2020年5月11日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 14 -「問い」と「答え」

 いよいよ「ホンモノのおカネの作り方」最終回です。
 全体を捉えるための「問い」と「答え」のセットを考えます。

 まず題名からすぐに思いつく「ホンモノのおカネの作り方とは何か?」「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」はイマイチです。「作る」が不純な夾雑物として考えるべき像を不鮮明にします。
 次の組み合わせはそれよりは良い。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの
 「作る」を取り除いて、この文章のポイントがいくらか鮮明になりました。
 それでも問題は「答え」です。この、本文そのままの「答え」がわかりにくいからこそさらに問うているのでした。

 さて、グループ討論の中では、さまざまな「問い」と「答え」のセットが提案されました。例えば次のような組み合わせはどうでしょう?
問い どういうおカネがホンモノになるのか?
答え 利便性の高いもの(「預かり手形」など)。
 もちろんこれは間違っていないのですが、果たしてこの「答え」は、この文章の全体もしくは中心的な論点だと感じられるでしょうか?
 この「答え」は、上のわかりにくい「答え」に対して、付随的な条件を言っているというに過ぎません。「利便性の高さ」は「代わり」になるための条件の一つです。

 それよりも、この文章を読解するためのここまでの考察は有機的に結びついているはずです。上の「わかりにくい」「答え」は「逆説」そのものです。そして「問い」に含まれる「ホンモノ」についても考察しました。
 それらの成果を活かして「答え」を言い換えてみましょう。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え 「ホンモノのおカネ」などという絶対的なものは存在せず、「ホンモノ」とはその時々の「代わり」に対する相対的な「ホンモノ」でしかない。
答え 「ホンモノのおカネ」は変化していく流動的なものであり、絶対的な「ホンモノのおカネ」など存在しない。

 「ホンモノ」という片仮名表記についての考察がこの「答え」に活かされています。題名にも使われている「ホンモノの」という形容は重要なポイントです。

 これで終わりではありません。
 この文章は「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」を通して「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を考えているのだ、と言うことができます。
 これをさらに突き詰めて言えば「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を通して、この文章は「『おカネ』とは何か?」を考えているとは言えないでしょうか?
 実はこれこそ、最初に「問いを立てる」というメソッドを提示した時点で、こちらが想定していた「問い」です。
 この文章は、「おカネ」=「貨幣」の本質について考察しているのです。

 この「問い」を立てて、それに対する「答え」を考えたグループもありました。
問い おカネとは(そもそも)どのようなものか?
答え1 物質ではなく機能
答え2 人々の信用・承認によってなるもの

 「答え1」はニセガネ作りたちの失敗の教訓をうまく抽象化しています。
 「答え2」は教科書54頁の「実際、天王寺屋や鴻池屋ほどの大きな資力も厳重な金蔵もないところには、ホンモノのおカネを作り出すあの逆説は見向きもしてくれない。」という部分の趣旨を解釈したものです。良いところに目をつけました。
 これらと先ほどの「ホンモノの」の考察を合わせて表現してみましょう。
答え おカネとは、それを作っている物質に依存しているのではなく、それにみんなが価値を認めることによって成立するのであり、それには人々の信用を支えるだけの背景(資金力・金蔵)が必要である。
 これはこの文章の趣旨をなかなかうまく捉えていると思います。

 それでもなおかつ、ここには「逆説」の意外性、「似せる」「代わり」といった重要なキーワードのニュアンスが表現されていません。その意味で、まだこの文章の全体・中心を捉えているとは言えません。
 「似ている/似ていない」「代わり/ホンモノ」といった重要な対比要素は「おカネとは何か?」という「問い」に対してどのような「答え」を構成するのでしょうか?

 「似ていない」と「代わり」という言葉を使い、かつ「逆説」のニュアンスを出すように、この文章の主旨を表現してみます。
ホンモノに「似せる」ことでは「ホンモノのおカネ」になれず、「似ていない」ものこそが「ホンモノ」の「代わり」に「ホンモノのおカネ」になる。これこそが「おカネ」=「貨幣」というものの本質である。
 これが岩井克人がこの文章で論じている最も重要な論点だと授業者は考えています。
 いえ、こんなふうに言ってしまうと、結局は最初の「わかりにくい」「答え」といくらもかわりません。結論だけをすっきりと表現してしまうと、かえってその内容が頭に入ってこないということがあるのです。

 「似ていない」こと。
 「代わり」であること。

 この二つが「貨幣」の本質だ、というのがこの文章の主旨です(と大胆に言ってしまいます)。みなさんはこれまでの読解で、本当にこのことに納得しているでしょうか?

 貨幣経済が存在しない世界を考えてみてください。そこでの交易では物と物とが直接交換されています。いわゆる物々交換です。
 そこへ交換の取次ぎに「おカネ」が介入します。肉を「おカネ」に「代え」、「おカネ」を木の実に「代え」ます。本当に欲しいものは肉や木の実であり、「おカネ」はその「代わり」として、それらの交換を媒介します。
 つまり「おカネ」とは最初に存在を始めた時から一貫して常に、価値ある物の「代わり」だったのです。「代わり」であることこそ「おカネ」の本質なのです。

 その「おカネ」は、ある時にはそれ自身価値をもった金銀だったりしました。つまり、肉を金銀に「代え」、金銀を木の実に「代える」という交換が、「おカネ」を介した交換ということになります。
 だがこれは本当に貨幣による売買と言えるでしょうか。このような交換は物々交換と一体どこが違うのでしょうか。
 しかしその金銀が、それ自身の価値に見合った重さの金銀ではなく、わずかな金銀に数字を刻印しただけの薄い板金に「代わった」とすればどうでしょう?
 その板金には、それ自体、物質的には交換する物(肉・木の実…)の価値に見合った価値はありません。
 にもかかわらず、この交換が成立した時、交換の媒介としての金銀は初めて「おカネ」になったのです。
 つまり、媒介物が「おカネ」すなわち「代わり」になるためには、交換対象と「似ていない」必要があるのです。
 「似ていない」というのは「価値ある物」と「代わり」=「おカネ」が違う階層にあることが認識される、ということです。「価値ある物」こそ「ホンモノ」であり、「おカネ」は「代わり」です。
 両者は「似ていない」ことによって違う階層であることが明らかでなければなりません。「おカネ」が交換対象(価値ある物)と「似ていた」ら、「おカネ」が「代わり」であることは認識できず、それは単なる物々交換に過ぎないか、あるいは交換が階層の違うものの混在によって混乱してしまいます。
 「おカネ」はそれ自身には価値がない(紙幣が単なる紙切れであるように)ことによって、価値ある交換対象とは「似ていない」ことが必要なのです。
 「おカネ」は、交換対象とは「似ていない」ことによって区別される、すなわち違う階層(これを「メタレベル」といいます)にあることによって「代わり」になれるのです。

 価値あるモノ「代わり」であること。そしてそのモノ「似ていない」こと。
 この二つの性質こそ、この文章から導かれる「おカネ」=「貨幣」の本質なのです。

 こうした主旨を、本文から直接に引用することはできません。
 ですが、この文章を貫く最も根源的な「問い」を考えれば、岩井克人はこうした貨幣の本質を射程に収めていると考えざるを得ません。
 そしてここには、これまで考えてきたことが全て総合されているのです。

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