。
そして振り返ってほしい。自分が考えたどちらかの解釈は、そうでない解釈との比較検討の上で選んだものではないはずだ。それぞれ自然に、ある一つの解釈が脳内に成立して、それで納得していたのだ。先に引用した解説書の執筆者もそうだったのだ(授業者もまた当然そうだった)。
思い出してほしい。「永訣の朝」の冒頭で語り手が室内にいるのか庭先にいるのか、解釈が分かれたのも、それぞれの解釈は両者を比較して選ばれたものではなく、自然と一方の解釈がそれぞれの読者の頭に浮かんだのだ。
我々は通常、他者の存在がなければ、それとは違った解釈が可能であることなど想像しない。
授業者もまた、かつて授業でこの問いを発したときには、ある解釈をしていて、そうでない解釈をする生徒の答えを最初は一蹴していたのだ。ところがそうした答えが別のクラスでも相次いで提出されることで改めて考えてみて、初めてその解釈もにわかには否定できないことに気付いたのだった。
授業という場でなければ、こうしたことが起こっていることに気づくことはなかった。
他人と互いの考えを交換することで初めてこうした解釈の違いが表面化したのだ。
文脈の中で「その二つ」と指示される対象は、「内と外」「外と外」どちらの解釈の可能性も排除できない。自分はなぜ「自然と」そのどちらかの解釈をして、なんら違和感を感ずることもなかったのか? 相手はなぜ違った解釈にたどりついたのか? 自分の解釈の妥当性を主張し、それ以外の解釈にはどんな不整合があるのかを、相手にどう説得したらいいのか?
議論を進めると問題点がわかってくる。
問題の箇所、
私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も(A)住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。(B)それより先はよくわからないのだ。むろん(C)地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。
において、「その」といって指し示せる候補が文脈上、下線を付したABCの三箇所ある(それより遠くなってしまうと「その」という指示が曖昧になってしまう。だからちょっと遠い「幻想的」と「感性的」といった目立つ対比を指していると考えることはできない)。
ABを指しているのだと捉え、Cをいわば括弧に括っておくのが「内と外」という解釈だ。一方「その」に近いBCを指していると捉えるのが「外と外」という解釈だ。
どちらの解釈も、文脈上は成立する。
クラスによっては①と②以外に③を主張する者が現われる。
指示していると見なせる候補が三つあるのだから、組合わせは3通りだ。
残る組合わせはACである。つまりA「なじんでいる円の内側」とC「地図でわかっている円の外側」が「結びつかない」というのだ。
なるほど。
それぞれの指示内容に応じて「実質的に結びつかない」のニュアンスが変わる。
①「内と外」では「繋がらない・連続しない」といったニュアンス。
②「外と外」では「重ならない・一致しない」といったニュアンス。
③「内と外」では?
後に続く文脈はどうなっているか?
続く「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである」はBが「よくわからない」と言っていることを受けた説明だ。したがってABの組合わせでもBCの組合わせでも、後に続く文脈は成立する。
ACの組合わせでは「歩いたことがなければ」Cの「わかる」がAの「なじんでいる」にはならない、と言っていることになる。
これ以外にも考えられないわけではない。
④ABとC
⑤AとBC
これらは一体どういう解釈だと考えればいいか?
①から⑤まで、それぞれに可能な解釈ではある。
果たしてどう考えるのが妥当なのか? 柄谷行人は何と何を指して「その二つ」が「結びつかない」と言っているのか?
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