2021年5月7日金曜日

「キャラ」化する若者たち 1 斎藤環参戦

 鷲田清一「ぬくみ」を、丸山真男「『である』ことと『する』こと」の枠組みを援用して読み解いてみた。

 ここに、「ちくま評論選」から、斎藤環の「『キャラ』化する若者たち」を加えて、さらに問題を考察してみよう。


 鷲田と丸山の論考の大きな違いは何か?

 見解の相違ということではなく、論点の重心の違い、といったようなものである。

 前項の通り「丸山=モダン/鷲田=ポストモダン」という相違がまずある。

 それ以外に、丸山が論じているのは社会の仕組みであり、鷲田の論じているのは個人の内面についてだ、という相違も挙げられる。

 この「社会/個人」という相違は、丸山が政治学者であり鷲田が哲学者であるという専門分野の違いからすればなるほどな感じがする。

 さて、斎藤環は何者か。精神科医である(ついでに筑波大の医学群の教授でもある。サブカルにも堪能で、もちろんエヴァ論もある)。

 ということでまずは当然鷲田の論との近親性が感じられる。

 だが、何事かを語るには「である/する」図式がやはり便利だ。言葉がシンプルで、かつ包括的だからだ。そうなると丸山との関係も視野に入れる必要がある。

 そして「近代」についての認識が共通していれば、それをベースにそれぞれの認識を比較することができる。


 さて、読み比べれば、様々な方向で、様々な切り口で、様々な論点について考察できる。たっぷり時間をとって話し合いをさせて、なるべく多くの発表をききたい。どこにどんな可能性があるか、それらをつぶさに見たい。


 が、共通した論点を示さないと授業としてはまとまりが悪い、とも言える。話題がそれぞれにばらばらでは噛み合わないかもしれない。

 そこでこちらで問いを立てる。


 「ぬくみ」を次のような一文で表現してみよう。

若者は他人とのつながりを求めている。

 同じく「『キャラ』化する若者たち」を一文にする。題名をそのまま文章の形にする。

若者は「キャラ」化している。

 もちろんこれは斎藤の論の入口に過ぎず、文章全体の趣旨を充分に酌んでいるとはいえないが、一文という限定の中ではまずまずの表現だろう。


 さてこれら二つの文を「つなげて」みよう。どちらから出発してもいい。言い換えたり、「なぜなら」や「つまり」で前後を補ったりしていくと、もう一方の文にたどりつくだろうか?

 それができるということはつまり、それぞれの一文で示された認識は、表われ・切り口は違うものの、同じ認識を示していると考えていいのだろうか?


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