ここに平野啓一郎「『本当の自分』幻想」をぶつける。
1学年の「国語総合」の教科書に収録されていた文章だが、授業で詳細に読解したというわけでもないらしく、皆、見覚えはあるが内容はどうだったか、といった曖昧な反応だった。
題名の通り、これは「自分」論だから、鷲田-斎藤ラインには載ってくるが、丸山真男にはやや縁遠い。とはいえ「である/する」は考える/語る枠組みとして使い回せばいいのだ。
対応関係を探るというのが毎度のパターンだが、読んでみると、今回は相違点が意識されてこないだろうか?
特に主張の方向性が見易い斎藤「『キャラ』化した若者たち」と比較したい気がする。
とはいえ「相違」として意識されるのは、共通した土俵で比較するからだ。だからまずは共通点、共通認識を明らかにして、その上で相違点を探る。
共通点/相違点、どちらも抽象化の能力が問われる。それぞれの文章の言葉のままでは、同じとも違うとも言えない。
むしろ、同じ言葉が使われていても、それが文中の使われ方によって定義される意味合いが違えば、そのままで「相違」とも言えるし、だからといって主張が「相違」しているとは言えないのだ。
例えば平野は
キャラという比喩は…インタラクティブでない印象を与える
というが、斎藤は
「キャラ」を維持させてくれるのが、コミュニケーションの力なのである
という。
「インタラクティブ(相互的)」と「コミュニケーション」を同じ趣旨だとみなすと、まるで正反対のことを言っているように見えるが、これは見解が相違しているというより、「キャラ」という言葉の文中での使い方が違うのだと感じられる。
平野の文中から、上の斎藤の言葉に近い意味合いの一節を抜き出すなら「分人は…相手との相互作用の中で生ずる」だろう。
ここでは「コミュニケーション」と「インタラクティブ・相互作用」を同じものとみなしているのだから、斎藤の「キャラ」と平野の「分人」が対応していると考えられるわけだ。
上の認識の前提として、次の記述を共通性として挙げた班があった。
平野 「本当の自分」には実体がない
斎藤 自らの「固有性」には根拠がない
そこから次の認識に至るわけだ。
平野 「分人」は他者との相互作用で生ずる
斎藤 「キャラ」は相手とのコミュニケーションで維持される
ここでの抽象化とは、文型を揃えて、そこで対応する成分を交換可能と見なせるかどうかを検討するということだ。
これらの対応を認めるならば、まずは二人には共通した認識があるということになる。
さてその上で相違点をどう抽象化するか?
平野 「分人」は流動的・可変的
斎藤 「キャラ」は同一性の維持こそが目的(固定化を指向する)
平野 「分人」こそ自分自身
斎藤 「キャラ」は偽の自分
さらに平野は「分人」という概念を肯定的に提起しているが、斎藤は「キャラ」の負の面を描写している。
まずはこうした共通点と相違点の把握が妥当なものかを疑うことも必要だ。抽象化の過程で、不適切な言い換えをしていないか?
そのうえで、これを認めるとして、次はこの相違について、皆の賛否を問いたい。
もちろん心情的な共感というだけでなく、それぞれの論の論理をたどり直して、その適否を問題にするのである。
そこに何が見えてくるか?
0 件のコメント:
コメントを投稿