最後に用意した「情報流」は充分な時間がとれなかった。「内閉化する『個性』」と「情報流」にそれぞれ1時限を使えたクラスが一つだけあったが、どちらの考察も1時限を使ってさえ、まだまだ深めることができそうだという手応えだった。
これまでの読み比べ同様、切り口によって、さまざまな分析が可能だ。
ただ、西垣通の「情報流」の比較は、ここまでの3編とは違った難しさがある。抽象度の違うところに土俵を設定する必要があるのだ。
ここまでの鷲田、斎藤、平野、土井は、言わば「自分」論だ。主観的な自己意識の様相について、その背景からの分析を述べている。
それに対し、「情報流」は言わば「人間」論であり、その図地一体となった「社会」論である。「人間」についてのある見方が提示されていて、上の諸氏の論は、それらの見方の内部で、それらの人々が「自分」をどう捉えているかという主観が問題にされている、と言える。
どのような「人間」観が提示されているか?
対比構造は明確だ。
孤立した個人/情報流の一部
ここに時間軸を持ち込んで、三層の対比図を画く。
プレモダン/ モダン /ポストモダン
共同体の一部/孤立した個人/情報流の一部
この、近代(モダン)的「個人」観が、鷲田の言う「自由な個人」であり、斎藤・平野・土井らの言う「本当の自分」の幻想につながってくる。
それに対して西垣の描く「個人」は、「情報システム」の一部だ。そこでは「個人」は、周囲の世界の構造の中に置いて捉えられ、「個」と「群」が入れ子状のフラクタル図形的イメージで描かれている。身体も精神も社会も、それぞれ「情報流」のアナロジーで捉えられている。
とすれば、「情報流」の考え方による「個人」は、平野の言う「分人」や、土井の言う「社会的個性指向」につながってくる。
つまりみんな「近代」的人間観に対する反省や批判としてそれぞれの論を構築していると言っていいのである。
一方「『である』ことと『する』こと」は、特に前半部の「非近代」批判においては、正しい「近代」を目指すべきだと言っている。それは自律した個人が集まって作る社会のイメージだ。丸山にとって「近代」はまだ明るく輝く未来だったのだ。
それは「『市民』のイメージ」にも共通している。アメリカの陪審員制度をモデルに日野啓三が描きだす「市民」は、西垣の言う「神の理性を分有する」「個人」である。新興国アメリカをモデルにすれば、近代もまだまだ新鮮な理想と見える。
そこに「自由や責任」が生ずる。そしてそれは同時に「つながっていたい」という寂しさをも生む。
一見したところ無関係に見えるそれぞれの論が、「近代」を接点としてあらたな相貌を見せる。
0 件のコメント:
コメントを投稿