第2回のプレ講座を実施しました。
今回も、こちらではコントロールしきれない迷走の末に、思いがけない認識に至る瞬間はとても楽しい。その瞬間に向けて知恵を出し合ってくれたみんな、ありがとう!
さて、第2回のプレ講座を終えてのまとめです。
第1回に考察した、末尾の「特許出願中。」について、今回の導入に再考しました。
小説は最後の最後にこの一文を置いて、唐突に終わります。教科書ではよりによって左頁の最終行にこの一文が現れ、呆気にとられて頁をめくると、そこには作者の写真と紹介があって、この小説がここで終わっていることが知らされます。
この一文は何を意味しているのでしょうか?
…という問い方は、一方では自由な発想による考察を可能にするのかもしれないのですが、一方ではとっかかりがつかめずに、このままでは埒が開かないかもしれません。
そこでまずは上の34頁のやりとりの分析に用いたのと同じ問い方をしてみましょう。
この一文は何が「おかしい」か?
T君は「そこまでのファンタジー的な世界からいきなり現実的になる」と言いました。Tさんはこれを「カメラが急に切り替わる」という比喩で表現しました。
確かにそこまでの、主が暖炉の傍でパイプを咥えているような世界や、戦闘中の街の少女がいる世界からすると、「特許出願」という言葉はあまりに不似合いです。発言者が表現するように「事務的な」「ビジネスっぽい」言葉です。決してファンタジーっぽくはない。
我々は様々な物語を、それがどのような世界のものであるかという予期のもとに享受しています。これをしばしば物語における「世界観」などと言います。予期は作品に入る前の予告編によって形成され、読みながら(観ながら)次々と更新されていきます。
この最後の一文は、その「世界観」に対する予期を裏切るのです。
この二つの「世界観」を対比的に表現するならばS君の言う「物語/現実」でしょうか。
最後の一文だけ、いきなり「現実」的な手触りを感じさせる「世界観」が闖入して、しかもそこでいきなり終わるのです。
だがこの結末についてY君はむしろ「現実と違う」という言い方をしました。
なるほど、このように「少年」が嫌われている「世界」は我々の生きる「現実」と違います。
これはつまりこういうことです。そこまでの「物語」的世界は、我々の「現実」と違うことが前提になっているので、違うこと(ドラゴンがいること、「…なんじゃ」などという「非現実的」な喋り方をするおじいさんがいること)をそのまま受け入れているのですが、「特許出願」という言葉によって「現実」と接続されたとたんに、我々の「現実」との比較が可能になって、そこで「違い」があらためて浮上するのです。
さらにこの結末の違和感について、YさんTさんの対話の中で、この一文によって、かえって終わらずに規模を拡大して続いていく感じになる、にもかかわらず、それについての説明はなく終わってしまう、というような表現がありました(「強制シャットダウンのような」byT)。
私なりに解釈するならそれはこういうことです。
人々の心を癒やすために作られたというメカの正体が明かされたところで終わるのは、物語としてはある種の終わり方としての安定感があります。老夫婦を癒やし、少女を癒やし、これからもメカは傷ついた人を癒やすために旅を続けます…。
ところが「特許出願」という異なった世界観が提示されたとたんに、物語は完結せずにさらなる拡大を始めます。別な世界への通路が示されるからです。
にもかかわらずそこで小説はいきなり終わるのです。
さて、そこまでの世界についての予期を裏切られた読者は、どのような認識の変更を迫られるのでしょうか。
この一文から何がわかるか?
前回、まずはこの一文からわかることは何でしょう、という問いに対して答えてくれた人の発言には前半組、後半組ともに共通して「メカが傷ついた心のケアをするために作られたこと。また、そのような人は他にもいっぱいいる」という要素が入っていました。
ここには「特許出願」という言葉から「わかる」ことと、その前の段落からの数行の情報が混ざっています。
ここから、末尾一文に限定して「ここからわかること」を抽出してみましょう。
まず「特許出願」という言葉は、このメカが商品であることを示しています。
ということはある程度の需要が見込まれるということです。前の数行からわかる、大勢の傷ついた人々がいるという情報が、「需要」という経済用語に換言されます。
商品であるからには、この世界では経済活動が行われていることになります。
経済活動と共に、特許権を保護するような高度な社会システムがあるということでもあります。
そして商品であるからには、おそらくメカは一体ではありません。試用品としては、この時点ですら複数のメカ少年が同時に世界中を旅している可能性もありますが、特許が認められたあかつきには間違いなく大量生産になるのでしょう。
「少年」が複数であることは途中の情報から認めたとしても、物語の主人公である「メカ少年」そのものが複数である(複数になる)可能性については、読者の予期の範囲外です。物語の享受者は、物語に出てきた「それ(彼)」に思い入れてしまうので、それが複製可能な商品であることを認めたくはありません。「それ」と同じものがいくつもある状態は居心地が悪いのです。
これもまた最後の一文が読者に与える違和感のひとつです。
拡がった「世界」はどのようなことを読者に考えさせるでしょうか。
例えばこのような商品を誰が作り、誰が買うのでしょう?
前半後半いずれの講座でも「自分でも『少年』に傷つけられた過去を持つ人が作ったのでは?」という意見が出ました。
この発想は自然です。
思わず連想してしまったのは手塚治虫の『鉄腕アトム』の天馬博士です。彼は自分の息子を事故で亡くした悲しみから少年型のロボット、アトムを作りますが、息子に似せて作ったアトムが成長しないことに苛立ち、やがてアトムを棄てます(みんながアトムの保護者としてイメージするのは、その後アトムを引き取ったお茶の水博士かもしれません)。
そういった個人的な心理ドラマを開発動機として持った「博士」がこのメカを作ったのだろうという想像は、「物語」の世界観にふさわしい。
だがこのような「博士」は、そのメカを「特許出願」するでしょうか?
また、Yさんが指摘するように、「何年も…何十年も」旅を続けていつ商品化されるかわからない試作品が特許を獲得するまで老博士が待ち続けると考えるのには無理があります。
そう考えると、このメカを開発したのは大企業かもしれません。「博士」も、そのような企業の研究室に所属しているのです。となれば、個人的なトラウマに基づく発明ではなく、マーケティングに裏打ちされた需要を見込んだ製品開発です。ベンチャー企業では「何十年」もの回転資金が保たないかもしれないので、ある程度は多角経営をしている大企業の製品かもしれません。
一方、いったんは癒やされたものの、やがて再び傷ついた少女は、今度は製品となったメカ少年を買うのでしょうか?
購入を期待されているのは、地方自治体などの公的機関や企業かもしれません。会社で1体、市で1体、県で数体、みたいに、人々の心を癒やすカウンセラー、セラピストとして、公的機関や企業がメカ少年を購入するのです。
さて、こんなふうにこの小説の「世界」に分け入って、そこがどのような「世界」なのかを考えていく、という小説の読み方はできます。
このような読み方は、それはそれで楽しいのですが、実は最初にこの小説を教材として取り上げた時に提示した「この小説をどのように読んだら良いか?」という問いの設定からすると、この方向はどこかで行き詰まってしまうんじゃないかというのが授業者の見通しです。
では、この「世界」を、ではなく、この「小説」をどう読んだらいいのでしょう?
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